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『NiCEエンドオブライフケア』刊行記念座談会(後編):専門職者として、一人の人間として考えるエンドオブライフケア

『NiCEエンドオブライフケア』刊行記念座談会(後編):専門職者として、一人の人間として考えるエンドオブライフケア

2022.12.08NurSHARE編集部

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エンドオブライフケアの現状と課題

谷本:コロナによる影響もまだまだ続いていますが、エンドオブライフケアについて思うことや課題は、いかがでしょうか。

酒井:私は上尾中央病院の緩和ケア病棟で臨床宗教師として活動しています。今はコロナ禍で中止していますが、コロナ禍以前はカンファレンスにも参加していました。カンファレンスに参加して初めて看護師や医療者の皆さんがどんなふうに一人の患者さんに向き合っているかを目の当たりにしました。患者さんのQOLを一番に考えて、何度も話し合いを重ねながら今日1日どのようにケアするかを話し合われていました。私たち宗教者によるスピリチュアルケアも大切だと考えてくださっているからこそ、私たちもケアに参加します。臨床宗教師の参加は、医療者と私たちとの間に信頼関係があることが前提です。私たちは日本臨床宗教師会が定めた倫理を遵守しています。倫理の一つに布教、営利を目的としないということがあります。だからこそ信頼関係の中でチームの一員としてスピリチュアルケアができます。全国的にもっと周知され、臨床宗教師が活動の場を広げていければと願います。

谷本:ありがとうございます。人の生死、生きていて亡くなるというところで、どういう専門職が必要なのかという関心をみんなが広げておくということが大事だと、今思っておりました。

増島:日本では、臨床宗教師の活動はまだまだ全部の病院に広がってはいないですよね。海外ではホスピスでチャプレンが活動していますね。

酒井:臨床宗教師に限らず僧侶は檀家さんのいる病院・施設に僧服でお見舞いに行きお経を唱えるなど安心を導くことがあります。しかし、檀家さん以外の方にもとなるとやはり信頼のおける、倫理に基づいた肩書きのある者でないといろいろ心配ですよね。その資格が日本では臨床宗教師、あるいは臨床仏教師で、組織は異なります。座学や実習を受けた者が資格を得るため人数が少ないのです。臨床宗教師は、5年更新の認定臨床宗教師というものも始まり、現在は214名います。
 活動場所は様々で、服装もその施設の要望により異なります。私の場合は作務衣や僧服あるいは剃髪やウィッグなど要望に合わせて臨機応変に活動しています。ある高齢者施設では僧服に剃髪で見るからに尼僧の姿で、デイサービスに来る皆さんとお話しをしたり、ある訪問看護ステーションは患者さんのご自宅にうかがってお話を聞くなど活動は様々です。宗教や信仰など関係なく、宗教者とお話をすることは患者さんにとって大切なスピリチュアルケアの時間になっています。

川瀬:法律学では宗教者とのコラボレーションはあまり聞きませんので大変新鮮です。
 私は、エンドオブライフケアに最先端の学問だという印象をもっています。法律学だったら千年以上の歴史があるので、たとえば用語法とか概念の定義は揺るがないほどかっちりしていますが、比較的最先端の学問分野というのはエンドオブライフケアに限らず、私は生命倫理学会にも時々行きますが、どちらとも、まだまだ言葉遣い、方法、概念の整理などが定まっていない、発展途上という感じがします。

“最善”のエンドオブライフケアとは

川瀬:“最善”の解釈は、誰の意見からも独立したような、客観的で超越的なかたちで存在しているのではなくて、人々の間で共有された意識みたいなものから生まれてくるのだろうと思います。本人や家族、重要他者の間で、実際に共有された価値観のようなものですね。エンドオブライフケアにも、ある時代時代の社会全体の価値観というのを取り入れていく必要があると思います。
 そして、エンドオブライフケアに携わる実践者としての心がまえとして、教科書に書いてあることは死をめぐる問題の氷山の一角にすぎないということに留意し、実践の中で死に向き合う時は厳粛な気持ちで臨み、謙虚な気持ちを忘れないようにするということが大切ではないかと思います。看護学も医学も法律学も経済学も学問である以上すべて理性の範疇の中の営みで、すべて合理的、理性的にエビデンスを示しながら説明する営みだと思います。一方で哲学や宗教は、そこからちょっとだけはみ出そうとしている印象です。たとえば死の意味を説明しようとする。プラトンの『パイドン』は、ソクラテスが毒薬を飲んで死にそうになっている時の弟子たちとの魂の不死についての対話の本なのですが、エビデンスや理論や理性的な議論というより、そこからはみ出すことによって何か死の意味っていうものを語ろうとしています。学問というものはどうしても理性の領域の営みですが、他方で死の意味づけみたいなものは決して理性とか合理的主義的な考え方では把握できないし説明もできない。これは本書に書かせて頂いておりますが、一つの理由は誰も死んだ経験がないからです。死んだ経験に関するエビデンスも残せない。理性的に分析ができないものです。十分死を理解し尽くしたと思わないで、謙虚に新たに学んでいく姿勢が大切かなと思います。
 

