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第32回:おとむらいマンガの最高峰は『釣りキチ三平』である(その1)

第32回:おとむらいマンガの最高峰は『釣りキチ三平』である(その1)

2026.02.26田中 大介(自治医科大学医学部・大学院医学研究科 教授)

 最近、おとむらいを題材にしたマンガが増えてきたような気がしませんか? ホロリとするような人情話だったり、主人公が異能を駆使して難事件を解決したり、はたまた感動的なヒューマンドラマだったりとジャンルはさまざまですが、ワタクシも大いに楽しませていただいています。もしかすると長きにわたって続いている終活ブームや、アカデミー賞(外国語映画賞)を受賞するという快挙を成し遂げた『おくりびと』1)などの影響もあるのかもしれません。その一方で、マンガに限らず創作の世界でおとむらいが脚光を浴びるというのは、以前ならばタブーとまでは言わずとも、あまり考えられないことではありました。不謹慎で不適切、そもそも葬儀や葬儀屋さんといった湿っぽい話題を誰が好むのやら……と受けとめられていたのでしょうね。

 しかし、今から約半世紀も前に、おとむらいマンガの金字塔が打ち立てられているのをご存知でしょうか。「えっ、そんなマンガあったかな?」と思われるのも無理はありません。だって、一般的にはおとむらいを描いている作品とは思われていませんから。しかもこのマンガ、一世を風靡したどころの話ではなく、社会的ブームを巻き起こして文字通り一時代を築いた大ベストセラー。アニメ化や映画化はおろか現在でも世界各地に大勢のファンがいて読み継がれているんですよ。つまり誰もが知っている名作中の名作で、おまけにジャンルはなんと少年マンガなんです。さて、そのマンガとは……?

この人でなければ書けなかった

 「もうコラムのタイトルに書いちゃってるでしょ!」と読者の皆さまから鋭いツッコミが入りそうですが、そのマンガこそ『釣りキチ三平』。そして作者はマンガ史にその名を刻む燦然たるレジェンド、矢口高雄先生です。まずはそのプロフィールをどうぞ。

矢口高雄(やぐち・たかお)

1939年秋田県雄勝郡西成瀬村(現・横手市)生まれ。本名、髙橋髙雄。高校卒業後、12年間の銀行員生活を経て、30歳で上京。漫画家としてデビューする。1974年『釣りキチ三平』『幻の怪蛇バチヘビ』により講談社出版文化賞児童まんが部門賞、1976年『マタギ』により第5回日本漫画家協会賞大賞を受賞。主な作品に『おらが村』『ふるさと』『釣りバカたち』『蛍雪時代』『野生伝説(戸川幸夫作・矢口高雄画)』『平成版 釣りキチ三平』、またエッセイ集に『ボクの学校は山と川』『ボクの先生は山と川』などがある。2020年11月20日、膵臓がんにより死去。2)

[矢口高雄/矢口プロ公式X(https://x.com/yaguchi_takao, 最終確認 2026年2月14日)より引用]

 惜しくも数年前に旅立たれてしまいましたが、この矢口先生にはマンガ家になるまでの興味深いエピソードが数多く伝えられています。ごく一部だけ紹介すると、なんと上記のプロフィールにある通りマンガ家としての本格的なデビューは30歳を過ぎてからのことで3)、それまではなんと銀行員。そして髙橋髙雄という名前がどうして「矢口高雄」というペンネームになったかというと、マンガ家として上京後に住んでいたアパートが東急多摩川線(旧・目蒲線)の「矢口渡(やぐちのわたし)駅」の近くにあったので、それと本名の「髙雄」を組み合わせたのだとか4)

 そんな矢口先生の故郷は、ご自身が「奥羽山脈の山あいの戸数60戸たらずの小さな村……冬には2、3メートルの雪にうずもれるんです。もちろん映画館や喫茶店、デパートなんてものは一軒もありません」5)と語るような地域。まさに、ワタクシが勤務する自治医科大学の学生たちが卒業後に勤務するような「へき地」と言って差し支えありません6)。ただ、そんな自然のなかで生まれ育ったからこそ、『釣りキチ三平』をはじめとした数々の名作が世に出されたとも言えるでしょう。その画力は同業者のマンガ家たちからも「絶対に真似できない」「ほとんど神がかっている」と語り継がれるほどで。とりわけ自然の風景の描写については圧倒的で、素人目にも尋常ではないことがすぐに分かります。というより、こんな作品を週刊で連載するなんてちょっとオカシイというか、人間離れしているというか……。

