今回は、正義の最も基本的で最も根源的な概念、つまり最広義の正義概念である、形式的正義について考えよう。アリストテレスは、これを「等しき者を等しく扱うこと」としている1が、これでは抽象的すぎて、よく分からない。最広義の概念なので、抽象的で当たり前なのだが、もう少しシャープに、その概念の輪郭を切り取りたいところである。
不正義・悪との対比で正義を考えるか、愛との対比で正義を考えるか
どのような概念であれ、その輪郭をシャープに切り取るには、その余事象(それ以外のもの)との対比を明らかにすることが有用である。そこで、形式的正義の余事象を考えたいのだが、正義の余事象としてすぐに思いつくのは、不正義や悪である。「正義とは何か」と問うと、百家争鳴、議論があまりに拡散してしまうので、まずは「悪とは何か」の具体例について答えて、全事象からそれを引き算することで、正義の概念を規定しようという戦略もありうる。ジュディス・シュクラーが、この戦略を採用している2。
しかし、今回は、アリストテレスの議論に則り、別の方法で考えてみたい(余事象の取り方、つまり何と対比するかの設定は、1つとは限らない)。すなわち、正義と悪ではなく、正義とその他の徳性を比較するのである。アリストテレスの『ニコマコス倫理学』は、人間の評価を高める属性としての、様々な徳性を概念分析する著作であり、勇敢さや節制などの徳も扱われているのだが、ここで取り上げたいのは、愛と正義の対比である。公平な人や愛情深い人は、多くの場面で高い評価を受けているので、正義も愛も徳の一種であることは間違いない。
愛と正義の違い~固有性を無視するか重視するか~
しかし、両者は時に、鋭く対立することがある。というのも、正義は、個人の固有性を無視することを本旨とするのに対し、愛はそれを尊重することである、という根本的な違いがあるからである。この違いを、詳しく見てみよう。
「他人にされたら嫌なことは他人にしない」という素朴な道徳や、普遍的なルールに従うことを要求するカントの定言命法のように、自他の立場を入れ替え、反転させても成立する主張、言い換えれば固有性(世界に1つしか存在しないこと)に訴えなくても(つまり、固有名詞を使わなくても)正当化できる主張をすることが、その主張が正義の主張であることの条件である。固有性ではなく、一般性や普遍性を志向するのが、正義ということになる。
魔夜峰央『翔んで埼玉』では、埼玉県民が東京都を訪れる際には、通行手形が要求される。「東京都は部外者の入境を規制できるが、埼玉県はそれを規制できない」というルールの意味は、東京都や埼玉県の固有性なしには成り立たない、つまり東京と埼玉を入れ替えたら制度の趣旨が失われる。なので、このルールの主張は、いかなる意味でも正義の主張ではない。
それに対して、「都道府県は部外者の入境を規制できる」というルールの正当性は、一般的な名詞や形容詞のみで説明することができ、賛否はさておき、正義の主張となる。
ちなみに、私や多くの自由主義者であればこれに反対するだろうが、功利主義者であれば、パンデミックの緊急事態においては感染防止のために賛成するかもしれないし、共同体主義者であれば、これが都道府県の境界ではなく国境であるときなど、共同体の文化や一体性の維持のために賛成するかもしれない。ただ、これらは、正義という大きな枠組みの内部での、党派の争いである。
ともかく、複数の人の間で異なる扱いをするとき、たとえば試験で1人を合格に、もう1人を不合格にするとき、その正当化において、両者の成績という一般的な基準に訴えるのは正義の主張であるが、「他ならぬ○○ちゃんだから」という理由に訴えるのは、依怙贔屓である。
ところが、愛というのは、まさにこの依怙贔屓を要求する。固有性でしか説明できない理由で、愛情の対象を、それ以外よりも優遇する。これは、正義の観点から見れば、不公平に他ならないが、愛情も徳性の1つであるから、それ自体としては良いものである。問題は、愛と正義が両立しない場合である。両者の要求が矛盾しないことも多いが、もしそれが両立しないなら、どのような問題が生じるか、見てみよう。
正義の暴走
古今東西、社会的不公正の諸悪の根源として、私有財産制度に次いで槍玉に上げられることが多いのが、愛情に基づく共同体、家族である。大学に行かせてくれる親に生まれるか、虐待する親に生まれるかは、まさにガチャ(運の問題)であるし、配偶(マッチング)・結婚の条件は、いつの時代も経済力・社会的地位・容姿など、そして近年はコミュニケーション能力と呼ばれる総合的人間力が加わり、その分布は残酷なほど不公平である。正義の名の下に、これを一掃すべく、プラトン3は『国家』において、縁組と児童の養育についての私的な自由を禁じ、国家が管理すること、つまり家族の解体を提唱した4。これならば、不本意な未婚(非モテ・恋愛弱者)も宗教二世も家業の世襲もない。実際にプラトンは、正義の観点から見て理想の国家を実現すべく奔走したが、様々な理由から実現はしなかった。ともあれ、どういう環境であろうと、家族解体の政策が実現可能であったとは、到底思えない。あまりにも、人情を無視した提案だからである。
確かに、正義は大変重要な徳である。しかし、人間が大切にしている徳は、正義だけではない。仮に、家族のあり方が正義に反するとしても、なおそれを尊重する理由は大いにある。正義だけで突っ走るのは、人間を見失うことである。この意味で、プラトンは、何事につけても、極端や原理主義に走り過ぎる。それは彼の魅力でもあるのだが、○○警察やクレーマー、紅衛兵5やジャコバン派6のような正義の暴走を招く恐れがある。多様な利益の調整としての政策を考えるときには、様々な徳の間のバランスや中庸を重んじるアリストテレスの現実主義に分があると言えよう。
1高田三郎訳:アリストテレス ニコマコス倫理学(上)p.179,岩波文庫,1971年
2Judith Shklar:The Faces of Injustice,.YaleUniversity Press, 1990/ジュディス・シュクラー著,川上洋平, 沼尾恵, 松元雅和訳:不正義とは何か,岩波書店,2023年 彼女によれば、正義はしばしば抽象的で不明瞭にしか主張されないが、不正義を被ったとの主張は具体的な義憤に基づいてなされることが多いので、その説得力の強さゆえに同意が得やすいし、その内容も明晰でありがちだ、ということなのだろう。
3プラトンは、アリストテレスの師にあたる。アリストテレスは、プラトンの思想を受け継ぎつつも、それと格闘したと言える。
4プラトン著,藤沢令夫訳:国家(上),p.361,岩波文庫,1979年
5文化大革命期における毛沢東支持派の学生等
6フランス大革命期における急進的革新派