前回は「何のために平等は求められるのか」という観点から、平等主義の精神について議論したが、今回は「何を平等にするべきか」をめぐる、平等主義の理論の一端を紹介しよう。
平等の的を絞る
平等主義に対して、時おり向けられる短絡的な批判に、次のようなものがある。曰く、平等主義は、本来十人十色であるはずの諸個人を、ロボットのように画一化しようとしている、100m競走で無理やり全員に手をつないでゴールさせるようなやり方は、物事に挑戦する面白さや意欲を損なう、と。真面目な平等主義は、通常、そのようなことは主張しないので、この類の批判には真剣に応答する必要性は低いのだが、現代正義論における平等主義の第一人者であるロナルド・ドゥオーキンは、丁寧にそれに対応している。
ドゥオーキンによれば、平等主義は、人々の意欲の結果としての差異は是正しないが、本人にはどうしようもない環境に由来する差異は是正する。サボった者の報酬が少ないのは公正だが、障害で働けない者に収入がないのは不公正である。つまり、平等主義は、人々のあらゆる側面を等しくしようとしているのではなく、むしろ逆に、これだけは看過できないと思われる不公正の核心に的を絞って平等を主張するのである。特に個人の自由を重んじる自由主義的な平等主義者にとっては、この的は、できるだけシャープに絞って、あとは幅広く個人の自由を認めるほうが良い。そのために、不公正の核心をできるだけ研磨し精製しようとする。その結果、現代の平等主義の理論は、「何の平等か」という問いの「何」に代入されるべき回答が、かなり精緻になってきている。
妬みの消えた世界
たとえば、ドゥオーキンは、「資源の平等」を訴えている。資源とは、人生においてやりたいことをやるために必要となる道具や手段、たとえば金銭や能力1がこれにあたる。これを、人々の間で平等に分配すべきというのがドゥオーキンの主張だが、それをイメージするためのモデルとして、彼は「無人島のオークション」というシナリオを提示している。それによれば、無人島に漂着した一群が、自給自足生活を開始するにあたり、島のすべての資源をオークションで分配するのだが、その資金として各人には同数の貝殻(通貨)が初期分配される。つまり、資源が平等になる。
ここで、この一群に、ヴォルフガング・モーツァルトとマイヤー・ロートシルト2がいたとしよう。オークションにおいて、ヴォルフガングは、クールなミュージシャンを志しバイオリンを求め、マイヤーは商店を営むべく資材を集めた。無人島に漂着したバイオリンなど、低品質の割に希少で高価であるのに対し、この島は豊かな木材・果実・動物に恵まれており、ビジネスには好環境であった。当然、音楽家は貧しく、商人は豊かになる。ここで重要なのは、人生の成否におけるこの格差にもかかわらず、仮にヴォルフガングは、マイヤーの人生と自身の人生を交換することを提案されたとしても、それを受ける理由を持たないということである。彼は、貧しくとも音楽家になりたいのであり、金持ちになりたいのではない。そして、ドゥオーキンによれば、この一群の全員が、他のいかなる者とも、人生を交換することを欲しない、つまり誰も他者の人生を羨まない状態が生まれる。それは、最初に、資源としての貝殻を平等に分配したからである。
「誰も他者を羨んでいないかどうか」は、ドゥオーキンが「羨望テスト」と呼んで、公正な社会の基準とするものである。この考えには、さまざまな批判もある。正義や平等の名の下に他人と比べてばかりいるのは、心の平安と健康には程遠いし、そもそも精神が清々しくなく卑屈である。このような印象があるからか、多くの理論は、個人の選好を専ら自分自身がどうありたいかという観点からのみ定義し、他者と自分の比較には無関心な人間を前提にしている。しかし、残念ながら、現実の多くの人間は、僻み根性の塊であり、それによって公平性を考えるという事実がある。この人間の業と真剣に向き合っている点が、ドゥオーキンの理論の説得力を高めていると言えよう。
自然で多様性のある平等
上で、平等主義は、平等にすべき的をできるだけ狭く絞り、それ以外のことは個人の自由に委ねるという考え方を示したが、これに反対する平等主義もある。マイケル・ウォルツァーの「複合的平等」の考え方を見てみよう。これは、諸個人は、どの一点をとっても、十人十色であるのが自然であり、特定の事柄について無理に平等にすべきではなく、また人間は誰しも一長一短があるので、その意味で概括的に言えば、元来人間は平等なのである。谷崎の『春琴抄』において、春琴は盲目だが芸術の才と美貌に恵まれ、佐助は凡才であるが一本気な人柄を持ち、利太郎は名家に生まれたが心根は卑しい。つまり、皆それぞれに美点と欠点を持ち、すべてにおいて優等な者も、すべてにおいて劣等な者もいないので、すべての者が概括的に言えば平等である。この概括性ゆえに、特定の点について厳密に平等を求める理論に見られる、手をつないでのゴールや、ロボット的画一化のような不自然さが、ここにはない。
この意味での複合的平等が脅かされるのは、ある評価項目が他の評価項目に対して、支配的に強い影響力を持つときである。富める者ばかりが大学に行けば、経済的豊かさという項目が、知性という項目を支配し、美しい者ばかりに経済的な投資をはじめ多種の注目が集まれば、容貌という項目が、さまざまな意味での豊かさの項目を支配することになる。複合的平等を維持するためには、支配の鎖を断ち切って、各評価項目が多元的に独立している必要がある。多くの社会で、通貨は、その交換可能性の高さゆえに、最も支配力の強い財の1つである。しかし、他方で、お金で買えない価値も多い。複合的平等が大切にするのは、そのような一方的支配から独立した評価項目ができるだけ数多く存在する社会である。そうすることで、多様で豊かな、自然で自由な、平等を実現することができるというわけである。
***
さて、今回で正義をめぐる議論は、一旦終わりである。次回は、そのまとめとして、これまでの正義の議論が、医療従事者の実務に対して有する含意と具体例を考えたい。