 試しに矢口先生の作品が手元にあったならば(あるいは今すぐ書店に駆け込むかネットで注文して)、どの作品の、どのページでもいいですからパラパラとめくってみてください。驚くべきディテールが描き込まれていることに気づくはず。だって、単に水面を描くにしても淡水と海水を、何となればその両者が入り混じった汽水まで描き分けられるとか、あり得ないでしょう? 一説によると矢口先生のアシスタントになった駆け出しのマンガ家たちは、まず仕事部屋の風呂場に案内されて「じゃあ、この浴槽に張ってある水を描いて練習してください」と言われたそうですが、おそらく「矢口先生みたいに描けるわけないよ!」と途方に暮れたに違いありません。

 こういった逸話からうかがえるように、ときに猛威を振るうような厳しい自然と密着した生活を経たからこそ、そして自然に囲まれた日常の積み重ねによって精緻な観察眼が養われたからこそ、矢口先生の驚嘆すべき画力が生み出されたとも言えます。ですから、その画力の背景にあるのは単に自然への憧憬とか郷愁だけではありません。それは「雪国に生れ、雪国に暮らす人々にとっての雪は、寒くて冷たくて、辛くて厳しくて、ただうとましいばかりなのです」7)といった矢口先生ご自身の述懐や、都会からやってきた若者に向けて「半年も雪にうずもれ、バスも通らねえ、こンたな山ン中がほんとにいいのけえ。病人が出たってすぐ近くに医者がいるわけでもねえ……。何か変ったものが食いてえと思っても買える店もねえ……。こンただ不便なところがこのまま変らねえでいた方がいいと思ってるのけえ!!」8)と登場人物に語らせている言葉などからも察することができます。矢口先生にとって自然とはただ「眺める」とか「感じる」ものではなく、何よりもまず「そこで暮らす」という生活の土台そのものであったわけです。『釣りキチ三平』にしても、その他の作品にしても、矢口先生でなければ絶対に書けないと言われる理由は、まさしくこの点にあると言えるでしょう。

民俗資料としての矢口マンガ

 このコラムで紹介する『釣りキチ三平』をはじめ、矢口先生のマンガを語る上で、もうひとつワタクシの立場からすると語っておかねばならないことがあります。それは、その作品の多くが紛れもなく非常に精緻な民俗資料であるということ。おそらく矢口先生は何か学術的な記録を残そうと思って執筆されたわけではないと思いますが、画力もさながら、その作品の民俗資料としての価値についても尋常ではないブっ飛んだレベルと言わざるを得ません。たとえば横手市増田まんが美術館9)の大石卓館長も矢口先生の原画について「民俗資料としての価値が高い」10)と語っていますが、それでは何がスゴイのでしょうか?

 先ほどワタクシは矢口先生の画力について語りましたが、もちろん画力だけではマンガとして成立しませんから、マンガとしての魅力には創作物としてのストーリー展開や、あるいは架空のキャラクター設定といった要素が含まれます。となれば当然、「創作物が学術的な資料になり得るのかな?」という疑問を抱く方もいることでしょう。たしかにその考えにも一理あるのですが、矢口マンガは自伝的な作品11)や、題材や登場人物に自らの経験を反映した作品がかなりの割合を占めています。そこに描き出されるのは、リアリティなんて言葉が吹き飛ぶほどの緻密で克明な数々の「ムラの民俗」なのです。田畑を耕すときの鍬(くわ)の角度、囲炉裏で家族が座る位置、終戦直後の学校生活とその変化、豪雪地帯の気候と生態系……など、枚挙に暇がありません。

 ここで参考までに、矢口先生の自伝的作品のひとつである『蛍雪時代 ボクの中学生日記』に描き出されている「ムラの民俗」の、ごく一例を挙げてみましょう。矢口先生の生まれ育った村では長らく農家の肥料は下肥(しもごえ)、すなわち糞尿が主力だったそうで、化学肥料もあるにはあったものの、それを買えるほど豊かではなかったのだそうです。というわけで便所は当然ながら、いわゆるボットン便所式。つまり便器の下に便槽があるような汲み取り方式なのですが、用を(特に「大きな」ほうを)済ませたあとに、お尻を何で拭くのか? 一応、矢口家の便所には読み終えた雑誌の古紙などが置いてあって、それを使用することもあったそうです。となると、当然その紙を使い終わった後は便槽に落とす……と思いますよね。ところが、そんなことは絶対に許されませんでした。なぜかというと「紙は腐らないので下肥の邪魔だった」からで、そのため拭き終わった後の古紙は木箱の中に丸めて捨てておくというルールが厳格に定められていたのです。

