前々回でヘンリエッタ・ラックスとHeLa細胞の話を書いている最中に、実を言うとワタクシはもう一人の女性のことを思い浮かべていました。黒人であったヘンリエッタと同じく、彼女もまた理不尽な境遇に置かれながら堅実に働き続けていた一介の米国市民であり、そして何よりも現在まで「ずっと生き続けて」いるからです。そしてヘンリエッタがHeLa=ヒーラという名前で呼ばれることが多いように、彼女もまた本名ではなく別の名前で人びとの記憶に留められている点でも似ています。ただし、ヘンリエッタのほうは医学の進歩に大きな貢献を果たした人物として語り継がれているのに対し、今回ご登場いただく女性は稀代の悪女にして殺人鬼、さもなければ迷惑極まりない厄介者といった不名誉なイメージが付きまとっていることも事実。さて、そんな彼女はどのような名前で呼ばれていた人物なのでしょうか。
料理の上手い家政婦さん
彼女のニックネーム、それは「腸チフスのメアリー(Typhoid Mary)」。ちょっと背筋が凍りつきそうな名前ですよね。でも彼女にだって、ちゃんとメアリー・マローン(Mary Mallon、1869-1938)という本名があるのです。とは言えメアリーの半生については分かっていないことが多く、それは彼女が遠い海を越えて米国へと渡ってきた移民であるという事情が影響しているかもしれません。メアリーは1869年に現在の北アイルランドで生まれ、先に移住してニューヨークで暮らしていた叔母を頼りに米国へとやってきたのは1883年、つまりメアリーが14歳前後のこと。両親はどうやら彼女がまだ故郷で暮らしていた時か、さもなければ米国に移住して間もなく亡くなってしまったようで、叔母もメアリーの渡航後に程なくして他界してしまったため、彼女を助けてくれる親類縁者は誰もいなくなってしまいました。
米国は移民がつくりあげた国家とは言われているものの、クリストファー・コロンブスがアメリカ大陸に到達してから約400年、さらに米国の建国からすでに約100年を経ていた当時、新たにやってくる移民の境遇は概して過酷なものでした。特にメアリーのようなアイルランド系移民は、米国で主流を占めるイングランド系移民の先祖にかつて支配されていた人びとという印象も強かったために不当な迫害を受けることも多く、ましてや身寄りのない独り身の女性ともなれば、どこかの家に雇われる住み込みの家政婦として朝から晩まで酷使される以外にほとんど生きる術がなかったのが実情でした。そしておそらく、メアリーも同じように若いときからニューヨークの近辺で家政婦として働いていたと考えられています。ただし、彼女は他の家政婦とは異なる才能を持っていました。料理が非常に上手かったのです。それに加えて人柄も良かったようで、そんな評判を着々と築きあげたメアリーは裕福な家庭に雇われることが多かったらしく、当時の一般的な家政婦の給料の倍近い収入を得ていたのだとか。
閑話休題、1906年の夏。とある銀行家が休暇を過ごすために用いていた別荘で、6人の腸チフス患者が出るという事態が生じました。その銀行家にとっては不幸な災難であり、別荘のオーナーにとっても頭を抱える状況に違いありません。だって、原因を究明して悪評を払拭しない限り、その別荘を誰かに貸すことなどできるはずもありませんからね。というわけで、別荘のオーナーは衛生工学の専門家であったジョージ・ソーパーという人物に調査を依頼します。すると、興味深い事実が浮かび上がりました。腸チフスの感染騒ぎが起きた数週間前から新しい家政婦を雇い始め、その料理の腕前がバツグンだったので、ほとんどの食事を任せていたというのです。
もうお気づきでしょう。そうです、その家政婦こそメアリーでした。しかもソーパーがさらに調査を進めたところ、1900年から1907年に至るまでの間に、メアリーが雇われていた家庭とその関係者から少なくとも22人の腸チフス患者が出ており、その内の1人が感染により死亡していたことが判明しました。もっとも、当時のニューヨークでは毎年3,000人から4,000人に上る腸チフス患者が出ており、どこまでがメアリーを感染源とするものであったかは、今となっては闇の中と言わざるを得ません。ただし、「彼女が複数の流行のきっかけをつくり、数百人が巻き込まれたことは間違いない」1)と現在では考えられています。
ここで、聡明な読者の皆さんは「じゃあ、どうしてメアリー自身は腸チフスに罹(かか)らなかったの?」と疑問に思ったのでは。そこがまさに悲劇を生みだした大きな理由でもあって、彼女は無症候性キャリア、つまり自らは発症に至らないけれども他人には感染させる可能性のある病原体の宿主2)だったのです。おそらく彼女が最初に腸チフスに感染したときに、抵抗力のほうが勝っていて発症を抑えてしまい、そのまま抗体ができてしまったのだろうと考えられていますが、兎にも角にも彼女は体内に腸チフス菌を抱えていると自覚することもなく、また周囲から患者として意識されることもないまま、次から次へと雇い主の家庭のもとで料理をつくっては、「ゼロ号患者」ないしは「インデックス・ケース」3)として菌をバラ撒いていたというわけです。
