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第24回:ところ変われば名前もさまざま

第24回:ところ変われば名前もさまざま

2025.06.12田中 大介(自治医科大学医学部・大学院医学研究科 教授)

 このコラムは月イチなので、今回で24回ということはなんと2周年。あれやこれやと好き放題に書き散らかしているにもかかわらず、こんなに続いちゃって大丈夫なんでしょうか……と書いているワタクシ自身が不安になりますが、何はともあれ読者の皆さまにご愛顧のお礼を。あっ、もちろんYさんをはじめ、南江堂看護編集部の皆さまにもですよ!

 さてさて、これまでの23回分のコラムで、おとむらいをめぐる多種多様な文化の広がりを少しでも垣間見ていただくことができたでしょうか。それこそ石川五右衛門の辞世の句 1)ではありませんが、世におとむらいのネタは尽きまじ……というわけで、今回はその尽きないネタを、おとむらいの「名前」という角度から掘り起こしてみたいと思います。

そもそも……

 何がそもそも……なのかというと、このコラムのタイトルにある「おとむらい」という言葉自体が葬儀を別の表現で言い換えた一種の忌詞(忌み言葉)や婉曲表現とも捉えられるんですね 2)。このような「葬儀の別名」はそれこそ多種多様どころか無数にあると言っても過言ではないのですが、それをいくつかご紹介してみようというのが今回の趣旨なのです。

 まずは第6回で初登場してから、これまでも何度か出てきたノベオクリ(野辺送り3)。言うまでもなく亡骸を墓地や火葬場に運ぶために葬列を組むことを指しますが、葬列が廃れてしまった現在でもしばしば耳にする言葉ではないでしょうか。単にオクリ(送り)やノオクリ(野送り)と呼んでいた地域も多く、そういえば「おくりびと」4)なんていう映画も大ヒットしました。亡き人をあの世へ送り出し、いつかは自分もそちらに行くから待っていてほしいという願いは、どの地域に住んでいても一緒なのかもしれません。この「送る」という言葉に注目すると、これらの他にトリオクリという言葉も西日本を中心に広く用いられていたようです。

 じゃあ、このトリオクリの「トリ」って何なのさ……という疑問が真っ先に思い浮かびますが、仮に動詞の「とる」のことだと解してみると、現在でも「死に水を“とる”」とか「看“とる”」なんて言いますから、何となく亡き人を送り出す際のふるまいに色々と当てはまりそうな気がしないでもありません。それ以前に「とる」という言葉自体が非常に多くの意味を持っていて、色々なモノゴトを進めたり、司ったりするという含意も持っているのはたしかです。

 そこで今度は数珠繋ぎのように「とる」に注目してみると、葬儀の別名としてトリオキという言葉もまた広い範囲で用いられていたことを、ふと思い出しました。ただし、民俗学の泰斗(たいと)である柳田國男は、このトリオキについて、「死後の処理や後始末を執り行う」という意味合いもあると述べた上で、かつて近畿や中国ではこのトリオキをお葬式で僧侶が執り行う「引導」のこととして、また四国の一部では「湯灌(ゆかん)」のこととして、それぞれ意味を限定して用いることもあったと語っています 5)。つまり、トリオキという言葉がおとむらい全体を指し示す場合もあるし、おとむらいの一部を構成する儀式や出来事を指す場合もあるということですね。ああ、日本語って本当に難しい! しかし、この難しいハナシはもうちょっと続くので、どうか引き続きおつき合いを……。

まだまだ……

 ここで再び「そもそも……」とボヤいてしまうワタクシなのですが、そもそも日本語って今までの話からもお分かりのように、「ユルっと」「フワっと」「マルっと」の権化みたいな言語じゃないですかァ? と、少し話がヤヤコシクなったので思わずギャルのように語尾を上げて理不尽に八つ当たりしてしまいましたが、言葉の厳密な定義や論理を先行させようとすると、どうしても頭デッカチな話になってしまうんですよね。それでも気を「とり」直して、引き続き色々な葬儀の別名を列挙していくことにしましょう。

 そのなかでも、タチバ(立ち場)なんていうのはまだ「立つ」という言葉から葬儀を類推できるかもしれません。前述した「送る」は、ある意味では遺された側からの視点に基づく表現ですが、反対に、亡くなった本人からすれば死ぬということは「旅“立つ”」ことでもあるわけで、葬儀があの世へと旅立つ場であるというイメージが湧いてきます 6)。ただ、かつては静岡県の駿河などでよく用いられていたというチリヤキなんていう言葉は、それこそ「どうしてそんな! テリヤキじゃないんだから!」と思わずムンクの「叫び」のようなポーズをとりたくなるのでは。これが火葬のことや、あるいは納棺や葬儀の際に出たゴミを焼いて浄めるといった風習から来ているのだとすれば、まあまあ頷けそうですが、先ほどの柳田國男大先生もこのチリヤキに関しては「其語の起りは今は全く考へ出せない」7)なんて匙を投げているぐらいですから、いわんやワタクシなどが分かるはずも……。