 しかし、話はここで終わりません。矢口先生の幼少時は、まだ紙は古紙であっても貴重品で、その代用として蕗(ふき)や里芋の葉などが使われることも珍しくありませんでした。というよりも、それらを使うことのほうが多かったのです。この場合はそのまま便槽に落とすことが許されていて、むしろそうするように積極的に言いつけられていたのだとか。なぜなら、それらの植物は便槽内で腐敗すると、「普通の下肥よりもグッとマイルドな下肥ができあがる」から。でも先ほど述べた通り、矢口先生の村は豪雪地帯。冬になれば一面が雪で覆われ植物の緑など、どこを探してもあろうはずがありません。

 したがってアキシラズ12)と当地で呼ばれているシダ科の植物の葉を晩秋までに大量に刈り取っておき、それを握りこぶしぐらいの大きさに丸めてワラで束ねたものを冬期のトイレットペーパーとして使用していたのだそうです。……実はまだまだこの「農家の下肥」の話13)は続くものの(採取してから日が経つと乾燥し過ぎてお尻を拭いたときにヒリヒリと痛いとか)、あまりにも長くなってしまうのでここまでにしておきましょうか。さて、ここで読者の皆さまに質問。ワタクシの文章のマズさはさておき、この「ここまで描(書)くか!」という細部の情景14)を文章で読むのと、マンガで読むのとでは、どちらが深く理解できるでしょうか? もちろん絵がマズかったらお話にはならないでしょうけれど、圧倒的な画力で描き出されたら……。それはもう、矢口先生が青年時代までを過ごした故郷でのモノゴト、とりわけ終戦直後から高度成長期にかけての「ムラ」や「田舎」で起きていた大小さまざまなモノゴトを、感覚的に仮想体験させてくれる精緻な農村民俗誌そのものなんです。

 特に戦後80年を経た現在、当時の民俗を肌身で知っている方が次々に他界されていますから、その記憶は放っておくと誰にも詳細が知られないまま消え去ってしまうということになりかねません。しかも矢口先生の故郷のような、映像や写真といった記録がなかなか残されていない地域は言うまでもないことで、その意味でも矢口マンガの圧倒的なディテールを伴う記録は、今日の私たちに「あ、そういうことだったのか!」という大きな気づきを与えてくれます。このように矢口マンガのほとんどは、いわゆるオートエスノグラフィ、すなわち「自分自身の個人的な生活の経験を記録し、省察しながら、その内容をより広い文化や社会などの文脈で捉えて理解しようとする質的な観察手法」と見なすことができるのですが、直接的にご自身の経験を扱ったのではない作品でも、これまで述べてきたような民俗と自然に対する「深過ぎて細か過ぎる」描写が大いに発揮されているんです15)

 そして、いよいよこれから紹介する『釣りキチ三平』も……と書きたいところですが、ここで今回は力尽きてしまいました。というよりも、実は締め切りが16)……ごめんなさい! このコラムで持ち出すぐらいですから当然おとむらいの話になるわけですが、そこに描き出されている「ムラの葬儀」の細部にわたる描写と言ったら、舌を巻くどころの話ではなく、ここで語るには時間が足りません。今どきの表現で言うと「解像度が高い」ということになるのでしょうけれど、そもそも解像度がどうたらこうたらということを通り越して、ワタクシ自身が上述のように「あ、そういうことだったのかぁぁぁ!」と研究室で大声を張り上げてしまったほどでした。もっとも、それを聞いたお隣の先生から「田中センセ、大丈夫?」と心配されてしまったのですが。

 それでは、多くの人びとが「少年マンガ」にして「釣りマンガ」と思っている『釣りキチ三平』が、なぜ「おとむらいマンガ」なのか? そして、なぜ『釣りキチ三平』がその最高峰と言えるのか? そもそもタイトルとは裏腹に、今回は『釣りキチ三平』に全く触れずじまいで、南江堂のYさんがこのままスンナリと連載を続けさせてくれるのか? すべての謎は……次回を待て!

