「自分でも信じられなかったが、彼女はまだ希望を抱いていた。この時でさえ奇蹟を祈っていた。」
セシル・スコット・フォレスター『ミリアムの奇蹟』より1
各論の最後のテーマは、責任である。これは、法律学や倫理学で最も重要な概念の一つであり、社会的には、一方では数限りない者に生きる動機を与え、他方では使命感の強い真面目な者や、完全な無辜の者を、悲惨な死に追いやってきた、悪魔のような概念でもある。
責任はどう問われているか
まずは、私たちが責任という言葉で、通常何を意味し、要求しているのかを考えよう。責任は、自由・平等・正義・真理など他の多くの重要概念と同様に、非常に多義的である。玩具が散らかった遊戯室を見た保育士、あるいは空爆で瓦礫となった都市を見た住民が「これは誰の責任だ」と言う場合、いくつかの意味が考えられる。この状況をもたらした原因が誰なのかという意味もありうるし、誰が片付けを担当する義務を負うべきかという意味かもしれない。いずれにせよ、責任が問われるには、困った問題や放置すべきでない課題が生じて、何かをしなくてはならない状況という前提がある。その行動への指名の基準となる規範が責任なのである。
誰がどのような責任を負うべきかを決する基準には、有力な候補がいくつかある。第一は、理性的・自律的に判断する能力を有する者は、その行為に責任を負うという考え方である。刑法39条が心神喪失を責任阻却事由として挙げているのも、この考え方による。理由・根拠・自由意思のつながりを重視し、意思がつながっている範囲を、責任が及ぶ範囲と考えるのである。第二は、困った問題が生じるという結果を予測して、その発生を回避する能力・可能性を有する者が、結果の回避や損害の補償に責任を負うという考えである。これは、因果関係のつながりから、責任が及ぶ範囲を同定しようという発想に基づく。さらに第三に、契約関係や親子関係など、特別な関係にある者は、そうでない者より重い責任を負うという考え方もある。これは、責任のつながりの範囲を、理論的に決まるものではなく、社会構成的なものと捉えている。結論を先取りすると、私の立場は、責任のこの第三の側面を重視しつつも、そこにとどまらず、その先へ向かおうとするものである。
ともあれ、これらの基準は、私たちの実際の責任の押し付け、もとい帰属の実践を完全には説明できない。理性的な自由意思による行為の結果には責任があるとは言うけれども、たとえば、自由な選択の結果として罹患した感染症の治療は、個人の自己責任ではなく、社会の責任として公費が支出されることがある。また、結果の予測可能性や回避可能性も、因果関係をどのように認定するかによって、いかようにも言えてしまう。たとえば、劣悪な境遇から形成された怪物的犯罪者の所業は、一体、何から生まれたのだろうか。多くの議論は、因果関係を真剣に考えていない。原因と結果の関係について、厳密に言えるのは、情報は光の速度を超えて伝達しない、つまりテレパシーのような因果関係はあり得ないということだけであり、逆に言えば、それ以外のものは全て原因と言い得る。
もちろん、結果発生への貢献度の多寡という観点から、重要な原因のみをピックアップして、そこに全責任を帰属するということが、ある程度のもっともらしさをもって実践されているのだが、「本当に厳格な正しさで、貢献度を認定し、真に重要な原因のみをピックアップしているのか」という問いへの応答は、完璧な理由を示す希望がほとんどないのではいか。むしろそれは、様々な社会的な憤懣(キリスト教徒にとってみれば、より大きく、全人類の原罪)の捌け口が、十字架の上のナザレのイエスに向かったように、道徳的情緒や政治的打算の、理不尽で偶然的な集計の現れと見ることさえできるだろう。
結局、責任について、理性や論理による根拠づけには限界があり、それは共同体の非難感情や正義感覚の押しつけであるとしか言いようがない。
責任はどうあるべきか
要するに、責任の概念は、全く出鱈目というわけではないが、法律・道徳・倫理における使用頻度と重要性、それをめぐる議論の精緻さの割には、実践的には、かなり融通無碍に利用されていると言える。しかし、それゆえの重要な意義もある。すなわち、すべての理屈や論理を無視した奇蹟のようなことが時に起きるのが、責任帰属の実践であるのだが、それが、責任感の無限の苦しみに苛まれることになったり、逆に通常は見捨てられるような者への恩寵や救済になったりするのである。多様な宗教では、物理的な自然法則を無視した奇蹟が信仰の対象とされるが、規範的な自然法(普遍的で絶対必然的な規範法則のこと。私はその妥当性を信じてはいないが、仮にそんなものがあるとして)を無視して、なお多くの人を信じさせる力を有する責任の観念がある。
カール・ヤスパースは、戦争責任をめぐる議論において、責任(罪)を4つのカテゴリーに区分している。すなわち刑法上の責任(罪)、政治的な責任(罪)、道徳的な責任(罪)、形而上的責任(罪)である。前三者は、法律の制度・政治の慣習・社会の非難など、人間の行為の体系の内部に位置づけられるものであるのに対し、最後の形而上的責任は、その外にあるものとして、ひときわ興味深い。自分よりはるかに、充実した生を享受し、賞賛されるべき、数えきれない仲間たちが、いわれなく殺され・侮辱されているのに、自分だけがのうのうと生き延びて暖衣飽食を享けている。それについて自分は、何ら法的・政治的・道義的に責められる筋合いはないし、実際に責められているわけではないのだが、生きているだけでどうしようもない罪びとであるように感じられて仕方ない、いわゆるサバイバーズ・ギルトが、形而上的責任の典型である。
ただ、この形而上的責任も、あまり真剣に背負い込むのは問題である。私の個人的な印象だが、特に最近の日本人は、良くも悪くも、変に生真面目で、誰のために何をどこまで為すべきかについて、かなり狭い文脈で厳格に考えがちである。そこからは、大きな責任を引き受ける人間は育ちにくい。世界全体は、むしろサイコロを振るように遊んでいる。あまりに些事に潔癖であると、誰のためにもならない割には、自身が疲弊するばかりである。大きな気持ちで、ここに生かされている命を、どこか遠くでお返しする、それが誰かにとって奇蹟的な恩寵になる。これくらいのおおらかなつながりを信じる心持ちで、責任を感じていたいものである。
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次回が、三年にわたって続けてきた連載の最終回である。色々と複雑で晦渋(かいじゅう)なことを述べてきたが、実は私が言いたかったことは、たった一つのシンプルなことである。それを最後に伝えたいと思う。




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