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第34回:おとむらいマンガの最高峰は『釣りキチ三平』である(その3)

第34回:おとむらいマンガの最高峰は『釣りキチ三平』である(その3)

2026.04.14田中 大介(自治医科大学医学部・大学院医学研究科 教授)

 前回と前々回を通じて『釣りキチ三平』が描き出すおとむらいの世界をご紹介してきましたが、今回の「その3」でひとまず終止符を打ちたいと思います。それでも紹介しきれない情景が『釣りキチ三平』にはまだまだ数多く散りばめられているので、何とも名残り惜しいというか、やり残した気持ちでいっぱいなのですが、さらに続けてしまうと、このコラムが次回から「大解説! 釣りキチ三平にみるムラの葬儀」や「矢口高雄の描くおとむらいの世界」にリニューアル、なんてコトになりかねませんので、どうかお許しを。あっ、でもそれって結構良いアイデアかも! どうでしょう、南江堂のYさ……

おらの母ちゃんがいる

 ……あ、いえ……そんなコトを伝えた瞬間に「センセイも土のなかに埋めてさしあげましょうか?」というYさんの返事が電話の向こうから聞こえてきそうなので1)、読者の皆様にはぜひ原作をお読みいただくとして、まずは前回までのお話をざっと振り返っておきましょう。

 穏やかな姿で息を引き取った一平じいちゃんの死から二晩が明けて、いよいよ葬儀の日。その早朝には墓掘りの作業があり、一平じいちゃんと親しくしていた数名の男性たちが連れ立って墓地へと向かいます。というのも、三平君の暮らす村は火葬ではなく、土葬の風習が未だ残されているからです。そしてその一行には、喪主として墓掘りを見届ける役目を担う三平君の姿もありました。そのとき、「ほんじゃあ、一平じいさんには三平くんの母ちゃんのとなりに眠ってもらうとしよう」という安蔵さんの指示に沿って地面を掘っていくと、カキーンとスコップの先に何かが当たる音が。それは、かつて三平君の母を葬ったときに、棺のなかに納めた遺品だった……と、こんな場面で前回は終わっていましたね。

 ここで、墓を掘るということの意味合いについて、前回の最後に続いてもう少しだけ補足をさせてください。唐突ですが、皆さんも「村八分」という言葉を聞いたことがあるでしょう? ムラのしきたりや慣習に従わなかったり、あるいは近隣の者に迷惑をかけたりした家とは、火事と葬儀の2つを除いて交際を絶つことを指します。それでは、どうして火事と葬儀だけは例外なのか。まず火事については、理由は文字通り火を見るより明らか。だって、「あの家は火事だけど、絶交してるから」なんて放っておこうものなら、そのまま火が燃え広がって自分の家どころかムラ全体が焼けてしまう事態になりかねませんから2)。それでは、葬儀については?

 もちろん、人が亡くなったというのに何もしないのは、あまりにも忍びないから……という理由もあったに違いありませんが、それ以前にひとりだけで(あるいはひとつの家だけで)墓を掘るなんて、到底出来っこないんですよ! 「出来っこない」というのは言い過ぎかもしれませんが、いずれにせよ人間ひとりの遺体がしっかりと土中に埋まるだけの大きさと深さの穴を掘るって、それはもう重労働なんです。かと言って、浅く埋めたら動物などに掘り返されちゃいますし、それに「埋める」のではなく土を「被せて」おいただけでは、相当の量の土を被せておかないと、ちょっと土砂降りでも続けば遺体が地面から露出してしまいます3)。ですから、映画や小説などで殺人犯が遺体を土中に埋めて完全犯罪を狙うなんていうシーンをたまに見かけますけど、実際にはたぶん穴を掘っている間に警察に見つかるか、さもなければ汗だくになってヒイヒイ言いながら「こんなコトやってられるか!」とスコップを投げ出すのが関の山。それだけでなく、いくら村八分にしてるからと言っても遺体を腐ったまま放置するのは衛生的にもマズイわけですし、そもそもムラの中で死のケガレをそのまま放置しておくということに他なりません。

