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第25回:理想を掲げるエリート不良少年~功利主義をめぐる論争~

第25回:理想を掲げるエリート不良少年~功利主義をめぐる論争~

2025.01.30川瀬 貴之(千葉大学大学院社会科学研究院 教授)

 前回に続き、功利主義について考えたい。功利主義ほど、四方八方から批判を受けている思想も珍しいが、アンチの多さは人気と魅力の裏返しでもある。今回は、功利主義に対する挑戦と、それを受けての功利主義による弁明を、3つの論点から取り上げてみたい。

集計主義批判

 第一は、功利主義の集計主義に向けられる批判である。功利主義は、国全体・大学全体など、何らかの社会全体の福利の合計の増進を目指す。つまりは全体主義的なのであり、これに対して個人主義の立場から批判がなされる。曰く、功利主義はGDPがどれくらい成長するかということだけを気にかけて、成長の果実が社会のメンバーの間でどのように分配されているかについて全く関心を払っていない、と。このような批判は、個人を尊重する自由主義や、分配の公平を重視する平等主義からなされる。これらの思想は、今後、じっくり取り上げていく予定である。

 これに対する功利主義の応答は、にべもない。個人・自由・平等・分配、これらの価値は、たしかに自由主義や平等主義にとっては重要なものであるから、自由主義や平等主義がそれらに反しているなら批判に値するが、功利主義はそもそも、それらに価値を置いていないのだから、そんなことを言われても困るのである1

福利主義批判 

 第二は、功利主義の価値観の基本をなす、福利・功利・効用・幸福の概念の中身に関する批判である。福利効用をどのように定義するかは、功利主義者の間でも多様であるが、最も典型的な功利主義者で前回も登場したジェレミー・ベンサムは、それを快楽と苦痛という観点から説明する。身も蓋もない言い方をすると、脳の報酬系で作用するドーパミンのような神経伝達物質の量で福利をカウントするのである。そして、功利主義者にとって、そのように定義された福利効用のみが、価値の唯一の源泉なのであり、それ以外の一切のものには、価値はない。ベンサムは、同性愛者個人の同性愛行為の自由を尊重するなど、リベラルな主張をしているが、それはあくまでもその方針が社会全体の快楽の量を増加させるからであって、性的自己決定や自由や権利などは、どうでもよいことである。

 このような功利主義に対して、人種差別主義者が多数派を占める社会では、人種差別が推奨されてしまうとか、悪しき副作用が長期的に見ても乏しいと思われるドラッグに酔っている状態、たとえばSF映画『マトリックス』のようにコンピューターによって偽りの幸福な夢を見させられている隷従状態を容認してしまうという批判がなされる。偽りの夢だろうが、人種差別だろうが、快楽を生み出すものは、一様に善とされるからである。これは、差別やドラッグを嫌う道徳主義者や、真実を重んじる者の怒りを買う主張だろう。

 しかし、ここでも木で鼻をくくった応答になるが、功利主義者は、福利の最大化以外の道徳を意に介さない2。もちろん、現代の多くの功利主義者が心情的に人種差別を容認しているとは思わないが、功利主義の理論の中には人種差別を必然的に排除するものはない3

理想主義批判

 第三に、これが私が功利主義に対する最も深刻な打撃になると考えている批判であるが、功利主義は現実的・技術的に実現が難しいという指摘がある。時々刻々と変化する不特定多数の人々の欲求や、生産者の能力や、流通の状況などにかかわる情報を、常時直ちに収集し、最適な分配の回答を計算し、最低の費用でそれを速やかに実施することなど、誰がどのようにしてなし得るというのか。SFにおける全知全能と見まがうコンピューターであっても、ましてやその現実的代用品である人間の官僚組織であればなおさら、功利主義の理想を完全に実現することは夢物語に聞こえる。

 これに対する功利主義の応答は、やはり暖簾に腕押しである。それによれば、功利主義の主張は、あくまでも規範的な望ましさ(desirability)に関するものであり、実現可能性(feasibility)は問題にしていない。できるかできないかは、正しいか正しくないかとは別問題であり、前者は後者に影響しない。理想・目指すべき方向は、そこへ至る道がどれほど遠くても、変更はない。

 私のような現実主義者・保守主義者にとって、規範的望ましさと実現可能性とは、別の概念であることは十分に理解できるとしても、実際にできるかできないかは、規範的な望ましさに相当な影響力がある。いくら正しいからと言っても、できないことを言っているだけでは、絵に描いた餅である。

 理想と現実の兼ね合いは、難しい問題である。確かに、理想や理念なしには、何事も、その望ましさを評価できない。理想は、たとえ完全には実現できなくても、一歩でも進むべき方向がどちらであるかを示してくれる。しかし他方で、理想主義は、頑迷に陥り走りやすい。功利主義の、エリート主義でありつつも、上記のような、煮ても焼いても食えない、不良少年的な態度は、まさに頑固な理想主義ゆえである。では、我々はどうすべきか。

 私が最も愛する作家・歌人の一人である須永朝彦は、不良星菫(せいきん)派4と呼ばれた。それによれば、理想は、天上にのみあるのであり、地上の些事を無視する不良にのみ、理想主義は許される。これは、芸術家や哲学者としては望ましい態度だが、我々がここで扱っているのは、医療・看護・法・政治、つまり社会の問題、この地上の問題である。自然、我々は魅力的で理想的な不良ではなく、つまらない優等生的現実主義者たらざるを得ず、そのことが、功利主義の代替案のヒントを示してくれる。

 そこで、次回は、規範的な望ましさについての指針を失うことなく、現実主義的に社会を運営するための思想として、ポパーやハイエクの考え方を見ることで、功利主義の代替案について考えてみよう。


1もちろん、分配の公平の問題に、真剣に向き合おうとする功利主義者もいる。ピーター・シンガーは、功利主義が、資源の平等主義という分配の公平の主張を含意すると主張する。しかし、それは功利主義の外にある他の多くの条件が満たされたときのみの、含意関係なのであり、功利主義そのものの含意としては、あくまでも全体の福利の成長・最大多数の最大幸福だけであり、分配の公平は必然的に導かれるものではない。Singer P: Famine, Affluence, and Morality.Philosophy & Public Affairs1:229-243,1972
2ただし、ジョン・スチュアート・ミルの「満足しない豚よりも、満足したソクラテスのほうが良い」という主張のように、福利効用にも、高尚で称賛されるべきものと、低俗で非難されるべきものとの区別がありうるという考え方をする功利主義もある。
3ちなみに、功利主義の理論の中には、人間を他の生物種よりも優遇する理由もない。食べられるクジラの苦痛が、食べる人間の快楽よりも大きいなら、クジラを食べてはいけない。功利主義にとって、人種差別も生物種差別も、それ自体は、どうでもよい。重要なのは、ただ福利効用のみである。
4星や菫(すみれ)などに託して非現実的に甘く感傷的な表現を志向する文芸の流派。

川瀬 貴之

千葉大学大学院社会科学研究院 教授

かわせ・たかゆき/1982年生まれ。専門は、法哲学。京都大学法学部卒業、同大学院法学研究科法政理論専攻博士後期課程修了。博士(法学)。千葉大学医学部附属病院講師などを経て、2022年10月より現職。好きなことは、旅行、娘と遊ぶこと、講義。耽美的な文学・マンガ・音楽・絵画が大好きです。好きな言葉は、自己鍛錬、挑戦。縁の下の力持ちになることが理想。

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