社会人から看護師への転身
一般の大学を卒業後、家庭、子育てを両立しながらフラワーコーディネーター資格を取得し、花関係の仕事をしていた。看護や医療職とは縁のない人生だった。しかし30歳の時に母がくも膜下出血で他界し、父が体調を崩した。介護のため、ホームヘルパー2級(当時)の資格を取得したことを機に、訪問看護ステーションに併設された訪問介護ステーションで働き始めた。これが私と看護との出会いであった。ターミナルケアを行う事業所だったが、介護士の自分には分からない疾患・病態の知識を駆使してアセスメントする同僚看護師を心から尊敬し、憧れの気持ちを持ち始めた。
自分も看護師になりたいと思ったものの、一度は家庭を理由に諦めた。それでも新たな夢を諦めきれず、憧れた同僚看護師に相談した。「自分の卒業校なら社会人入試もあるからぜひ」と紹介され、東京警察病院看護専門学校を受験した。同校からの合格通知が届き、当時30代半ばに差し掛かり医学的知識は何もないままに、私は看護の学びへの歩みを踏み出すこととなった。
母校の看護教員という新たな道へ
卒業後東京警察病院に就職した私は、救急病棟・救急センターに配属された。業務はとてもやりがいがあったが、非常に忙しく、夜勤も頻繁にあった。5年が経ち、年齢や体力的に今の働き方をいつまで続けられるか悩んでいた時、母校の教員に今後の方向性について相談した。「選択肢の1つに教育もある」と言われ自分の心と対峙した時、私の看護の原点は母校の教育にあり、気持ちが教員に向かっていくのを感じた。そして自分が学生時代に実習を通してひとりの患者に一生懸命に向き合う中で教員と共に看護についてとことん考え、実践していた日々が脳裏に浮かんだ。
母校では教員は教えるだけでなく学生とともに学び合うケアリングの精神があり、そのような関わりなら自分にも可能かもしれないと思えた。また大学時代に教育学の単位を取得していた私は、臨床経験年数も含めて教員として働く条件を満たしていた。実習生をほとんど受け入れない部署で働く自分に、学生を指導した経験はない。教える機会といえば新人指導くらいだ。不安がないと言えば嘘になる。しかし、学生と共に学び合う中で、遠回りで看護師になった自分の経験やこれまでの人生経験が役立てられるかもしれない。遅くに看護師になった自分にとっては新しいことにチャレンジする最後の機会かも知れない、と思い看護教員になることを決めた。
「ケアがない」と主張する学生
同僚看護師への憧憬が私の「人生の分岐点」だったとすれば、「看護教員としての分岐点」は教員1年目の実習中に直面した出来事であろう。
当時初めて基礎看護学実習Ⅱを担当した時、ある男子学生が受け持ち患者に対して「援助がない」と言っているのを聞き、とても戸惑った。患者は建築現場で働く大工で、作業中に左母指を切断、再接着術後だったのだが、あまり会話をするタイプではなく、ケアをしようとしても「間に合っている」と断られることがよくあったという。学生本人も「患者はADLが自立している。右利きで患側は左手なので特に困ることはない。そのため援助がない」と主張し、日常生活における患者の困難を想像さえできないようであった。学生が看護にあまり積極的に取り組んでいない様子も気になっていた。
これはまずいと思い、指導看護師と相談した。彼女は「患者と同じような制約された格好をして過ごさせてみたら、何が大変か分かるのでは」とアドバイスをくれた。学生への指導経験が豊富なとても頼れる実習指導者だった。提案を学校に持ち帰り、上司にも掛け合った。快い返事をくださった上司のサポートもあり、さっそく学生に「患者の日常生活を体験してみよう」と提案した。学生は拒否こそしなかったが、教員に言われたから仕方なくやる、というような様子が見られる中で壊死予防のために左患側を挙上させている患者と同様に左手を点滴台から吊るした。その状態で2時間程度過ごさせ、学内での調べ物やパソコンの使用からトイレに至るまで、全て行ってもらった。
「こんなに困ることがあるとは思わなかった」。体験後、彼がぽつりと呟いた。利き手が問題なく使用できても日常生活で困る場面はたくさんあると、身をもって感じてくれていた。例えば、片手の動きが制限された状態でトイレに行くことは、想像以上に難しい。ズボンの上げ下げひとつをとっても不自由だし、右手もしっかりと洗えない。そもそも左手を高く上げ続けることの負担が大きく、長時間におよぶと疲労感の蓄積や肩の凝りにつながることもよく実感していた。
教員と現場の指導者が協力して学生を導く
その日の午後、学校で改めて学生と話した。「辛かった」と言う彼に「同じ思いをしているであろう患者さんは、どうしたら楽になるかな?」と考えさせると、「右手の手浴と肩周囲の温罨法がよいと思う」と自分なりの答えを見つけてくれた。対話によって引き出すことはしたが、まぎれもなく彼自身の考えだ。学生はまだ演習をしていなかった手浴を真剣に練習し、翌日、病棟で患者にケアを申し出た。彼本人が説明を行い、石けんも使って入念に右手を洗った。普通のお湯以上にリラックスしてもらえるよう入浴剤を入れて、丁寧にマッサージをした。
患者は当初は「手浴」という言葉にピンと来ていないようだったが、ケアを終えると「ありがとう、助かったよ」と笑って学生にお礼を言った。寡黙でややぶっきらぼうな印象のある患者が、初めて見せてくれた笑顔だった。当時学生が書いたレポートには、「患者が自分が行ったケアを喜んでくれて嬉しかった」との言葉が残されている。「援助はない」と言い切り、訪室すらしようとしなかった姿からは想像もつかないほどの変化だった。
学生の成長を垣間見て、自分の学生時代をふと想起した。振り返ってみると、当時の私も綿密に打ち合わせた教員と指導看護師からアドバイスをたくさんもらいながら、二人に見守られ解に導かれていたと気が付いた。学生の成長はさることながら、教員と現場の指導者が手を取り合い、連携して学生を育てていく看護教育の在り方に「これは面白い!」と胸が高鳴った。新米教員として不安もあったが、自分たちが思案し、対話し、言葉や行動を引き出すことで、学生が大きくなっていく姿を通し、これからも看護教育を続けていきたいと強く思えた。
自分は看護師ではなく“看護教員”
この経験から、実習指導者との関係を良好に保ち、学生との間でうまくバランスを取ることも自分の役割だと意識するようになった。時にはうまくいかず悩みもするが、実習指導者も基礎教育への熱意を持っていてくれるからこそ、すれ違ってしまうことがあるのだと思う。自分は看護師ではなく“看護教員”であることを忘れず、教育的な視点から実習指導者と学生のバランスを取ることで、学生にとってよい学びとなり学生が何かをつかみ取って帰れるような指導を心掛けている。
力不足を痛感し、「もっと臨床で経験を積んでいたら」と後悔することもある。臨床に戻りたいと思う日がないわけではない。しかし、指導を通して何かしら基礎教育の面白さを感じ、学生の成長を見て嬉しいと素直に思えることが看護教員を続けていく原動力につながっている。
学生たちは看護を学びながら、自らの看護観をこれから見出していく中で、教員の自分もはっと気づかされるようなピュアな視点を持つ看護師の原石である。そんな原石を磨くこの仕事の尊さを常に感じ、彼らの成長を根気強く待ちながら見守っていきたい。