 で、何が言いたいのかというと、墓を掘るという作業は「この場所で暮らす者は、今生きている者も、これまで死んだ者も、これから生まれてくる者も、皆つながっている」という人間関係のつながりと、その長い積み重ねを再確認する場でもあったのです。だって、「つながっている」からこそ自分の家の人以外の誰かが墓を掘ってくれて、いま墓を掘っている人もゆくゆくは同じように他の誰かに掘ってもらって、弔ってもらうわけですから。そして三平君の場合、それはこんな出来事となって訪れたのでした……。

母ちゃんと出会う
[『釣りキチ三平』第64巻, p.132-133より引用]

 遺品の湯呑みがスコップの先に当たった、というか「当たってしまった」ことに気づいたハチマキ姿の丈助さんがさらに穴を掘り進めていくと、そこに見えたのは三平君の母親が眠る棺の朽ち果てた側面。すると、それまで抜け殻のようにボーッとしていた三平君は、いきなり半狂乱になったかのように、「一目あわしてくれーっ!」「どんなすがたになってようと、おらの母ちゃんだ!」と暴れ出してしまいます。それを皆で羽交い絞めにしながら、「三平君、そんなの見るもんじゃねえ!」「なんぼなんでもいかんよ、三平君。もう10年以上も前に死んだ仏さんなんだから」と必死で制止するのですが、それを振り切って三平君が穴のなかに飛び込むと……そこには、自分を産んでそのまま息絶えてしまった母親の遺骨がありました。

 「手もとがくるっちまってスコップがとなりの棺をつきやぶっちまったんじゃ」「まだくさりきらずにのこっていたんじゃよ」とその場にいた人びとが語るなか、三平君は両手で頭蓋骨を捧げ持つようにしながら、「母ちゃん……わかるか……? おらだ、三平だ……」と話しかけます。返事はなくても、それはたしかに死んだ母親との会話であったに違いありません。そして、その長い時を隔てた母と子の再会の光景に皆が自然と両手をあわせると、三平君は自分をこの世に送り出してくれた亡き母との「つながり」を噛みしめるように目を瞑りながら、こう思うのでした。

おらの母ちゃんだ!
まだ一度も見たことのねえ母ちゃんが、いまおらの手の中さいる
こんただすがたになって……
人は死んで土に帰るという
じいちゃんもこうなっちまうんだろう……
こんただすがたになって、土さかえってゆくんだろう……4)

旅立ちのとき

 その後、墓掘りを終えた皆を三平君の家で迎えたのは、割烹着姿で「朝ゴハンだぞ~っ!」と威勢よく声を張り上げるタカさんの姿でした。葬儀だからといって、先ほどの墓掘りのような非日常の場面だけではありませんから、当然ご飯だって食べないわけにはいきませんよね。このような日常と非日常が入り混じる情景も、ムラの葬儀を描き出すなんとも細やかなディテールですが、ここからいよいよ葬儀当日に行われる一連の流れが克明に描写されていきます。

 一同で腹ごしらえを終えて、しばらくすると先ほど墓掘りに加わっていた丈助さんが外に出てジャラーン! ジャララーン! と大きな音を響かせました。両手に持っているのは、第25回でも登場したシンバルのような和楽器、鐃鈸(にょうはつ)です5)。「と! その音を合図に家々から一斉に人影がでた! じいちゃんの野辺送りに参列する村人たちである」。そんな光景が繰り広げられた後、少し間を置いて導師をつとめるお坊さんもやってくるのですが、もうこんなあっさりと書くのが申し訳ないほど、コマのひとつひとつに緻密な情報が散りばめられているんですよ。

