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第17回:看護を志す、すべての若き人びとのために~福利編~

第17回:看護を志す、すべての若き人びとのために~福利編~

2024.05.30川瀬 貴之(千葉大学大学院社会科学研究院 教授)

 福利に関する議論を、ひとまず締めくくるにあたって、看護の様々な取り組みに携わる皆さんに、日々の業務や学習において重要であるだろうと私が考えていることを説明したいと思います。第11回では、自律に関して、そのような観点から述べましたが、今回は、その福利バージョンということになります。

健康は、誰が決めるのか

 看護の文脈で最も大切な福利とは、何よりもまず患者の、そして皆さん自身の、心身の健康だろうと思います。このとき、そもそもある状態がどれくらい健康であるかを決めるのは、誰の基準によるものなのか、という問題が重要になります。どう見ても不健康な人が、自分は健康だと言い張れば、その人は健康ということになるのでしょうか。

 ここで再び、主観と客観という枠組みが登場します。少し復習すると、主観とは個人の考え、間主観とは皆の考え(つまり個人の考えとしての主観が集まって合意されたもの)、そして客観は誰の考えからも独立して、理論的に決まるもの、という用語法を私は採用しています。

 健康は主観的な概念だ、という考えによれば、上記のように個人が主張すれば、どんな状態でも、その人は健康ということになります。この考えが、看護の実践という文脈では、あまり適切ではないということは、私を含めて多くの方が感じるのではないでしょうか。疑似科学による医療が身体に良いという主観的な考えは、やはり健康の概念として不適切でしょう。

 では、健康を客観的な概念と考えるのはどうでしょうか。一見すると、科学的な概念としての健康は、客観的に規定されるべきだという主張には、強い説得力があるように見えます。ただ、この主張も、絶対的に正しいわけではないと、私は考えています。人間が身体的・精神的に豊かな生活を送るとはどういうことかを理解するには、人間がそもそもどういう存在であるべきかを考え、豊かさとはどういうことかを考えることが必要になります。そして、このような考えは、その人が生きる社会の文脈によって、大いに異なりえます。古代ローマの市民と、戦国の武士と、現代の会社員では、健康について、おそらく一部は共通し、他の一部は異なる考え方を持っているはずです。

 そのような事実に鑑み、私は健康の概念を、間主観的に捉えるべきだと考えています。健康の基準は、それを判断する人が、その時点で所属する社会における、豊かな生き方に関する最善の解釈であるべきです。ただこれは、同じく間主観的な価値である、たとえば良い郷土料理についての考え方や、法哲学会での適切な立ち居振る舞いなどよりも、幅広い範囲の人々に共有された価値と考えるべきでしょう。つまり、ここで言う社会とは、少なくとも、地域社会や業界団体という社会よりは広い人々を包含するものとするのが適切でしょう。この意味で、私は、健康を、絶対的に客観的なものとは考えないが、高度に間主観的なものと考えていることになります。

 難しい言い回しになりましたが、私が言いたいことはシンプルです。要するに、良き看護師たるもの、科学的知識はもちろん、幅広い社会の良識も身につけることでより良い健康を追求できるのではないか、ということです。

倫理は、福利尊重だけではない

 健康を間主観的に理解する場合、自身や他者の健康状態に関して、専ら個人的な意見だけに基づいている主張には、権威はないということになります。しかし、このように言うことは、たとえば患者の、個人的な意向をないがしろにすることと同一ではありません。忘れてはいけないのは、健康などの、福利の価値は、自律や正義など他の価値も含む、看護の倫理全体のうちの一部にすぎないという点です。

 そして、自律の価値は、明らかに個人の主観を大切にする価値です。仮に、患者の福利尊重よりも自律尊重を優先するのなら、本人の福利のためにならない、場合によってはそれを損なうようなことを、本人が望んでいるのなら、敢えて福利を損なう選択も尊重するということになります。

 これが当てはまる、法律の初学者が学習する有名なケースが、エホバの証人輸血拒否事件です1 。これは、宗教的な理由で輸血を拒否する意思表示をしていた患者に、命を救うためには当然必要であったとはいえ患者の同意なく輸血を行った病院に対して、患者遺族が慰謝料を求めた民事事件です。最高裁判所は、病院の行いは患者の人格権、つまり一人の人間として尊重される権利を侵害したものであると判断し、患者の福利尊重よりも自律尊重を優先する判決を言渡しました。

 ここで再び注意したいのは、このように自律の尊重と福利の尊重が対立する場合、常に自律の尊重を優先すべきというわけではない、ということです。最高裁判所による自律の尊重を優先するとの判断は、あくまでもそのケースに限りのことです。別のケースであれば、異なる判断も大いにありえます。

 看護の倫理の3つの柱として私が示す、自律・福利・正義という3つの価値が、相互に両立不可能な異なることを要求するとき、どの声に優先的に耳を傾けるかを決定する基準は、具体的なケースに触れる前に、一般論として示すことはできません。答えは、やはり一般的な理論ではなく、現場の個別事例の中にあるのです。

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 さて、次回からはいよいよ正義に関する議論に入ります。正義論と言えば、看護の倫理・生命倫理に限らず、私の専門である法哲学の中でも、最も重要であり、かつ論争の歴史の長さと水準が顕著な分野の1つです。長く複雑な道のりになると思いますが、ぜひお付き合いください。


事件の概要・判決の要旨・解説などは、法律学の参考書として標準的な、『別冊ジュリスト憲法判例百選Ⅰ』(有斐閣)を参照してください。

川瀬 貴之

千葉大学大学院社会科学研究院 教授

かわせ・たかゆき/1982年生まれ。専門は、法哲学。京都大学法学部卒業、同大学院法学研究科法政理論専攻博士後期課程修了。博士(法学)。千葉大学医学部附属病院講師などを経て、2022年10月より現職。好きなことは、旅行、娘と遊ぶこと、講義。耽美的な文学・マンガ・音楽・絵画が大好きです。好きな言葉は、自己鍛錬、挑戦。縁の下の力持ちになることが理想。

企画連載

人間の深淵を覗く~看護をめぐる法哲学~

正しさとは何か。生きるとはどういうことなのか。法哲学者である著者が、「生と死」や「生命倫理」といった看護にとって身近なテーマについて法哲学の視点から思索をめぐらし、人間の本質に迫ります。

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