私は人類学者です。葬制、つまり死と死者をめぐる儀礼や習俗というものを相手に調査をしているのですが、各地をフィールドワークで訪れると、いろいろとめずらしい出来事に遭遇します。記念すべき連載初回では、私のフィールドノートのなかでも印象深いものを一つ、ご紹介しましょう。
死ぬことのない世界
正確な場所は明かせないものの、とある秘境の村をつい最近訪れたときのこと。私は思わず耳を疑ってしまいました。なにしろ、その村ではこれまで誰も死んだことがないというのです。つまり不老不死。「埴輪をつくるのは意外と大変でしたよ」「壬申の乱は大騒ぎで迷惑だったねえ」とか平然と語るのですから、私がどれだけ驚いたか少しはわかっていただけるでしょうか。
ただ、人間が生まれてくる一方であるならば、増え続ける人間でそのうちにあふれかえってしまわないのだろうかという素朴な疑問も生じます。尋ねてみると、崖から落ちて体がバラバラになってしまったり、あるいは漁の最中になにかの拍子でサメにパクリと食べられたりと、突発的な事故などで人間としての原型を留めなくなると、さすがにこの人は活動停止と見なされるのだとか。要するに、老いることも病気にかかることもないけれど、物理的に動かなくなった人は「いないこと」になって社会から排除されるので、それによって人口そのものはうまく調整されているのかもしれません。
さて、兎にも角にも死ぬことはないとなると、当然ですが「あの世って、どう思いますか」といった質問を投げかけてみても、その村の人びとはポカンとしているだけです。死という出来事は基本的に存在しないのだから、その先の時間軸を想像することができないのは当然と言えば当然。では、先ほどの「動かなくなった人」はどうなるのでしょうか。今度は耳ではなく、わが目を疑いました。なんと、そのまま放っておかれているではありませんか!
そして今、このコラムを読まれている読者の皆さんは全員同じ疑問を抱いているに違いありません。お葬式やお墓は一体どうするのか? 先ほどお伝えしたように「あの世」や「死ぬ」という概念が存在しないため、人間を弔うということもしません。 家族や友人などの生前に親しかった人びとに対しても、とりたてて心を動かされることもなく、日常の一場面として淡々と「ああ、動かなくなっちゃった」と感じるくらいのもの。まあ、それもそうですよね。だって、その村の人びとに限らず、私たちだって誰もが生活に追われて忙しいわけですし、そもそも自分の出来事ではありませんから考えてみれば当たり前の話ではあるわけで…
死者を弔う文化
…いえいえ、当たり前ではありません! もっともらしく「とある秘境の村」などと書きましたが、もちろんこれは真っ赤な嘘。架空の話ですので、どうかご安心を。最初からこんな、悪い冗談とも言えないような不謹慎な話で申しわけありません。でも、人類学者などと称してさまざまな土地で、さまざまな人びとと出会いながら調査と研究をしていると、「死者をそのまま放っておくなんていう文化も、もしかしたら長い人間の歴史では存在したこともあったのだろうか」、はたまた「悠久の歴史を眺めてきた不老不死の人間という存在が、どこかにひっそりと住んでいるのではないか」などというという妄想がときどき脳裏に浮かぶこともあるのです。
しかしそのたびに地球上のあらゆる社会で、歴史上のあらゆる文化で、これまで人びとは死者を弔い続けてきたということを、そしてどうやら人間という生物は遅かれ早かれ必ず死ぬことになっているということを、あらためて思い返すことも事実。私の知るかぎり、死者の亡骸をそのまま廃棄物のように捨て置いてなにもしないということは、災害や戦争などのきわめて特殊なケースに限られると言っても過言ではありません。そして、先ほどの作り話からもおわかりのように「人間が死ぬということは単に生命活動が停止するということだけでなく、人々の認知が形づくるきわめて文化的な出来事でもある」のです。
このコラムでは、人類学者があれこれと書き留めていくフィールドノートのように、死・弔い・看取りをめぐる幅ひろく豊かな文化のありかたを描き出して、読者の皆さんとともに見つめていきたいと考えています。そしてまた皆さんのなかには、看護や看護教育の現場で日々さまざまな死のかたちと向き合う経験を重ねている方もきっと多いはず。人間が死ぬってどういうことなんだろう…。 そんな素朴な思いを、それぞれの言葉に紡ぎ出していく支えになれたら幸いです。どうぞよろしくおつき合いのほどを。