さて、前回は「顕微鏡の歴史」を見てきました。実は私の“人生”、といえば大げさですが、子どものときから現在に至るまで、顕微鏡とは長くつきあってきたんです。というわけで今回は予告通り、「とろろと顕微鏡とのおつきあいの歴史」についてお話ししますね。
とろろと顕微鏡の思い出(小学生~高校生編)
私、小学4年生のときに両親に光学顕微鏡セットを買ってもらいました。これ、近くの文房具屋さんの上の方の棚に飾ってありまして、もう、欲しくて欲しくてたまらなかったんです。顕微鏡だけでなく、スライドグラス・カバーガラスやスポイト、ピンセットなどの実験器具、そして染色液や永久標本としてカバーガラスを封入するバルサム液などの試薬一式も入っていました。さらに花粉やプランクトンなどを染色して封入した永久プレパラートも20枚くらい入っていて、今から思ってもなかなか充実したセットになっていました。おそらく高かったんじゃないかなあ・・・。
とろろ少年、雪の結晶の観察を試みる
もちろん20枚やそこらの永久プレパラートを観察するだけではすぐ飽きてしまいます。そこで当時のとろろは、身近なものを片っ端から観察していました。とくにご執心だったのは、雪の結晶、あの牛乳屋さんのトレードマークの「六角形(図1)」です、あれをどうしても自分の目で見たかったんです。なので、雪が降った日は必ずスライドグラスを手に、雪を追いかけていました。
のちのち母親が私の逸話として語っていたくらい、とにかく一生懸命だったのですが、都会の雪ですし、ガラスに落ちたらすぐに溶けてしまいます。よし、だったらと、スライドグラスを冷凍庫で冷やしてからやってみようと思ったのですが、スライドグラスに霜がついてしまうし、いくらスライドグラスを冷やしてもやっぱり都会の雪はすぐに溶けてしまいました。
今から思えば、都会の雪はそんなにキレイな六角形になっているはずもなく、おそらく冷凍庫に入れたスライドグラスについている霜、これだって「針状結晶(図2)」であって、まあ氷の結晶なんでしょうが、それと同じような形が見えるのが関の山だったんでしょう。それでもかなり真剣に雪を追いかけていた思い出があります。
後に高校生になってから私、人工的に雪の結晶を作った中谷宇吉郎(なかや・うきちろう)先生の本「科学の方法」(岩波新書)を読んで、キレイな結晶はそんなに簡単にはできないものなんだと知りました。実はこの本も名著でして、「科学って何?」ということ、とても勉強させてもらいました。ぜひご一読を。
恩師とゾウリムシの観察
中学・高校になりますと、とくに理科実験に熱心な学校でしたので、顕微鏡を使った生物実習は何度もあり、とても楽しかった思い出があります。ある日ゾウリムシを観察する実験があったのですが、ゾウリムシはとてもすばしっこく運動しますので、細胞の中の細かい観察はできません。そこでご指導いただいた生物の泉谷(いずみたに)先生が2通りの方法を提案してくださいました。ひとつはガーゼをうまくスライドグラスの上に拡げて、小さな仕切りを作ってその中にゾウリムシを閉じ込める方法、もうひとつはネバネバの液を使ってゾウリムシの運動を止めてしまう方法です。どちらもなかなかうまくいかず四苦八苦していましたら、光源の熱で水が蒸発してしまい、ゾウリムシがどんどん押しやられてしまって、ゴロゴロ転がっているうちにとうとう破裂してしまいました。それを顕微鏡で見ていた私は「ギャー!」と大声を上げてしまい先生に叱られた、なんて思い出もあります。
泉谷先生は夕方になると校舎の窓から見える夕陽を、パイプを燻らせながら油絵で描いておられて、とてもかっこよく、また教養豊かな先生でした。厳しい先生でしたが生物学のおもしろさを教えていただきました。生物実験、楽しかったなあ・・・。
とろろと顕微鏡の思い出(大学生~大学院生編)
大学に入ってももちろん顕微鏡は大事な器具です。微生物学実習ではとくに高倍率が必要ですから、トランス(変圧器)が外についているケーラー照明という光源装置がついた光学顕微鏡を使っていました。また対物レンズは油浸レンズといって、レンズの先端とスライドグラスの間を油で満たさないと観察できない特殊なものでした。