 祭壇の荘厳(しょうごん)、つまり供物や仏具で祭壇を飾る際の様式。埋葬した場所に木墓標として建てる笠付の角塔婆(かくとうば)と、そこにお坊さんが書く文字。天蓋(てんがい)をはじめ、葬列に用いる野道具(のどうぐ)と呼ばれる各種の葬具の意匠。そんなディテールがサラリと、しかし細部まできっちりとコマの隅々まで描かれていて、何となればお坊さんが葬儀や法要の際に着る袈裟(けさ)まで緻密かつ正確に表現されているのですから、もうこれを見て驚くなというほうが無理だと言っても過言ではありません。とは言え、この最終章が連載されていた1980年代前半には既に消え去りつつあった民俗ばかりですから、こんな描写を見せつけられた当時の少年少女の多くは、どこかの田舎で行われている古式ゆかしい葬儀としか受けとめられなかったでしょうね。

 しかし、一応はおとむらい研究者であるワタクシとしては、もうページをめくるたびに圧倒的な描写の連打が続くので、もうこれだけでノックアウト寸前のボクサーのようにフラフラになってしまったほど。極めつけは、いよいよ葬儀が始まってからのお坊さんの所作です。シュワッと払子(ほっす)6)を振ると「流転三界中 恩愛不能断 棄恩入無為 真実報恩者」と厳かな声を発し、その後に剃刀をチャリーンとかざして「剃除鬚髪 当願衆生 永離煩悩 究竟寂滅」と読み上げるのですが、これは葬儀の作法で重要な部分を構成する「剃髪(ていはつ)の儀」で読まれる偈文(げもん)7)で、何と、これらの偈文や経文が一言一句、しかも正確に書き出されているではありませんか! そのうえ、しっかりと「カミソリでそるまねをしている。剃髪の儀といって頭の髪の毛を剃る儀式で、つまりじいちゃんは頭をまるめてお釈迦様の弟子になるのだそうです」と三平君に心のなかで語らせることで、読者に儀式の趣旨まで説明しているというオマケつき8)。こんな光景を事細かく、少年マンガ誌に数ページを費やして描き出すなんて、もう「おらがムラのおとむらいを隅から隅まで描いてやるから覚悟しろ!」なんていう矢口先生の鬼気迫る執念すら感じてしまいます……。

 さて読経が終わると、いよいよ出棺です。皆がめいめいに一平じいちゃんの遺体をおさめた棺を覗き込んで別れを惜しんだ後、「それじゃあボチボチふたをうちつけるぞ」ということになるのですが、三平君は「ちょっと待ってけれ。うちつけるのは墓さいってからでもおそくはねえべ!」とそれを押し留めます。それは、どういうわけか魚紳さんが未だ姿を現していないからでした。しかし、そのまま皆で魚紳さんが来るのを待つというわけにもいきません。兎にも角にも出棺となり、葬儀委員長を務める釣友会の会長さんが「それでは出棺にさきだちまして役付を発表いたしまーす」と高らかに、ひとりずつ葬列の順番を読み上げていきます。

役付
[『釣りキチ三平』第64巻, p.160-161より引用]

 このように葬列で歩くときの順番、もしくはその順番を上の画像のように読み上げることをよく役付(やくづき・やくづけ)と呼びますが、そう言えば第6回のコラムで「すでに昔のような葬列は行っていないものの、かつての名残りとして役付を葬儀会館のロビーに貼り出している」という事例を写真とともにお伝えしましたね。この役付のシーンにもかなりのページ数が割かれていて、しかもそこで描き出されているさまざまな葬具も、よくぞここまで……と唸ってしまうほど細部が描き出されています。それに対して、思わず笑ってしまったのが、この役付にしっかりと矢口先生と担当編集者が登場していることです。ちなみにお二人が担当しているのは奠湯(てんとう)という葬具、というよりは湯呑茶碗で、現在でも曹洞宗や臨済宗などの禅宗系の宗派9)では、この奠湯が葬儀の式次第に組み込まれている場合がしばしば見られます。

 そして、いよいよ一平じいちゃんがあの世へ、そして代々のご先祖様が眠る墓へと旅立つときがやってきました。

出棺
[『釣りキチ三平』第64巻, p.166-167より引用]

