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最終回:人間の深淵を覗いた者の行く先

最終回:人間の深淵を覗いた者の行く先

2026.01.29川瀬 貴之(千葉大学大学院社会科学研究院 教授)

 およそ三年間にわたって、生命倫理を題材に、法哲学者が考える人間の深淵を、ほんの一端ではあるが、覗いていただいた。今回は、最後にもう一つだけ、人間性の深みの景色をお見せして、ではそのような景色を覗いてきた者が、そこからどのように次の一歩を踏み出せるのかについて考えたい。

生命倫理の実在をめぐる、ある情景

 これを読んでいる皆さんは、生命倫理、あるいは倫理や道徳一般の実在1を、どれくらい信じているだろうか。私は普段、倫理・道徳というものに、かなり冷笑的・懐疑的で、どちらかというと、規範よりも力の信奉者である2。しかし、そんな私に、次のような経験があった。

 某国の大学医学部の博物館を訪れたとき、そこに解剖学の展示があった。その時、私は来賓ではなく、一観光客としてであったので、百年を思わせるコロニアル調の古くて暗い部屋は私一人であった。展示の多くは、重篤な奇形の胎児の切片のガラス標本だった。窓は開け放たれており、熱帯特有の湿度の風が吹き込んできた。その時、私は標本と並んで、小さな写真立てを見つけた。そこにあったのは、この世の春のような赤ん坊の笑顔だった。写真立てを置いたのは、おそらく博物館の職員だろう。展示されている者たちのあるべきはずだった姿を示すことで、その魂を救済しようという小さな試みには、何の義務感も体面もなく、ただそうせざるを得ないという、職員の脊髄反射が感じられた。

 道徳に不信心な私が、神を見た預言者のように、ひょっとすると生命倫理は実在するのではないかと感じたのは、この時である。それ以来、やはり私は変わらず、超越的な道徳には懐疑的なのだが、しかしそれでも、ここまで印象的ではないにせよ、時おり、自身がどうしようもなく倫理や道徳に動かされていると感じる時がある。ただそれは、決して哲学や道徳や法律の本を読んで勉強している時ではない。実際に人に触れている時である。倫理や道徳は、小難しい書籍や知性・理性・理論の中にではなく、行動・実践・感情・経験・事例のなかにこそあるというのが、私の所感である。

結局のところ本当に言いたかったことについて

 この連載で私が伝えたかったことは、生命倫理や法哲学の「内容」もさることながら、それにも増して、私自身の論じ方・雰囲気・「方法」に関するものである。方法をめぐる私のメッセージとは、「内面から湧き上がる情熱と、自由になれるほんの少しの環境があれば、私たちは、想像もしないような素晴らしく刺激的な世界を経験することができる」というものである。多くの場合、自分を妨げている敵は、結局のところ、自分の内面にある。その殻を打ち破る原動力は、好奇心を駆り立てる情熱である。

 文学史上の奇蹟のような天才、アルチュール・ランボーの『地獄の季節』は、有名な「また見つかった。何が? 永遠が。」の前に、次のような一節を置いている。

Mon âme éternelle,    わが永遠の魂よ
Observe ton vœu     希望を見失うな
Malgré la nuit seule    孤独な夜や
Et le jour en feu.        火と燃える日に負けずに
Donc tu te dégages     だから、お前は振り切っていけ
Des humains suffrages,           人の承認も
Des communs élans!      凡俗な欲動も!
Tu voles selon…        自由に羽ばたいてゆけ
(中略)
Plus de lendemain,    もう明日はない
Braises de satin,       繻子(サテン)のような熾り火よ
Votre ardeur        そなたの苦闘は
Est le devoir.        義務である  

(筆者訳)

 私はこの連載で何度も、現実主義の観点から、社会人になれ、大人になれと言い続けてきた。もちろん、社会性・穏健さ・中庸と均衡は、個人がうまくやっていくためにも、社会全体が調和するためにも、必須の徳性である。しかし、正気にては大業はならず。何事かを成したければ、昼間の社交が終わり、アフターファイブ、夜中に独り鍛錬するときには、情熱をもって、この世ならざる者の形相になっていなくてはならない。情熱は時に、非社会的、あるいは反社会的で、狂気的ですらある3。これは、何もエリート主義的な禁欲を押しつけるものではない。義務の押しつけは私の最も嫌うことで、むしろこれはその真逆である。単に好きなことに我を忘れるときは、誰でも自然にそうなっている境地である。また、それが成功するかどうかも重要ではない。成否を誰か、あげつらふ。できるかできないかではなく、やるかやらないかである。

 そうはいっても、好きなことを見つけて打ち込むことは、確かに、なかなか難しい。しかし、せっかく世に生まれてきた限りある身、大人の事情を脱ぎ捨てることができたときには、生まれたての心で、自由に世界に踏み出してほしい。そこには、学歴も年収も地位も名誉も肩書も家柄も才能もない。あなた自身が何者なのか、何に情熱を注ぐのかを示してほしい。

 私が言いたかったのは、これだけである。孤鶴、高天を凌ぐ。自由な魂よ、どこまでも飛んでゆけ。Carpe diem!


1ここでいう実在とは、あなたが、あるいは社会の人々が、実際にどのように考えているか・感じているかについての事実ではない。仮にそうであれば、自身の心の中を内省したり、特定の集団をフィールドワーク調査したりすることで、その存否を容易に確認しうるはずである。そうではなく、私が言うのは、誰がどう考えるかに関わりなく、「こういうときは当然こうすべき」という規範の存在である。
2私の反理想主義・現実主義は、あくまでも学者業界内での相対的な位置づけにすぎない。それに対して、表面は心地よく上品でも、一皮むけば粗野な冷笑主義がいよいよ蔓延している近時の世界全体の中では、私の立場は凡庸な中道くらいかもしれない。
3これは、芥川龍之介『地獄変』の良秀、金東仁「狂炎ソナタ」の白性洙、フランス・ドイツ・スペイン合作映画「パフューム、ある人殺しの物語」のグルヌイユに通じる姿勢である。

川瀬 貴之

千葉大学大学院社会科学研究院 教授

かわせ・たかゆき/1982年生まれ。専門は、法哲学。京都大学法学部卒業、同大学院法学研究科法政理論専攻博士後期課程修了。博士(法学)。千葉大学医学部附属病院講師などを経て、2022年10月より現職。好きなことは、旅行、娘と遊ぶこと、講義。耽美的な文学・マンガ・音楽・絵画が大好きです。好きな言葉は、自己鍛錬、挑戦。縁の下の力持ちになることが理想。

企画連載

人間の深淵を覗く~看護をめぐる法哲学~

正しさとは何か。生きるとはどういうことなのか。法哲学者である著者が、「生と死」や「生命倫理」といった看護にとって身近なテーマについて法哲学の視点から思索をめぐらし、人間の本質に迫ります。

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