追記
今回、および次回以降のコラムでは株式会社矢口プロダクションの野呂泰誠様、ならびに株式会社講談社ライツ・メディアビジネス局の杉山裕子様より、画像掲載の許諾をはじめとして多岐にわたるご厚意を頂戴致しました。記して感謝を申し上げます。


1)監督:滝田洋二郎,脚本:小山薫堂,出演:本木雅弘・広末涼子ほか,松竹,2008.ちなみに、「週刊朝日」(朝日新聞出版,2023年5月休刊)に「終活」という言葉が初めて登場したのも、『おくりびと』がアカデミー賞を受賞したのも、同じ2009年のことでした。
2)『おらが村』(山と渓谷社,2019/初出「週刊漫画アクション」,双葉社,1973-1975連載)のプロフィールより抜粋。尚、このプロフィールでは「漫画」と表記されていますが、かの手塚治虫への憧れを綴った自伝的マンガ『ボクの手塚治虫』(p.261,講談社,1994)によると、矢口先生ご自身は、特に文章の場合は「マンガ」とカタカナで書くという信念をお持ちであったようです。その信念を尊重して、このコラムでは引用や抜粋で漢字が用いられている場合を除き、「マンガ」とカタカナ表記で統一しました。また、著者名表記のない作品は矢口先生の著作であり、今回だけでなく次回以降も同様とします。
3)まだ故郷の秋田県で銀行員をしている29歳のときに本名の髙橋髙雄で「ガロ」(青林堂)に投稿した『長持唄考』(1969)という作品が入賞作として掲載されているので、厳密にはこれがデビュー作と言えるのかもしれません。ちなみに銀行員からマンガ家となった人物としては、同じくレジェンドとして『鉄人28号』『バビル2世』『三国志』など無数の人気作品を残している横山光輝先生もいますが、横山先生が4ヵ月で銀行を退社されたのに対して矢口先生はなんと勤続12年を経てからの転身! 実はワタクシもサラリーマンを経て大学院に入学したのがやはり30歳近くになってからだったので、仕事の内容もスケールも圧倒的に異なりますが、勝手にシンパシーを感じちゃうんですよね……。尚、銀行員時代のエピソードは『9で割れ!! 釣りキチ三平誕生前夜』(講談社,2005-2006)に描かれています。当時に間借りしていた地元の素封家とその親戚が、雪舟の直筆画をはじめとした名画をズラリと保有しており、「目の保養などという通り一遍のものではなく、若い感性がユサユサと音を立ててゆさぶられるほどのもの」(第2巻「絵がうまくなる秘訣」,p.172)という恩恵だったそうな。ちなみに、この『9で割れ!!』には上記の『長持唄考』(第4巻,p.104-179)も改稿の上で載せられています。
4)さらに詳しく述べると、矢口先生が「少年サンデー」(小学館)でデビューするにあたり、『あしたのジョー』や『巨人の星』の原作者として知られる梶原一騎先生が原作を担当するということになって、編集者とともに打ち合わせの席に赴いたところ、危うく梶原先生から「ちばのぼる」や「川崎てつや」というペンネームを付けられそうになったのだとか。これって、『あしたのジョー』の作画を担当したちばてつや先生と、『巨人の星』の作画を担当した川崎のぼる先生の名前を組み合わせただけなんですよね(笑)。まあ、梶原先生の意図はインパクト重視ということだったのでしょうが、矢口先生が「デビュー作はさんざん心配をかけた両親に真っ先に見せたいので、その意味でも本名の“髙雄”だけは生かしてほしい」と懇願し、編集者の助け舟もあって本文の通り「矢口高雄」に落ち着いたそうです。さらに「髙橋髙雄」(ペンネームに用いている「高」ではなく、いわゆるハシゴ髙の「髙」)という本名の由来も一筋縄ではいきません。このあたりのエピソードは矢口先生の幼少期を描いた『オーイ!!やまびこ』(第6巻「名前のつけ方」,p.4-31,毎日新聞社,1990)をぜひお読みくださいませ。
5)上掲4:オーイ!! やまびこ,第1巻「ヤマビコの正体」,p.4-5
6)手前味噌にはなりますが、ワタクシが勤務する自治医科大学の校是は「医療の谷間に灯をともす」。つまり、深刻な医師不足に喘ぐ離島や山間部などのへき地で活躍する医師の養成を使命とした大学なんです。そのため入学金や授業料をはじめとして学費は全学無料。住まいも全寮制で供与(寮というよりはワンルームマンションといった感じですが)。卒業後はそれぞれの出身の都道府県で一定期間、医師の業務に従事します。しかし残念ながら、矢口先生の幼少時にはまだ自治医科大学は設立されていませんでした……。