 準備が整ったことを確認した安蔵さんが、「それでは出発~っ!」と声をあげた瞬間。輿(こし)を担いだ丈助さんたちが「おう!」と威勢よく応じると、鐃鈸が高らかに打ち鳴らされます。もう、このコラムでは輿も鐃鈸もおなじみのアイテムになってしまった感がありますが、それはかつての葬儀でこれらの葬具がごく普通に用いられていたからとも言えるでしょう。

全て、実体験だった

 そして、この後も葬列や埋葬の克明な描写が続き、何となれば葬儀が終わった後のさまざまな段取りに至るまで緻密に描き出されているのですが、このままだと「釣りキチ三平編 その4」どころか「その126」ぐらいまで書き続けなければならないので、ここでグッと堪えて本編のご紹介を終えることにしましょう。えっ、魚紳さんは結局やってきたのか、ですって? ご心配なく! いざ、一平じいちゃんの棺を土のなかへ……というときに、なんと白馬の騎士よろしくヘリコプターで墓の近くの田んぼに降り立ち、最後の最後で何とか間に合いましたから。一見すると風来坊のようでありながら、実は鮎川財閥の御曹司である魚紳さんにしかできない離れ業ですよね。だだっ広い田んぼとは言え、私有地にヘリコプターで降り立つなんて、どれだけ財力と政治力を駆使したのやら……なんて不謹慎極まりない邪推はさておき、この名場面もぜひ皆さま自身の目で『釣りキチ三平』を読みながらご確認下さいませ10)

 それにしても、他のエラい研究者ならいざ知らず、ワタクシのような平々凡々とした研究者ならば裸足で逃げ出してしまうような緻密過ぎるおとむらいの光景を、なぜ矢口先生は描き出せるのでしょうか。しかも、単純に「ありのままを描く」といった次元を超えて、たとえばコマの片隅に描かれた小さな葬具ひとつにしても、いつ・どこで・どのように使うか、その由来なども熟知していない限り絶対に描けない細部や構造まで含めて克明に表現されているのです。当初、ワタクシはその理由が矢口先生の綿密な取材と、その常人離れした観察眼によるものだと考えていました。だって葬儀屋さんでもない限り、葬儀というのは頻繁に出会う出来事でもありませんし、それより何よりひとつずつの描写が「写真でも撮ってない限り、こんなの無理だよ!」と思わざるを得ないレベルだったからです。加えて、アシスタントを務めていた漫画家のはやせ淳先生によると、矢口先生は大勢の若いアシスタントたちを引き連れて秋田の実家で合宿をすることもあったのだとか。おそらくそれは矢口作品ご自身のためというよりも、アシスタントの画力を高めるという目的11)に加えて、作画に用いる写真撮影やスケッチを行う取材旅行といった側面もあったのかもしれません。しかし、『釣りキチ三平』以外の作品を徐々に読み進めるにつれて、ワタクシは驚愕の事実に気づきました。

 前々回の「その1」で、ワタクシは矢口マンガの多くがオートエスノグラフィ、つまり自分自身の個人的な生活の経験を記録したものであるという側面が強いと述べましたよね。そしてまた、前回の「その2」では、『釣りキチ三平』に登場する魚のほとんどを、矢口先生が実際に釣っているとも述べました。もう、お分かりでしょう。そうなんですよ……これまで紹介してきた「ムラの葬儀」の光景を、そして周囲の親しい人間が死んでいくということを、矢口先生はまさに脳裏に焼き付くような強烈な体験として幼いときから受けとめ続けてきたのです。

