この7月に日本を訪れた外国人旅行者は約329万人に上り、1ヶ月あたりの旅行者数としては過去最高を記録したのだとか1)。しかし人数ではなく対前年からの伸び率だけで見れば、もしかすると1853年が歴史上で断トツの最高かもしれません。
そう、1853年(嘉永6年)と言えば黒船来航の年。ペリー提督以下、4隻の艦船に乗って米国からやってきたのは約1千人と伝えられています2)。それまでは江戸幕府の鎖国政策によって、ごく僅かな外国人しか来訪や居留を許されていなかったわけですから、日本中が大騒ぎになったのも当然と言えば当然のこと。それでは、黒船のご一行が「旅行者」かどうかはともかくとして、一体おとむらいと何の関係があるのでしょうか……?
フューネラル・アット・シモダ
日本ではペリー提督の通称で知られているマシュー・カルブレイス・ペリー(1794-1858)が日本遠征に引き連れてきたのは、軍人だけではありませんでした。もちろん最大の目的は日本に開国を迫ることではあったものの、一方では画家や生物学者なども乗組員に採用して、日本でさまざまなモノゴトを記録して見聞を広めようとも考えていたのです。
この膨大にして詳細な記録は、後の1856年に『ペリー提督日本遠征記』(Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan, 以下『遠征記』と略)3)という報告書にまとめられて米国の上院議会に提出されたもので、幕末期の日本を知る上での貴重な資料として位置づけられているのですが、意外にも日本のおとむらいにペリーが深い関心を持っていたことがわかります。その例として、「日本の葬式、下田」(Japanese Funeral at Simoda4))という題名で『遠征記』に収められている下の絵をご覧いただきましょう。
なんと! このコラムでも何度か触れてきた葬列の光景が克明に描き出されていますね。黒船艦隊の面々は伊豆半島の南東部にある下田に約2ヶ月にわたり滞在していたのですが、その間にペリーや乗組員の誰かが、下田の人びとの葬儀に出くわしたのかもしれません。先頭を歩く僧侶の後に続いているのは遺族と思われますが、第5回の「色とりどりの弔い」で述べたように白い喪服を着ていますし、少しばかり簡略化されて描かれている気はするものの彼らが担いでいるのは、紛れもなく第8回「あなたを乗せて」で登場した輿(こし)。その緻密な観察眼には舌を巻くばかりですが、実際にペリーは外交や軍事だけでなく日本文化そのものへの好奇心も旺盛で、部下に対しても「人びとの暮らしぶりについて見聞きしたことは、できるだけ詳しく記録しておくように」と命じていたそうです。
「日本人は死者に敬意を払っている」
このように『遠征記』では先ほどの絵だけでなく、日本の葬儀にまつわる風習や信仰に関する記述がかなり多く見受けられます。それはもしかすると、ペリーが航海中も聖書を毎日欠かさず読むほどの敬虔なキリスト教徒であったことに加えて、当時の列強諸国による植民地政策と同じく、黒船来航も「未開の人びとへの宣教活動」という背景を持っていたからかもしれません。つまり、日本人にキリスト教を広めるためにはどうすればいいのか……という関心が、おとむらいに対する興味に結びついたのではないかと思われます。
ただし、それ以外にも理由が考えられます。『遠征記』に「私は陸上で四回の葬儀を執り行った。横浜で一度、箱館で二度、下田で一度である。いずれの事例にも日本人が立ち会っており、たいていは大勢の人々が集まった。彼らはいつも行儀が良かった5)」と記されているように、ペリー自身が日本遠征の間に何度も乗組員の葬儀を経験しているのです。
現在と異なり、昔の遠洋航海はそれこそ命がけ。船内に積める食品も限られているため体調不良になる者も多いだけでなく、艦船での作業は常に危険を伴います。中にはマストから転落死した乗組員もいたのだとか。長い航海を共にした部下が亡くなったとなれば、丁重に葬ってあげたいと思うのが人情ですよね。しかし、冷蔵や冷凍の設備は言うまでもなく、エンバーミング6)はおろかドライアイスさえ存在しない時代。航海中に亡くなった遺体の姿かたちを保ったまま、遠く離れた母国に還すことなど到底不可能であるばかりか、遺体の腐敗によって船内で感染症が生じるという最悪の事態は絶対に避けなければいけません7)。
というわけで、遠征の間に死亡した乗組員は日本で葬られることになりました。特に、重要な会談の2日前に亡くなった乗組員の葬儀に関しては『遠征記』で詳しく記述されており、国同士の緊迫した話し合いの中で、この葬儀が重要な議題になっていたことがひしひしと伝わってきます。当初、ペリーは「この死者を埋葬するため、またこれから死ぬかもしれないアメリカ人のために、日本人から土地を購入したいと申し入れた」8)のですが、日本側としては国家間の条約も締結していないのに外国人に土地を「購入」されては困ると思ったのか、出島のある長崎まで日本船で遺体を移送し、そこにある寺院で埋葬するという妥協案を提示しました。ところがペリーはこの申し出を強い口調で拒み、艦隊が停泊しているすぐ近くの夏島9)という小さな島に葬りたいという意向を伝えたのです。