川瀬貴之(かわせ・たかゆき)
1982年生まれ。専門は、法哲学。京都大学法学部卒業、同大学院法学研究科法政理論専攻博士後期課程修了。博士(法学)。千葉大学医学部附属病院講師などを経て、2022年10月より現職。好きなことは、旅行、娘と遊ぶこと、講義。耽美的な文学・マンガ・音楽・絵画が大好きです。好きな言葉は、自己鍛錬、挑戦。縁の下の力持ちになることが理想。


谷本:大変重みのある素晴らしいお話でした。増島先生いかがでしょうか。

増島:酒井先生がおっしゃられていたように、病とか死においてはどうにもならないことって、本当に日々あって、これを受け入れていくところまで到達するかはすごく難しいなと思います。患者さんもそうだし、ご家族も、亡くなられてから、こうすればよかったというのが出てきます。やはり最善のケアをできたかというと、悔いが残る方が多いのかなあと思っています。看護師の視点からいうと、そのどうにもならないことをできるだけ少なくしていくことが大切ですが、やはりできることとできないことがあると思います。昨日まではトイレまで歩けたのに今日はできなくなったとか、食べられなくなったとか、一つひとつできなくなってくることが増えていきます。その中でも、ご家族は患者さんができなくなったことに目が行きがちですので、今日は何ができそうなのかっていう視点を一緒に考えていく、そういったことが最善のエンドオブライフケアにつながるのではないかと思います。あとはやはり身体的苦痛は、完璧には取り切れないことも多いのですが、まずはそれを確認して緩和する努力をすることが第一だと思います。そこから自分がどう生きるかとか、どう在りたいか、家族とどう話していくのかというところにつながってくるので。

谷本:最善のエンドオブライフケアって何だろうって思います。最善を目指して頑張るんだけれども、最善であったかどうかはいつもわからない。そういう答えが見えないことに耐えるというか、しっかり受け止めたいのですが、難しいものです。最善というゴールに向かって真摯に向き合っていくプロセス、それ自体が最善なのかなと思ったりもします。
 また、がん以外の疾患は最期が長かったり、悪くなったと思っても治療したら良くなったりして、最期の予測が一層むずかしいのですね。そういうしんどさというのがあります。それで周りに対して攻撃したりしてしまう。その様子からその人が苦しんでいることを見抜きます。どれだけ見抜けるかということも、最善につながるかなと思っています。
 人は、何となく病気があるとわかるとか、突然死では難しいですが、死についても何となくわかるということがあります。下り坂に必要な装備があれば着けることを手伝ったり、自分の足でできるだけゆっくりゆっくり降りていけるように援助したりします。降りていく時に花が咲いていたりとか、パッと山の綺麗な景色に気づいたりして、「あ、綺麗だね」と心が明るくなる瞬間もあります。そんな時が少しでも多いといいのかなと感じています。大変な中でも、その時々に何か良いものを見せていくというようなことも一緒にできたらいいし、一緒に喜ぶこともできたらいいなと思います。何もかもが無理ということではなくて、看護師として何かできることが今あるかもしれない、それを一緒につくっていくことも最善の一つかと思いました。