 たとえば「その2」では、一平じいちゃんの遺体をおさめる棺をつくっている光景を載せました。ここでズーコズーコとノコギリを引いている人物がいますが、矢口先生の少年時代を描いた『オーイ!! やまびこ』に出てくる父親の容姿にそっくりなんです。性格こそ異なるものの、一平じいちゃんを現実の祖父に似せて描いたように、おそらくこのページに登場して棺をつくっている人物にも父親の面影を重ねたのでしょう。ちなみに、「おやじの髙治は大正元(1912)年生まれで、大工をしていた。夏場は施主の家で晩飯をごちそうになりながら建築現場に寝泊まりし、11月になると関東方面に出稼ぎに行った。昭和39(1964)年の東京五輪が開かれる何年か前から、決まった出稼ぎ先があったみたいだ。だから私が物心ついた頃にはほとんど家にいなかった」12)と矢口先生が語っているように、仕事の都合であまり家には戻らない方だったようで、そんな父親不在の最中に矢口先生の弟である富雄が3歳にしてこの世を去ってしまいます。この痛ましい出来事については前回の注8で触れていますが、祖父の一声で富雄は医者にかかることすら許してもらえず、最後は苦痛に顔をゆがめて母親の乳房をかきむしりながら息を引き取る13)という、当時の高雄少年にとってはあまりにも悲惨な光景でした。

 その時のことを、矢口先生は『オーイ!! やまびこ』のなかで次のように描いています。訃報の連絡を受けた父親が家に舞い戻ったのは、弟の死から一夜が明けた翌朝。タカオ少年は思わず「ケッ、なにが涙だ! おそいよおそいよ。今ごろノコノコ帰って来てなにが涙だっ!」と、悲しさの裏返しである悪態を突いてしまうのですが、一滴の涙を頬に光らせた父親はそのまま無言でドカドカと家に上がって仕事場に向かい、ピシャリと扉を閉めてしまいます。すると、扉の向こうから鋸を引くズーコズーコという音が聞こえてくるではありませんか。「そんただ仕事がしてえなら家になんか帰ってこねえで、一生仕事場さいたらいいべ」と怒りが込み上げるのを抑えつつ、一体何をしているのかと扉をそっと開けて覗き見ると……

ボクがこの時見たのは
無言で大工仕事をする父の大きなうしろ姿でした
しかしそれは
3歳にも満たずにこの世を去ったわが子を葬るための……
小さな小さな棺を作る父のうしろ姿でした14)

 このように矢口先生は、『釣りキチ三平』で描かれていた「棺をつくる」という光景を、克明な実体験として自らの視界と記憶に刻み込んでいたのです。それは他の光景についても同様で、棺づくりとともに描かれている草履づくり15)も、葬儀の開始を村じゅうに呼びかけて回る忌布令(きぶれい)16)も、そしてなんと今回ご紹介した「墓掘りをしていたら、前に埋めた人の骨が出てきた」という光景17)も含めて、これまで計3回にわたって語ってきた「ムラの葬儀」の一部始終を矢口先生自身がありありと経験してきたわけです。だからこそ、それはもうワタクシみたいなポンコツ研究者がその描写に驚くのも無理からぬことだというのは読者の皆さまも察していただけるのではないでしょうか。おまけに矢口先生の故郷は人びとが互いに寄り添い、助け合って暮らさないと生活が成り立たないような村でしたから、自分の近親縁者だけでなく、周囲の人びとの死と葬儀に関わる頻度も都会とは比較にならないほど多かったのではないかと思われます。もちろん、先ほどワタクシが「ひとつずつの描写が『写真でも撮ってない限り、こんなの無理だよ!』と思わざるを得ない」と述べたように、マンガ家として活躍するようになってから取材を重ねたこともあったのかもしれません。それにしたって、単にその場にいて見聞きしたという次元ではないことは、もう描写の端々から伝わってくるのですから、やはり矢口先生が日々の暮らしのなかで培った知識と情報の集合体、すなわち経験知から、この精緻な「おとむらい農村民俗誌」が紡ぎ出されているのは間違いないはずです18)

