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第1回:人を成長させるプロフェッショナルであると自覚をもつこと

第1回:人を成長させるプロフェッショナルであると自覚をもつこと

2022.07.06水方 智子(パナソニック健康保険組合立松下看護専門学校 副学校長兼教務部長)

 本連載では、長きにわたり学生を“看護職”へと育ててこられた先生方に、ご自身のこれまでの歩みを振り返りながら、「専門職を育てるとは」どのようなことなのかを改めて考察していただきます。
 何を思い、何を願い、何を糧として学生と向き合ってこられたのか、ベテラン教員からのあたたかく示唆に富んだメッセージをお届けします。

(NurSHARE編集部)

 

教育する自分自身を客観視する

 看護基礎教育を考えるために、まず「看護とは」「教育とは」を私自身の経験から考えてみたい。

 そもそも、看護とは何であろうか。私自身は、約6年の臨床経験を経て看護教員になったが、実践してきたハズの看護を「言葉」として学生に伝えることができず愕然とした。また、3年という短期間で飛躍的に成長していく学生の姿から、「自分は教員として成長しているのだろうか?」と自問すると同時に、自分がどのようにかかわることが学生を成長させることにつながるのかもわからず、看護教員になってから5年ほど暗中模索の時期があった。先輩教員からの助言そのものが私には理解できず、いつも「わからない」を連呼していた。そんな悩める私を支えてくれたのは、同僚の教員達であった。この対象の看護はこれでいいのか、この学生にはどのようにかかわったらいいのかなど、実習終了後に毎日、子どもの保育所迎えの時間を気にしつつ相談していたことが昨日のことのように思い浮かぶ。同時に、学生たちから「先生は何を言っているのかわからない」「あの時の対応は嫌だった」とストレートな意見をもらう中で、この状況を何とかしないと教育の仕事は続けていけないと強い危機感を覚え、同僚教員から勧めてもらった看護科学研究学会1)に参加することとなった。そこで、実習においてうまくいかなかった学生指導場面をプロセスレコードに起こしては助言をもらう、ということを繰り返すうちに、徐々に自己を客観視できるようになり、自分の中で「看護とは」「教育とは」が明確になっていったように思う。

「教育」に悩む時は「看護」に戻って考える

 ナイチンゲールは「教育は別として、看護ほど相手のただ中へ自己を投入する能力を必要とする仕事はない」2)と述べ、薄井も「教育の仕事も、ナイチンゲールのいう看護師の仕事の定義と全く重なる。相手の心に飛び込まなければ教育は始まらない」3)とし、さらに目黒4)は「看護と教育の同形性」という言葉を使い、「日々患者とかかわる中で大切にしていることと、教える人として学ぶ人にかかわる中で大切にされる必要があることは、本質において何も変わらない、同じ形をしているということ」と述べている。私自身の経験からも、看護と教育が同じ形をしていることが私の教育観の軸であり、目の前にいる対象を大切にしながら個別的なかかわりが実践されていく看護と同様に、教育も目の前にいる学生を大切にしながら個別的に実践されるものであると考えている。
 ところが、なぜか教育の現場では、目の前にいる学生の理解や成長よりも、学校が設定した「目標の達成」に主眼が置かれるように感じている。代表される相談内容に「実習目標を到達できない学生に、どのようにかかわればいいか」というものがある。看護では、目標が達成できない時は、患者の状況や状態に応じて“目標を変更する”のと同様に、対象者の状況や状態に学生の状況や状態を重ね、この学生がどこまで達成すればOKかと“目標を変更する”のが教育においても当たり前だと考えている。しかし、看護では、対象を目標に近づけることはないのに、どうして教育になると、目標達成に向けて学生の方を近づけようとするのだろうか。「評価があるから」という声も聞こえてきそうだが、看護過程においても対象の反応をもとに看護過程すべてのプロセスを見直すことが評価であるのと同様に、教育の実践過程においても、学生の反応をもとに教育実践のすべてのプロセスを見直すことが評価であろう。このように、「教育」に悩んだ時は「看護」に戻って考えると、多くの問題はスッキリ解決できる。教育にまつわる文献を読む時にも、学習者を患者・利用者、教授者を看護師と置き換えて読み進め考えることで、自分の看護実践に裏づけされた、実感を伴うものとして理解ができるだろう。

 加えて看護と同じく、教育も学生との信頼関係の上に成り立つものであるから、学生との関係は何よりも大切である。それは、授業中のやりとりであったり、レポート返却時のコメントであったり、学内ですれ違った時の会話であったりという日常の中で構築される。また、人間は誰もが未熟な存在であるのだから、学生が引き起こす問題は、その学生の人格によるものではなく、若さや初学者ゆえの未熟さによるものであることのほうが多い。はじめから教員とケンカをしようと授業を受けている学生や、看護の対象に危害を加えようと思って臨地実習に行く学生は誰一人として存在しない。このことは、私の長い教員経験をもって保証できる。だから、学生とのかかわり方に悩む時には、教員と学生では基本的なパワーバランスが違うことを肝に銘じながら、学生との信頼関係を構築してほしいと思う。