新しい名前
話をメアリーの人生に戻しましょう。メアリーが感染源ではないかと疑ったソーパーは、何度も彼女のもとを訪れて「サンプルとして検査しますから、あなたの尿と便をください」と伝えたものの、彼女はその申し出を頑として拒みました。何しろ、先述の通りメアリーは自分が腸チフス菌の保菌者だなんて思ってもみなかったばかりか、訳も分からず自分の排泄物を差し出すなんて、当時の女性にとっては屈辱以外の何ものでもありませんからね。その抵抗ぶりは凄まじかったらしく、あるときは「肉を切り分けるときに使うカーヴィング・フォークという大きなフォークを振り上げてソーパーの方に向かっていった」4)なんてこともあったそうな。さらに、「同じ女性のほうが言うことを聞いてくれるに違いない」と考えたソーパーから依頼を受けて、ニューヨーク市の衛生官であったサラ・ジョセフィン・ベーカーという女性がサンプル採取の任務を請け負うことになったものの、やはりメアリーの強固な抵抗は変わりませんでした。とうとうベーカーは「このままだとニューヨークが、いや米国が腸チフスの脅威に晒されてしまう」と考え、メアリーが次の雇い主の家庭で働いていたところにドカドカと数名の警察官とともに押しかけ、納戸に逃げ込んだ彼女を力ずくで引っ張り出して強制入院させてしまうのでした。
そしてソーパーやベーカーが予期した通り、便から高濃度の腸チフス菌がされると、メアリーはリバーサイド病院という施設に隔離されることになります。このリバーサイド病院はニューヨークのイースト・リバーに浮かぶノース・ブラザー島という離れ小島にあり、腸チフスに限らず天然痘や結核など、当時猛威を奮っていた感染症の患者たちを社会から遠ざけるための「隔離島」5)。ここでメアリーは他の患者たちからも遠ざけるために掘っ立て小屋をあてがわれ、まずは1910年2月に解放されるまでの約3年間を過ごすことになるのですが、入院から間もなく彼女の存在は広く知られるようになりました。ただし本名のメアリー・マローンではなく、前述の通り「腸チフスのメアリー」という、ゾッとするような名前で。
上の図はメアリーが隔離されている間に出回った新聞記事ですが、一見すると優しそうな家政婦さんがフライパンで目玉焼きか何かを料理しているような光景にも見えますよね。しかし、彼女が割っている卵は、なんとドクロ……。「※再現映像です」というテロップとともに、「あの家政婦が、実は恐るべき殺人鬼だった!」なんていうナレーションが聞こえてきそうですが6)、このように当時のメディアは彼女のことを「コミュニティにとっての敵」「一般市民の健康への重大な脅威」「歩くチフス工場」「アメリカで最も危険な女」7)などと盛んに報じてセンセーションを巻き起こしました。
でも、よく考えてみると彼女は何か法律を犯したわけでもないのです。それなのに外部との関わりをすべて遮断され、来る日も来る日も検査と観察を繰り返されて掘っ立て小屋の中に閉じ込められたままという生活は、彼女にとっては拷問のようにも感じられたことでしょう。しかもメアリーにはリバーサイド病院に連れて来られる前に付き合い始めた恋人もいたらしく、彼女は隔離中の1909年に「自分を解放してほしい」とニューヨークの衛生局を相手に訴訟を起こします。その訴えは結局退けられてしまうのですが、このように彼女の隔離が訴訟沙汰になってしまったことも、「腸チフスのメアリー」が大々的に報じられた背景の一つであるのは言うまでもありません。
その後、彼女は「料理をしたり、食品を扱ったりする仕事はしない」「自分の住んでいる場所を定期的に連絡する」という条件を呑んで、ようやく自由の身になりました。しかし、ここで注意深い方は「そう言えば、“まずは”1910年2月に解放されるまでの約3年間を過ごすことに……とか書いてなかったっけ?」と思い出すかもしれません。そう、彼女はまたもや隔離、というよりも今度は上述した当局との取り決めを破った犯罪者として1915年3月に「逮捕」されてしまうのです。そして彼女にとっては不運なことに、そのときにはもう彼女を助けてくれる恋人も、そして訴訟を支えてくれた弁護士もこの世を去ってしまっており、彼女はアメリカの地に渡ってきた当初と同じように一人ぼっちで何とか暮らさなくてはならない状況にありました。