 その一方で、矢口先生がこれだけ緻密におとむらいを、そして人間の死を描こうとした原動力には、実をいうと連載当時の世相も強い影響を及ぼしていたようです。ある新聞のインタビューに応じた矢口先生は、この最終章を描いた背景として「当時、子供たちの自殺が社会問題になった。自分の命を断つのはやめてほしいと、少年少女に語り掛けたかった」「若い子たちが何を思い詰めたかは分からない。ただ、1人の命が失われることでどれだけ周囲が悲しむか、どれだけ自分が愛されているか知ってほしかった」という願いがあったと語っています19)。そう、大長編のクライマックスとして、主要な登場人物に死が訪れる……というアイデアを単に思いついたからというわけではなく、この『釣りキチ三平』最終章の背後には、人間の生死を見つめて、マンガを通じてその尊さを伝えようとする矢口先生の切なくも強い思いが潜んでいたのです。

 というわけで、最後にもう一度言っておきましょう。『釣りキチ三平』が、そしてそこに描かれているおとむらいの描写が唯一無二である理由は、そもそも「矢口先生にしか描けなかったから」ということを。そしてまた、神業と後世に語り継がれるような画力も、物語の構成からキャラクター設定まで一切合切を含めたマンガとしての圧倒的な完成度も、そして上に述べたような「命」に対する思いも、それらの全ての土台に矢口先生自らの生活経験があったということを。

 あっ、でも……こんなカッコいい言葉で締めくくろうとしても、当の矢口先生からは「エラそうなことばかり言いやがって! そもそも締め切りに遅れてる時点で失格だ!」とお𠮟りを受けるかもしれませんね(笑)。