 さらにちょっと変わったところで言うと、葬儀の別名というよりは別表現としたほうがしっくりときますが、葬儀をする、もしくは人が死ぬということを、愛媛県の今治では「広島に行く」とか「広島へ煙草(またはお茶)を買いに行く」なんて言い表すこともあったそうな。実はこれ、かつては今治に限らず四国や中国、そして九州にも及ぶ広い範囲でかなり耳にするような言い回しだったんです。ワタクシも以前に山口県で調査をしていた際に、「うちのおじいちゃんがそんなことを言っていたなぁ」と実際に聞き及んだことがあります。でも、なぜ広島……? 「煙草を買いに」というのも、どことなく隠語めいた雰囲気ですよね。広島と言えば海原に建てられた大鳥居が幻想的な光景を醸し出す厳島神社もありますが、筑波大学名誉教授で地理学者の小口千明氏は、ここでの広島とは現実の広島市や広島県というよりも、「どこか自分の知らない広々とした所に行ってしまって戻れない」ような「抽象的な空間」として語られているのだと考察しています 8)。死んだ人間の霊が遠い異界へと旅立つ――そんなイメージが、この「広島へ行く」という表現には込められているのかもしれません。

 いずれにしても、ここまで挙げてきた事例だけでもほんの一部で、冒頭にお伝えしたように「葬儀の別名」はまだまだ語り切れないほど膨大に存在するのですよ。なので、その他の話についてはまた機会を改めて。えっ、最近この「また機会を改めて」のパターンが多過ぎる? いや、早くこの原稿を仕上げないと、それこそ南江堂のYさんにワタクシが広島に連れて行かれ……と、何はともあれ、それではまた来月お会いしましょう。


1)かの大怪盗、石川五右衛門はご存知の通り釜茹での刑に処せられながらも「石川や 浜の真砂は 尽くるとも 世に盗人の種は尽くまじ」という句を最期に朗々と詠んだという伝説で知られていますが、あまりにもデキ過ぎた物語なので、ワタクシは最近までホンマかいなと疑っていたのです。が! その当時(安土桃山時代)にスペインから日本に訪れていたベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンという商人が書いた『日本王国記』という見聞録には、しっかりと「Ixicava goyemon(イシカワゴエモン)という盗人が処刑され、一族郎党とともに京都の三条河原で生きたまま油で煮られた」という記述があるのだそうな。もっとも、上記の句をカッコ良く詠んだかどうかまでは定かではありませんが……。
2) 柳田國男:葬送習俗語彙,国書刊行会,p.4,1975(1937)
3) 民俗的、または地域文化に根ざした語彙であることを強調する場合はカタカナ表記にするという学術的な慣例にしたがって、今回出てくる「葬式の別名」もそのように表記し、現代的な語法に準じて漢字を当てることができるものについては併記しました。尚、今回登場する言葉の多くは上掲『葬送習俗語彙』の内容を参照していますが、この『葬送習俗語彙』については、長年にわたっておとむらいの習俗を緻密に収集してきた高橋繁行氏の『お葬式の言葉と風習: 柳田國男「葬送習俗語彙」の絵解き事典』(創元社,2020)が、克明にして抒情に溢れた切り絵とともに豊かな解説を寄せています。このコラムなどよりも、よっぽどイメージが湧いて参考になるかもしれません……。
4)監督:滝田洋二郎,脚本:小山薫堂,出演:本木雅弘・広末涼子ほか,松竹,2008
5)上掲:葬送習俗語彙,p.4
6)そう言えば葬儀を指す言葉ではありませんが、かつては「出立ち(いだち)の膳」と言って、葬列に出る前に(あるいは出棺の前に)軽めの一膳飯が一同に振る舞われるという風習が全国的にみられました。いわゆる「精進落とし」は葬儀が終わった後に食べるものですが、この「出立ちの膳」は故人と最後に食事をともにする機会として位置づけられます。
7)上掲:葬送習俗語彙,p.6
8)小口千明:忌言葉「ヒロシマへ行く」にみる他界の認識像とその変化,歴史地理学紀要,Vol.27,p.225,1985.尚、小口氏の論文では、本文で述べたように広島と言っても現実の広島市・広島県を指しているのではないという考察に基づき、カタカナで「ヒロシマ」と表記しています。

田中 大介

自治医科大学医学部・大学院医学研究科 教授

たなか・だいすけ/1995年に金沢大学経済学部経済学科卒業後、三菱商事株式会社入社。6年間の商社勤務を経て2001年に東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻に入学し、修士課程および博士課程を修了して博士(学術)取得。早稲田大学人間科学学術院などで教職を経て、2020年に自治医科大学医学部・大学院医学研究科教授に就任。専門は文化人類学・死生学。大学院生時代は葬儀社に従業員として数年間勤務するというフィールドワークを展開し、その経験をもとに執筆した『葬儀業のエスノグラフィ』(東京大学出版会,2017)をはじめ、主に現代的な葬制への関心を通じて「死をめぐる文化」の調査研究を進めている。

企画連載

おとむらいフィールドノート ~人類学からみる死のかたち~

人間が死ぬってどういうことなんだろう……。このコラムでは、人類学者である筆者があれこれと書き留めていくフィールドノートのように、死・弔い・看取りをめぐる幅ひろく豊かな文化のありかたを描き出していきます。ご自身が思う「死」というものを見つめ直してみませんか。

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