学生の力を信じ、未来を向いて教育をする

 看護は、人間の生老病死すべての過程の生活調整にかかわる専門職である。人間や人間生活に対する深い理解が求められるため、年齢を重ねるほど円熟味を増す味わい深い仕事でもある。このように、ナイチンゲールの時代から大切にされてきた“人が人に接する中で実践される”という看護の本質は変わらないが、2020年からのコロナ禍に代表されるように、考慮に入れざるを得ない社会の変化は、これからも急速に起こってくるだろう。よって、看護専門職には、看護の本質を理解しつつ変わりゆく社会に対応するという2つの能力が必要であると感じている。
 看護の対象である人間への深い理解を促すには、人間は身体だけではなく心や社会関係をもちながら、過去・現在・未来の時間軸を歩む中で24時間の生活を送っている存在であると、過程的・構造的に理解すること、そして自然治癒力に焦点を当て、病院に限らず地域においても対象の回復過程を促す看護実践力を身につけることが必要である。また、「人生100年時代」の到来に伴い、人口動態とともに疾病構造や社会情勢も変化していく中で、新しい看護を切り拓いていく創造力も必要であろう。

 では、どのようにかかわれば、急速に変動する社会と共に生きていける看護師を育成できるのであろうか。それは、「自分が受けてきた看護教育からの卒業」と「転ばぬ先の杖をしすぎない教育」であろう。自己の看護教育観が安定しない時は、自分が受けた教育を手がかりにして実践することもあるが、そもそも自分が受けた教育は過去のものである。よって、その経験を現在に当てはめるだけでは行き詰まることが目に見えている。また、すべての看護教員は看護師であるため、どうしても相手が困らないように先回りをして整える傾向が強いようにも感じている。学生がわかりやすいように工夫した記録用紙を作ったり、実習で失敗しないように事前学習課題を提示したり、これらは一見親切に思えるかかわりであるが、暗黙のうちに「この通りにしなさい」と、こちらの価値観を学生に押しつけたり、「こうすると楽だよ」と、学生が思考する機会を奪っているのかもしれない。私自身も若かりし頃、学生の記録物だけを頼りに指導をしたこともあるが、そのようなかかわりでは深い人間理解や創造力は学生の中に構築されない。失敗も成功も学生にとっては貴重な経験である。その経験を大切にしながら、必要と思う知識を自分の手でつかみ取り、仲間と一緒に自分の看護観を発展させていくことができる未来志向の教育ができれば、これほど楽しいことはない。

 また、「看護師は命を扱う仕事だから、ある程度の厳しさが必要」と言う声もよく聞くが、厳しい/優しいは、感覚や方法レベルでの教育論であろう。学生を一人の価値ある人間として尊重し、人間味あふれた看護師としての成長過程を支えるために必要なものは、教員の高い倫理観と成熟した人間性であり、それらは教育観や看護観に内包されて、授業や実習指導などの教育的かかわりとして学生に提供される。厳しい指導によって学生が得るものは、看護の「楽しさ」や「奥深さ」ではなく「自信の消失」や「無力感」であり、これからの看護師に必要とされる「有能感」や「創造力」からかけ離れていることも明らかであろう。

教員の経験のすべてが、教員自身の、学生の、看護の未来を創る

 年度末のある時 、若い教員が「学生の成長に感動して涙が止まらなかった」と話してくれた。目の前にいる対象に自分のもてる力を精一杯そそぎ、対象の反応からもっとよい看護はなかったのかと、自己に問い続ける学生の姿は、私達教員に感動を与えてくれる。患者の存在が学生の頑張りを支え、学生の存在が患者の回復を支える―。これこそまさにケアリングであり相互浸透(両者が互いに作用し合い関係性を深める中で、共に目標達成に向かっていくこと)であろう。
 3年間という短い期間で、人間としても看護師としても学生が成長していく姿を見るのはただひたすらにうれしい。「看護師になる」という夢の実現過程に、一瞬でもかかわることができる看護教育という仕事は、愛が形を変えたものであるように感じられ、とても美しくキラキラした輝きがある。

 10年ほど前に、「先生プロでしょ、プロなら結果出さなきゃ」と先輩から喝を入れてもらったことがある。看護教員として長く教育に携わってきたが、「教育の結果が出るのは10年後だから…」と、どこか責任逃れをしていたように思う。教育という仕事で収入を得ている限り、アマチュアではなく、やはりプロフェッショナルなのであろう。これを読んでいただいている看護教員の先生方にも、ぜひ「自分は人を成長させるプロだ」という自覚をもって、次世代の看護を創る学生にかかわってほしい。つまり、決して楽ではない看護という道を選んで入学してきてくれた学生を尊重し、看護と教育の本質を見失わずに学生にかかわり続けてほしいということである。教員にとっても、うまくいったこともいかなかったことも、すべて自己の経験であり、それらが骨や肉となって未来の自分を形づくっていく。しんどいことを嫌がらず、たくさんの経験を積むことで、今はまだない、これからの看護教育を創ってくれることを心から願っている。

 
参考・引用文献
1)看護科学研究学会ホームページ:https://kankaken.org/,アクセス日:2022年6月29日
2)F. ナイチンゲール著,湯槇ます,薄井坦子,小玉香津子ほか訳:看護覚え書;看護であること 看護でないこと(第7版),p.227,現代社,2011.
3)薄井坦子 講演集:科学的な看護実践とは何か(上);看護の実践方法論,p.67,現代社,1988.
4)目黒悟:教えることの基本となるもの;「看護」と「教育」の同形性,メヂカルフレンド社,2016.
 

水方 智子

パナソニック健康保険組合立松下看護専門学校 副学校長兼教務部長

みずかた・ともこ/大阪府立看護短期大学(当時)第1看護科、放送大学大学院文化科学研究科教育開発プログラムを卒業。淀川キリスト教病院勤務後、大阪府立千里看護専門学校を経てパナソニック健康保険組合立 松下看護専門学校で教員として勤務し、2010年より現職。2021年度より一般社団法人 日本看護学校協議会会長に就任。趣味は、愛犬との戯れ、ミュージカル鑑賞、グレイヘア談議。

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