1)このコラムでは何度も繰り返し述べていますが、実際の「南江堂のYさん」は温和で優しい才媛の編集者ですので念のため……。いや、本当ですからね!
2)ところが、なんと矢口先生のおじいさんの代に、矢口家は二度も火事になっているのです(『オーイ!! やまびこ』,第7巻「横座PARTⅡ」,p.185-199)。そして二度目の出火のときはムラの半分が火の海に吞み込まれるという大惨事になり、一度ならず二度までも火を出してしまった矢口家は村八分どころか所払い(ところばらい)、つまり村人全員から「このムラから出ていけ!」と言い渡されたものの、おじいさんが皆の前で泣きながら土下座して、何とか住み続けることを許してもらったのでした。その事実を知ったのは矢口先生が成人してからのことでしたが、少しヒネくれたところもあるおじいさんの性格に愛憎半ばする感情を抱いていた矢口先生は、そんな血の滲むような経験が背景にあったのかもしれないと回想しています。
3)前回の注15でも少し触れましたが、東日本大震災のときには、仮埋葬のため遺体を土中に埋めるという作業にかなりの困難を生じました。それを最初に手がけたのは自衛隊の皆さんだったのですが、当然本来の任務がありますからそれぞれの任地に戻らざるを得ず、程なくして現地の自治体職員や葬儀屋さん、そして建設業者をはじめとするさまざまな方々が、この過酷な任務をかなりの期間にわたって続けていたことはあまり知られていません。また自治体によって、穴を掘る場所や作業の進めかたなどにかなりの違いがあり、なかには本文に述べたような土を被せる「土饅頭」方式を採用した地域もありました。そしてさらに過酷だったのが、そうやって仮埋葬した遺体をあらためて火葬するために「掘り起こす」という作業です。もちろん、埋めるにしても掘り起こすにしても、これらの作業は人力では到底不可能なため、ほとんどのケースで重機を用いてはいました。しかし、遺体や棺を傷つけないように細心の注意が要求されたことは言うまでもありません。
4)『釣りキチ三平』,第64巻,p.135
5)鐃鈸は各地でさまざまな別名が存在するのですが、『釣りキチ三平』では「妙鉢(みょうばち)」という名前で呼ばれています(第64巻, p.138)。
6)柄の先にふわりとした房がついた法具で、見た目は掃除道具のハタキにもちょっと似ています。それもそのはずで、元々はお坊さんが蠅や蚊を振り払ったり、祭壇などの埃を清めたりする際に用いた道具でした。ちなみに「シュワッ」とか「チャリーン」といった擬音はワタクシによるものではなく、『釣りキチ三平』のなかで実際に臨場感あふれるマンガ的な演出として用いられているものですので念のため……。
7)経典のなかでも特に重要な部分や、仏の教えや功徳を伝える語句などに韻をつけて読み上げる文章を指します。
8)あくまで推測ではありますが、怒涛のように延々と描き出されているディテールから、三平家の宗派はおそらく曹洞宗であると思われます。卒塔婆(そとば)や墓石に描かれることの多い円相(「〇」の字)、一平じいちゃんに授けられた「浄渓院一竿太平居士」という戒名のつけ方、お坊さんが被っている六角帽と呼ばれる帽子(もうす)、授戒に際してカシーンと打ち鳴らす戒尺という法具、入堂→剃髪→授戒と進んでいく葬儀の式次第……と、その描写は枚挙に暇がありません。それらに加えて、曹洞宗の葬儀では本文中で述べた「流転三界中……」の報恩偈(ほうおんげ)や、「恩愛不能断……」の剃髪偈(ていはつげ)だけでなく、故人を仏弟子にするための重要な言葉として次のような文言が唱えられるのですが、それもまた一言一句漏らさずお坊さんに(マンガのなかで)読み上げさせています。これは「夫れ新帰元、浄渓院一竿太平居士。歸戒を求めんと欲せば、先ず當に懺悔すべし。二儀兩懺有りと雖も、先佛の成就する所の懺悔の文有り。罪障盡く消滅す。我が語に随て唱ふ可し。我昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋痴、従身口意之所生、一切我今皆懺悔」という文言なのですが……あのですね、これは曹洞宗を開いた道元禅師による『正法眼蔵』の核心を抜粋した「修証義」という経典の一節で、ある意味では曹洞宗の葬儀において最も重要な文言のひとつといって差し支えないものなんです。そして驚くべきことに、おそらく矢口先生はそのことをよくよく分かっているとしか思えない描写なんです……。
9)これらの宗派の他に、浄土宗の葬儀でもよく行われます。また、奠湯ではなく奠茶(てんちゃ・てんさ)、つまりお茶を献じたり、葬儀のなかで奠湯と奠茶の両方を行ったりする場合もあります。奠湯を行う際にはお砂糖や蜂蜜を解いた蜜湯(みっとう・みつゆ)、もしくは葛湯などの甘いお湯を用いることが通例なのですが、かつての寺院では蜜湯やお茶が最上級のおもてなしであり、だからこそ仏や故人にも捧げられていたというわけです。とは言え、現代の葬儀では茶碗だけを供えて簡略化しているケースもしばしば見られます。