ふつう顕微鏡の色と言えば黒あるいはグレーで、新しい顕微鏡は数テーブルに1台、それはクリーム色のやつでしたが、それ以外の本学の実習室にある顕微鏡はなぜか赤、オレンジ、青、緑色、そして黄色もあったかなあ・・・。とてもカラフルなものばかりで驚きました。これはあとから聞いたのですが、私の3代前の微生物学の教授であった山中太木(やまなか・もとき)先生が、黒い顕微鏡だと味気ないからと、日本光学工業(現ニコン)にわざわざ特注してカラフルな顕微鏡を作ってもらったんだそうです。本学独自だったんですね。残念ながらそのほとんどは廃棄処分になってしまったのですが、現在でもオレンジ色の1台だけが本学の歴史資料館に残っています(図3)。
山中先生は私が入学したときの学長代行で、かすかに覚えていますが、ご講義を拝聴したことはないんです。とてもハイカラな先生だったようですね。そうそう、本学歴史資料館といえば、当教室の実験室にずっと掲げられていた志賀潔先生(赤痢菌の発見者)の書もいまはこちらに展示されていますよ。
電子顕微鏡との出会い
大学を卒業しても顕微鏡が大好きだったのか、私は微生物学者を志して大学院に入ることになります。ここで使わせていただいたのが電子顕微鏡(前回記事を参照)です。中央研究室(現・研究支援センター)には大きな顕微鏡、日立のH-500、そしてH-800という当時最新型の電子顕微鏡があったのですが、大学院のときの研究テーマがエイズウイルス(正式にはヒト免疫不全ウイルスHIV)の表面微細構造の観察で、ネガティブ染色の方法を工夫しながら何度も観察する必要があったので、教室に設置していた小さめの電子顕微鏡にとてもお世話になりました。そうです、これが前回ご紹介したH-300です。
とろろと顕微鏡の思い出(駆け出し研究者~現在編)
なんといってもH-300は微生物学教室の実験室にありましたので、大型のH-500やH-800を使う時のようにわざわざ中央研究室まで行かなくてもよかったので助かりました。ただ小型とはいっても、基本的な操作は共通しています。
当時大変だったのが、観察した試料を撮影することです。いまの電子顕微鏡はデジタル画像で何枚でも連続して撮れるのですが、当時の顕微鏡はアナログフィルムを使いましたので、連続して撮影できる枚数は限られます。10カット程度でしょうか。1枚のフィルムを2つに分けても20カットが限界です。もちろん、予備のカセットは準備しています。しかし私、原理はよく分からないのですが、箱から出したばかりのフィルムを電子顕微鏡にセットすると、鏡筒の真空度がうまく上がらないのです。そのため、予備のカセットは前もって真空チャンバー(内部を真空にするための容器)に入れて、真空にしておかないと電顕にセットできないのです。1セットのフィルムがなくなると予備のフィルムを使いますが、それも使い切ってしまうともうその日の撮影はおしまいです。限られた枚数のフィルムをやりくりして、写したいものをうまいこと撮影しないといけないのですから、1枚の写真を撮るのもなかなか「気合」がいりました。
H-300との付き合いは長かったのですが、残念ながら20年ほど前に老朽化のため廃棄されました。私、あまりに思い入れが強かったので、一瞬、実家のガレージにでも持って帰ろうかと思ったのです。しかし前回もお話ししましたが、電子線を飛ばすために鏡筒を真空にしており、その真空ポンプを冷却するために水道を流しっぱなしにしなければならず、ずっと運転させておくと水道代だけで月10万円?くらいかかるとか。いえ、ホントかウソか分からないのですが、そんな話を聞いて、完全にビビってしまいました。たぶん電気代も相当かかるんだろうなあ、それより何より、古い機械なのでいちど分解して運搬の衝撃を与えてしまうと、再度組み立てたときにおそらく気密を維持できないでしょうし・・・。到底、個人で所有できるような機械ではなく、泣く泣く廃棄しました。
話は変わりますがこのイラスト、かわいいですねぇ・・・。とろろ先生、ラーメンをおいしそうにすすってる回もあるんですが、この楽しそうに顕微鏡を覗いている姿をみると、冒頭でお話しした、私が小学生のときに両親から顕微鏡を買ってもらった出来事を改めて思い出してしまいます。実はこの顕微鏡が陳列されていた文房具屋さんの棚には、顕微鏡の隣に天体望遠鏡も置いてあったんです。あのとき私が両親に「顕微鏡を買って」とおねだりせず、もし「天体望遠鏡を買って」とおねだりしていたら、今ごろ私は微生物学者ではなく、宇宙飛行士になってたかもしれないな、なんて思ったりもします。いやいや、宇宙飛行士はものすごく「狭き門」なので、実際にはなれなかったとは思いますが、でも子どもの夢って、ミクロの世界にも宇宙にも、無限に広がりますよねぇ。私、まだまだ子どものときの夢を追いかけているのかなあ・・・。