この時の状況を『遠征記』では「提督は、日本人が数ある墓地のどれかに埋葬することを拒否し続けるなら、万難を排してこの島に埋葬することを決意していた。日本人は死者に敬意を払っているので、死体に害を加えることはないと、十分に承知していたからである」10)と記述していますが、遺体が無残に腐敗してしまう前に何としてでも手厚く葬りたいという強い思いだけでなく、「日本人ならば丁重に死者を扱ってくれる」という信頼の念も透けて見えるのではないでしょうか。
そして議論の末に、乗組員の遺体は夏島ではなく下田の地で葬られることになりました。この時に執り行われた葬儀の描写も詳細を極めており、とりわけ興味深いのは艦隊に同行してきたキリスト教の牧師と現地の僧侶が合同で葬儀を司っている点です。その様子を以下に抜粋してみましょう。
(前略)従軍牧師のジョーンズ師は、上陸すると数人の日本役人にきわめて丁重に迎えられ、想像していたキリスト教とその聖職者に対する嫌悪感は見られなかった。群衆も集まってきて、好奇心にあふれる目で、しかし礼儀正しく敬意を払いながら、葬列が物悲しい太鼓の音に合わせて静々と行進するのを眺めていた。(中略)ジョーンズ師はアメリカ聖公会の祈祷書を詠んだ。そして彼が司式をしている間、仏僧はかたわらで前に祭壇を設けたマットに座っていた。祭壇の上には一束の紙片、米、銅鑼(どら)、酒の入った壺、香がおいてあった。祈祷書を読み終えると、死体が下ろされ、土が投げ入れられ、一行は埋葬地を離れた。すると仏僧が仏教特有の葬式を始めて、銅鑼を打ち鳴らし、ガラスと木の数珠を繰り、経を唱え、香をたき続けた。11)
つまりキリスト教式と仏教式をミックスさせているわけで、文化と宗教の垣根を超えて死者を弔っているという光景が、今から170年あまり昔に実現されていたという事実に驚きを覚えます。何しろ、当時の日本人は(あるいは現在の日本人の多くでさえも)キリスト教式の葬儀など見たことも聞いたこともないわけですからね。それにもかかわらず、『遠征記』を読む限りでは、黒船でやってきた乗組員の葬儀に際して日本人が「何だか変なことをやっているな」とか「そんなことは許さないぞ」などという態度を示した記述は一切見当たりません。逆に、上述の抜粋にあるとおり「嫌悪感は見られなかった」とか「礼儀正しく敬意を払いながら」といった記述が随所に見受けられます。そしてまた、ペリーをはじめとする米国人側からも、日本のおとむらい文化を尊重しようとする眼差しが『遠征記』全体を通じて伝わってきます。
翻って、2024年の今日。冒頭で述べたように外国人旅行者が飛躍的に増加しているだけでなく、母国を離れて日本で暮らし、日本で亡くなる外国人も増えてきました。いろいろと一筋縄ではいかない問題もありますが、ペリーが「日本人は死者に敬意を払っている」と語ったように、どのような国籍でも、どのような文化でも、この世を去った者は等しく丁重に扱われるべきという倫理観を現在の日本人は果たして持ち合わせているでしょうか。その答えは、今も下田にある玉泉寺という寺院の墓地でひっそりと歴史の流れを見つめてきた、黒船の乗組員だけが知っているのかもしれません。
2)ペリー率いる黒船の艦隊は早くも翌年の1854年(嘉永7年)には再び日本に来航するのですが、その時の艦船は9隻、乗組員も約2千人と、初回来航時からほぼ2倍に増えた大艦隊でした。
3)M・C・ペリー,F・L・ホークス(編纂),宮崎春子(監訳):ペリー提督日本遠征記,角川文庫,2014
4)一般的なヘボン式ローマ字表記では“Shimoda”となりますが、原著で記述されている“Simoda”を採りました。
5)『遠征記』,p.404-405
6)遺体の防腐保存処置のこと。余談ですが、この技術は黒船来航の少し後に米国で勃発した南北戦争(1861-1865)で、戦地で亡くなった遺体を故郷に戻すために普及したと言われています。
7)またまた余談ですが、日本では船員法第15条で「船長は、船舶の航行中船内にある者が死亡したときは、国土交通省令の定めるところによ り、これを水葬に付することができる」と定められています。つまり本文で述べたような衛生上の理由に基づき、遺体を海に流して葬る「水葬」を行ってもよいとされているのです。
8)『遠征記』,p.182
9)現在の神奈川県横須賀市夏島町。1916年に埋め立てられて陸続きとなりました。
10)『遠征記』, p.182
11)『遠征記』,p.185-186