エンドオブライフケアを学ぶ人へのメッセージ

谷本:最後にエンドオブライフケアを学ぶ人へ向けてメッセージを頂ければと思います。

酒井:看護や僧侶の学生から「生老病死にかかわる中で死を目前とした時に自分ではどうしてさしあげることもできなくて苦しむことはないですか」という質問を受けます。私自身、今でも苦しむことがあります。理想的なかかわりに憧れ、勉強に励み、どうにかできるものだと思い込んでいましたが、現実はどうにもならないことばかりで無力さを感じることが未だにあります。そのような時には、休みながら、まだまだ自分のやるべきことがあるのではないかともう一度見つめ直す時間をもってほしいです。人の死を前に、自分が幸せになってはいけないとか、自分の幸せを後ろめたく思うことなく、その相手と自分とは違う、自分にできることとできないこととを区別し、その中でどんなふうにかかわれたことに自分が良しとしていくのかは、仲間のサポートや家族、そして私たち臨床宗教師などに打ち明けながら乗り越えてほしいと思います。

川瀬:看護学生の皆さんには、教養を大切にしてほしいと思います。教養というのは知識の内容、コンテンツではなくて、それを主体的に求めていく態度のことだと考えます。自分が、これをやってみたい、あれをやってみたいって内側から湧いてくる欲求のおもむくままに、積極的に行動するような習慣を身につけてほしいと思います。
 二つ目に、無批判な肯定をしないことを大切にしてほしいと思います。これは、常に常識を疑う、疑って見直していくというような能力、たとえばアンデルセンの『裸の王様』の子どものような指摘をする能力を身につけてほしいということです。さらに、学生としてだけではなく、管理者になればなるほどそういう能力を磨いてほしいと思います。今までの常識がそのまま通用するような平時、通常時であればルーティンワークでも十分かもしれません。しかし、コロナ禍の時のような非常事態、有事においてこそ柔軟に考えるような能力が求められると思います。そのような能力を身につけ、発揮するためには、先ほど述べた教養が必要になると思います。
 そして谷本先生のお話をお聞きして三つ目のメッセージが浮かびました。答えがないことに耐えることです。私が講義している哲学という分野では、答えを示すことはあまりなく、むしろ問いを提示します。自分が取り組むべき大切な問題は何なのか、それを長い時間をかけて自分で考えていってほしいと思います。

増島:よく学生から、終末医療って難しいから自分にはできないと聞きます。エンドオブライフケアこそが看護の原点が詰まっていると考えます。一人の人間として何を対象者は価値づけていて、今日はどうしたいのか、あとはわかりにくい心の奥にはどんなことがあるんだろうかと、一緒にこう手をとって歩き続ける。まだ若い年ではあっても、そこは怖がらずにぜひ担ってほしいなと思っています。しかしながら、どうしようもない解決できないことがいっぱいあり、一人では負いきれないと思うので、他者と共有してどうすれば良いのかいろんな視点から話し合って、これで良かったのかなと思われる最善に近い答えをみんなで探す作業をしてほしいと思います。

 増島麻里子(ますじま・まりこ)
千葉大学看護学部卒業、同大学院修了。博士(看護学)。がん専門病院での看護師経験をふまえ、現在、千葉大学の医療系以外の学部生や看護学部・看護学研究科へのエンドオブライフケア教育研究に川瀬先生も含め他学問領域の教育研究者とともに携わる。また千葉市内の医療者とエンドオブライフケア研究会を運営し、デスカンファレンスや勉強会を継続している。好きな言葉は受験勉強で覚えた「Happiness consists in contentment」。ケアにつながる言葉ではないかと感じる。


谷本:ありがとうございます。私からは、人間に興味をもってほしいと思います。人間の奥の深さ、可能性って最期まであることや、人間の力を知ってほしいです。言葉を喋れなくなったり、あるいはこんなに衰弱していたり、一見弱々しく外側は見えていても、その人は実はものすごく考えていたり、途切れ途切れかもしれないけどいろんな思いが詰まっていたりということがあります。
 看護師に批判的に物を言ってくる患者さんがいても、めげないで、なんでそんなことをおっしゃったんだろうと周りと相談したりして、考えていってほしいと思います。
 生まれる時はおめでとうとみんなが集まったりするけれど、亡くなる時ってなんとなくみんなが遠巻きになっていきます。生まれる時だけではなく、最期の時も、大事にしてほしいと思います。この死をめぐる事象に興味や関心、問いをもつ姿勢をもち続けてほしいです。
 最後に、エンドオブライフケアを考えることは、自分にもかかわることという点は学生に理解してほしいですね。他人事ではなく、自分事という視点ももって学んでほしいと思います。

<終わり>

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