10)ただ、この最終章「釣りキチ同盟」のストーリーは、良いおとむらいになってメデタシメデタシ……という話では終わりません。そもそも、「じゃあ“釣りキチ同盟”って何?」ってことになりますよね。実は一平じいちゃんの葬儀を終えた後、三平君本人も知らなかった過去が明らかになります。なんと、魚紳さんが各地を行脚していたのは釣りだけが目的なのではなく、密かに一平じいちゃんの依頼を受けて、行方不明になっていた三平君の父親を探していたのです。ここから先はあまり色々と語ってしまうとネタバレになりそうなので敢えてぼかしますが、魚紳さんから驚愕の事実を聞いた三平君は、「おらァもう釣りなんかやめたっ!」と言い出して家のなかにあった釣り竿を全て燃やしてしまうものの、魚紳さんの言葉で再び大好きな釣りの世界に戻ることに。そして季節が冬から春にうつりかわった頃。三平君は仲間たちと共に国会議事堂へと向かい、時を同じくして全国各地から100万人を超える釣りキチたちが民族大移動のごとく続々と東京に集結します。その目的は、釣りを愛する人びとが自然崩壊を憂いて「水をきれいにしよう」「資源を大切にしよう」「緑のきれいな国にしよう」と切実な願いを込めて結成した「釣りキチ同盟」の決起集会を開き、釣り竿を掲げて一大デモンストレーションを行うため。そして、その先頭には初代会長となった三平君が、一平じいちゃんの遺影を掲げて堂々と東京の街を練り歩く姿がありました……。
11)その「合宿」で得た経験を、はやせ先生は次のように述べています。「(前略)自然物が描けないと仕事にならない……ということで秋田の先生の実家で合宿をすることになりました。そこはまさしく『おらが村』の世界でした。山々に囲まれた農村は、まだ藁葺きの家が点在していて、中には熊が入った檻を置いている家があったりと驚きの連続でした。絵を描くには観察と分析が必要なので、とにかく村中を歩き回った。雑草にもそれぞれ名前があることを知り、木や岩や全て手で触り質感を確かめ匂いを嗅ぎ、川で釣りをしたり……とにかく五感を駆使して自然を味わう毎日で、とても貴重な経験となりました」(『サンエイムック 矢口高雄の世界:ART WORK 1969-2020』, p.105,三栄,2026)。
12)『マンガ万歳 画業50年への軌跡』, p.28-29,秋田魁新報社,2020
13)『マンガ万歳 画業50年への軌跡』,p.32-33,秋田魁新報社,2020
14)『オーイ!!やまびこ』,第5巻「百日咳」,p.142
15)『オーイ!!やまびこ』,第4巻「ワラジ」,p.180-251
16)この忌布令については前回「その2」の注17でも少し説明しましたね。ただ、『釣りキチ三平』では「おとむらいでーす!!」と家々に呼びかけていますが、実際にはなんと「穴ッコ掘ってけれ!」という、たった一言を延々と連呼するというものだったそうです(『オーイ!!やまびこ』,第6巻「みちくさPARTⅠ」,p.48-49)。つまり「今日はおとむらいの日ですよ」と告げるだけでなく、「墓掘りができる人は葬儀に先立って来てください」という意味合いも含まれていたのでしょう。
17)『オーイ!!    やまびこ』,第6巻「みちくさPARTⅠ」,p.46-55。ちなみに、その光景を目の当たりにしたタカオ少年=矢口先生は、「それから3日間はゴハンがノドを通りませんでした」という羽目になったそうです。
18)これこそ推測の域を出ませんが、矢口先生はもしかすると驚異的な記憶力、とりわけ見たものを写真や映像のごとく細部まで鮮やかに記憶し、それを後で自由自在に再現できるという「写真的記憶(フォトグラフィック・メモリー)」の能力を持っていたのかもしれません。矢口先生が敬愛してやまない偉大なマンガ家で、ご自身で『ボクの手塚治虫』(講談社,1993)という自伝的エッセイマンガまで描いてしまった、あの手塚治虫もそうであったと伝えられています。レジェンド級のマンガ家ともなると、そのような類まれな能力の持ち主が少なからずいらっしゃるのかもしれませんね……。
19)「矢口高雄氏“釣りキチ”最終章にこめた『語り掛けたかった』こと」,スポニチアネックス(スポーツニッポン電子版), 2015年10月25日付〔https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2015/10/25/articles/K20151025011379740.html〕(最終確認:2026年4月1日)

田中 大介

自治医科大学医学部・大学院医学研究科 教授

たなか・だいすけ/1995年に金沢大学経済学部経済学科卒業後、三菱商事株式会社入社。6年間の商社勤務を経て2001年に東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻に入学し、修士課程および博士課程を修了して博士(学術)取得。早稲田大学人間科学学術院などで教職を経て、2020年に自治医科大学医学部・大学院医学研究科教授に就任。専門は文化人類学・死生学。大学院生時代は葬儀社に従業員として数年間勤務するというフィールドワークを展開し、その経験をもとに執筆した『葬儀業のエスノグラフィ』(東京大学出版会,2017)をはじめ、主に現代的な葬制への関心を通じて「死をめぐる文化」の調査研究を進めている。

企画連載

おとむらいフィールドノート ~人類学からみる死のかたち~

人間が死ぬってどういうことなんだろう……。このコラムでは、人類学者である筆者があれこれと書き留めていくフィールドノートのように、死・弔い・看取りをめぐる幅ひろく豊かな文化のありかたを描き出していきます。ご自身が思う「死」というものを見つめ直してみませんか。

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