7)蛍雪時代 ボクの中学生日記, 第1巻「吹雪がくれたプレゼント」, p.67,講談社 
8)上掲2:おらが村,「寒春」, p.124
9)この横手市増田まんが美術館は、もともと矢口先生の功績を記念する目的で「増田まんが美術館」として開設され、旧・増田町が横手市と合併するに際して現在の名称に改名されました。さらに、2019年に「原画の保存と展示」を主たるコンセプトとしてリニューアルされ、多くの来場者を集めています。地元の関係者は「ぜひ矢口高雄の名を冠した施設に」と考えていたものの、それに対して矢口先生は「ボクだけじゃなくて皆のものにしたい」と伝えたそうで、自分のことだけでなくマンガ界全体を考えていたという思いが伝わりますね。それにしても、なんて無欲な……と考えてしまうのはワタクシが世俗的な凡人だからでしょうか。
10)藤澤志穂子:釣りキチ三平の夢 矢口高雄外伝,p.136,世界文化社,2020
11)最近ではこのようなマンガ家自身が自分の経験を題材として描いた自伝的マンガのことを「マンガ家マンガ」と呼ぶこともあるようで、一定のジャンルを築いているとも言われています。その代表的な例としては、藤子不二雄A先生が自らのマンガ家として成長していく過程を描いた『まんが道』(少年画報社,1977-1982/小学館,1989-2013)や、昨年映画化された東村アキコ先生の『かくかくしかじか』(集英社,2011-2015)などが挙げられるかもしれません。
12)分類上の正式な学名はリョウメンシダ(Arachniodes standishii)で、オシダ科カナワラビ属のシダ植物です。
13)上掲7:蛍雪時代, 第2巻「ホームプロジェクト展」,p.259-271
14)タカオ少年、つまり矢口先生ご自身がウンチをしている姿から、便槽の内部の構造、そして用を足すのに用いられる植物の細密な絵まで、文字通り「余すところなく」描かれています。
15)秋田県の阿仁(あに)マタギを題材とした『マタギ』(講談社, 2017/初出「週刊漫画アクション」,双葉社,1975-1976掲載)などがその一例です。矢口先生の家は農家ではあったものの、おそらくマタギはそれなりに身近な存在であったと推測されます。尚、この『マタギ』はもともと別の出版社が発行しているマンガ誌に『マタギ列伝』として長期にわたって連載されていたのですが、出版社側の事情で惜しくも中断されてしまい、それを新たに『マタギ』として描き直したという経緯を辿りました。『マタギ列伝(上・下)』(中央公論新社,2019)のほうも現在では文庫新装版として復刻されていますので、両方あわせて読むとマタギの生態をめぐるさまざまな民俗を味わうことができますよ。
16)実は、この「締め切り」についても矢口先生は超絶的なエピソードを残されていて、それは何かというと「絶対に原稿を落とさないどころか、必ず締め切りの1週間前には編集者に手渡していた」というもの。しかも驚くべきことに、なんと出版社側のミスで原稿を矢口先生に依頼するのをうっかり忘れていて、締め切り直前に連絡があって「えっ!」となったものの、徹夜を重ねて何とか間に合わせたということもあったのだとか。あっ、しまった! こんなエピソードを書くと南江堂のYさんから「矢口先生の爪の垢でも煎じて飲みなさい!」と𠮟られちゃう……。

田中 大介

自治医科大学医学部・大学院医学研究科 教授

たなか・だいすけ/1995年に金沢大学経済学部経済学科卒業後、三菱商事株式会社入社。6年間の商社勤務を経て2001年に東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻に入学し、修士課程および博士課程を修了して博士(学術)取得。早稲田大学人間科学学術院などで教職を経て、2020年に自治医科大学医学部・大学院医学研究科教授に就任。専門は文化人類学・死生学。大学院生時代は葬儀社に従業員として数年間勤務するというフィールドワークを展開し、その経験をもとに執筆した『葬儀業のエスノグラフィ』(東京大学出版会,2017)をはじめ、主に現代的な葬制への関心を通じて「死をめぐる文化」の調査研究を進めている。

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