逮捕のきっかけは、やはり腸チフスの集団感染。ニューヨークのとある産婦人科病院で働く医療従事者から計25名の感染者が生じ、その内の2名が死亡するという事態が起きました。そして、その病院に3ヵ月ほど前から勤務して料理をつくっていた女性の名前はメアリー・ブラウン。それは、「腸チフスのメアリー」ことメアリー・マローンが用いていた偽名でした。こうして彼女は再びリバーサイド病院に強制隔離され、そのまま外に一歩も出ることなく1932年に69歳の生涯を終えたと伝えられています。彼女の葬儀に参列したのは、リバーサイド病院に務めていた医師や看護師など、わずか9名。いや、つい「わずか」と書いてしまいましたが、14歳で故郷を離れて、その後の人生のほぼ半分を社会から切り離されて暮らすことになった彼女の人生を考えると、むしろ9名もいたという表現のほうが正確かもしれません。
曖昧な問いかけにはなってしまいますが、皆さんは彼女のことをどう思うでしょうか。もちろん、彼女も「自分が悪いことをしている」と思っていたからこそ、偽名を使っていたのかもしれません。でも移民として、女性として、そして一人ぼっちで暮らす女性であったメアリーにとっては、家政婦として料理をつくるという仕事しかほとんど選択肢はなかったとも言えます。そして、彼女は「腸チフスのメアリー」という新たな名前を与えられ、そして本名を捨て去ってメアリー・ブラウンというさらに新たな名前を用いてまで、懸命に生き続けました。今や彼女は「あらゆるタイプの隔離経験の世界チャンピオン、何回もの腸チフス流行のインデックス・ケース、そして最も有名で最も健康な無症候性キャリア」8)として、冒頭で引き合いに出したヘンリエッタ・ラックスとはまた違った位置付けで、死後も生き続けているのです。
メアリーは、死後も生き残った。妙ないい方で恐縮だが、メアリーという歴史的人物は、もちろん一定の寿命の後に逝去したわけだが、「チフスのメアリー(Typhoid Mary)」という象徴的な名前として、半ば一般名詞のようなものとして、彼女が亡くなった後でも生き残ったのである。9)
もし、あるとき、どこかで未来のメアリーが出現するようなことがあったとしても、その人も、必ず、私たちと同じ夢や感情をかかえた普通の人間なのだということを、心の片隅で忘れないでいてほしい。そして、実在の一人の人間が、文化的象徴の装甲で鋼のような体になり、どれほど揶揄され、貶められても、一滴の涙も出さないように見えたとしても、それは本物のその人とはずいぶん違う仮象(かしょう)ではないのか、と疑うくらいの心の落ち着きを、ずっと持ち続けていて欲しい。10)
上記は今回のコラムでもところどころ参照・引用させていただいた哲学者の金森修氏の言葉ですが、考えてみると新型コロナウイルスのパンデミックを経験したあのとき、私たちもそこかしこでメアリーを見つけ出してはやり玉にあげていなかったでしょうか。もちろん、予防接種や感染対策など「正しく怖がる」のはとても大切なこと11)。でも、ワタクシだって、そして読者の皆さんだって、誰だってメアリーになる可能性はあって、そして誰だって「夢や感情をかかえた普通の人間」として生きて、死んでいく存在ですよね。そんな「普通の人間」の日々を支えている皆さんの心のどこかに、メアリーの存在を留めておいてくれたら……なんてワタクシはつい考えてしまうのです。
2)上掲1:0番目の患者,p.84
3)この「ゼロ号患者(patient zero)」、もしくはその同義語である「インデックス・ケース(index case)」という言葉は厳密な医学用語ではないと考える研究者もいますが、特に疫学や感染症の分野では「特定の集団で感染を拡大させる原因となった最初の発症者」という意味合いでよく用いられています。
4)金森修:病魔という悪の物語 チフスのメアリー,p.28,筑摩書房,2006
5)上掲5:病魔という悪の物語,p.39
6)余談ですが、世界初の一般向けテレビ放送が開始されたのはずっと後、1930年代末のことですので念のため……。
7)上掲5:病魔という悪の物語,p.45,75
8)上掲1:0番目の患者,p.92
9)上掲5:病魔という悪の物語,p.120
10)上掲5:病魔という悪の物語,p.139
11)よく考えてみると今回のトピックは「とろろ先生」のご専門でした。そうです、NurSHAREで「とろろ先生の微生物・感染症のおはなし」を連載されている大阪医科薬科大学教授の中野隆史先生のことですよ。その第29回にも登場しますが、現在でも腸チフスはコレラ、腸管出血性大腸菌感染症(O-157その他)、パラチフス、細菌性赤痢などと並んで3類感染症に規定されている現役バリバリ(?)の感染症なのです。



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