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第1回:かけがえなさの悲劇

第1回:かけがえなさの悲劇

2023.01.25川瀬 貴之(千葉大学大学院社会科学研究院 教授)

はじめに、わたしについて

 正しいとはどういうことだろうか。価値、つまり大切さはどこから生まれてくるのだろうか。自由の本当の意味とは何だろうか。これらの問いかけへのさまざまな答えのうち、どれが正しくどれが間違っていると確定することはできるだろうか、、、こんな問題について、考えてみたことがありますか? 私が専門にしている法哲学という分野は、法律という社会の決まり事の深いところにある、ものごとの本質や人間の根源について考えようという学問です。

 一般的に、法律学は、さまざまな法令の条文や裁判所の判決を前提に議論を行います。しかし、法哲学は、そのような前提を横目に見ながら、自由にすべての常識を疑い、徹底的に考えることで、人間の深いところにある世界を覗こうとします。生と死は、その格好の題材ですから、私をはじめ、多くの法哲学者が興味を持っている問題です。

 なので、看護という、生と死のはざまにあって人間や社会に直接触れる実践は、法哲学者が大いに興味をそそられる営みでしょうし、看護の実践者は(意識的ではないにせよ)法哲学を考えているとも言えます。あらゆる思い込みや常識や偏見を捨てて、本当に正しいことは何か、本当に大切なことは何か、一緒に考えましょう。

人生には悔いしかない、それはなぜなのか

 自分のことはさておき、他人の人生の重大な場面に何らかの介入をしたときほど深く、葛藤や後悔に苛まれることは稀であるだろう。人の人生に取り返しのつかない痕跡を残すことは、どれほど強い責任感と誇りを(それゆえに秘かな喜びを)以って行ったとしても、その人を深く傷つけてしまうことがある。それに気づくだけの感受性を持つ者は誰しも、自分が生きているだけで罪びとであるような吐き気に苦しめられる。どう詫びても決して許してもらえない気がする。大事な場面において、あれをやっていたとしても、これをやっていたとしても、間違いだった気がする。どうしてこうも人生には悔いばかりが残るのか。

 この罪の意識の水源地に分け入ってみよう。それは、価値のかけがえのなさ、取り換えの利かなさというところにある。著名な例で考えよう。鴎外の『舞姫』の主人公は、立身のために捨ててきた恋を想って、帰国の途の船室に身を閉ざす。立身と恋と言えば利己的な葛藤に聞こえるし、確かに実際その通りなのだが、立身の背後には生まれたばかりの日本国家があり、恋の背後には生まれてくるべき嬰児(みどりご)がいる。どちらかを選び取らねばならない、つまりどちらかを捨てなくてはならないというのが、決断の悲劇であるのだが、一度下した決断に後悔しているからと言って、仮にもう一度決断のチャンスを与えられたとしても、やはり同じ決断を下すであろう。豊太郎は、やはり何度でもエリスを捨てて日本のために生きることを選ぶだろう。

 なので、決して判断が間違っていたのではない。それなのに後悔が残るのは、後悔が生まれる原因が、判断の正しさのいかんに関係がないからである。その原因は、価値というものが多様であり、それぞれの価値がかけがえのないものであることにある。

かけがえがないとは、どういうことか

 異なる複数の価値、たとえば金銭の価値と友情の価値とが、仮に取り換えの利くもの、つまりその価値の多寡を単一の数直線上の値で表現できるものであったのなら、たとえ一方をどれほど高く評価していても、他方の供給の量を増やしていけば、いずれかの時点で、前者の価値の総量は後者の価値の総量に追い抜かれることになっていただろう。もちろん、そういうこともある。運賃がどんどん値上がりすれば、時間や体力の消耗の量を追い抜いて、では歩いて行こうか、となる。

 しかし、そういう比較ができない、いやむしろ私たちが比較を断固として拒否する場合もある。どれほどの財宝や地位や快楽を積まれても、友を売ることはできない、そうすべきではないと感じることがある。この場合は、金銭と友情の価値が、別の次元の数直線上で表現されている。別の次元にあるのだから、金銭の価値は、友情の価値よりも、高くも低くも等しくもない。

 これが、かけがえがない、つまり比較することができないということの意味であるが、しかし人生は私たちに、そのような価値の間でどちらを取るか選ぶことを迫る。そのときに、泣く泣く捨てた方の価値は、選んだ方の価値がどれほど成功裏に充足されようとも、決して補償されることはない。豊太郎が大臣になろうと博士になろうと、エリスとの恋は取り戻せない。一方の喪失は、他方の成功によって、帳消しにはならない。なぜなら、両者は、全く異なる次元にあるからである。人生は、まこと無慈悲にも、私たちに悲劇的な後悔を強いているのである 1

それでも、前を向く

 そう考えると、私たちが迷い後悔するのは、自らの判断能力が不足しているからではない。むしろ、異なる価値を安直に単一のものさしで測るような愚を犯さない、優しい感受性を持ち合わせているからである。

そして私たちは、それでも決断を下して、前に進まなくてはならない。そうしなくては、この世界には何も生まれず、この社会は止まったままである。動き出すことが、家族や隣人に対する、社会に対する、国に対する、世界に対する、大人としての責任である。

何をしたとしても取り返しのつかない喪失が残ることが真実だとしても、何もしないことがなお一層取り返しのつかない喪失であることだけは、より鮮やかに確かである。だとすると、私たちが悩むべき問題は、決断すべきかどうか、前に進むべきかどうかではない。どのように決断し前に進むか、その答えには正解があるのかどうか、である。どんな決断をしても、取り返しのつかない喪失があるのだから、完全に満足できる正解はないのだが、せめてこの悲劇に一矢報いることはできないか。次に、それを考えてみたい。


Joseph Raz:Incommensurability.The Morality of Freedom, p.321-366,Oxford University Press, 1986

川瀬 貴之

千葉大学大学院社会科学研究院 教授

かわせ・たかゆき/1982年生まれ。専門は、法哲学。京都大学法学部卒業、同大学院法学研究科法政理論専攻博士後期課程修了。博士(法学)。千葉大学医学部附属病院講師などを経て、2022年10月より現職。好きなことは、旅行、娘と遊ぶこと、講義。耽美的な文学・マンガ・音楽・絵画が大好きです。好きな言葉は、自己鍛錬、挑戦。縁の下の力持ちになることが理想。

企画連載

人間の深淵を覗く~看護をめぐる法哲学~

正しさとは何か。生きるとはどういうことなのか。法哲学者である著者が、「生と死」や「生命倫理」といった看護にとって身近なテーマについて法哲学の視点から思索をめぐらし、人間の本質に迫ります。

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