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第6回:自由のプリズムと、その芯にあるもの

第6回:自由のプリズムと、その芯にあるもの

2023.06.22川瀬 貴之(千葉大学大学院社会科学研究院 教授)

 前回に続き、「自由」と「自律」について考えよう。大人になって初めてビールを口にした日、初めて自分の携帯電話を持った日、初めて一人で暮らし始めた日、楽しみにしていた遠足が台風で中止になった日、あるいはそれよりずっと昔、初めて自分の足で歩いた日、あなたの自由は、そのような出来事によって、果たして、そしてどのような意味で、増進し、あるいは制約されただろうか。

 私たちに介入してくる様々な事柄は、私たちをより自由にしているような、同時により不自由にしているような気がするが、それは、ひとえに自由が多面的な概念だからである。なので、それをプリズムに通して複数の側面に分解・分析することによって、自由をめぐるモヤモヤ感は、少しでも晴れてくれるかもしれない。そのようなプリズムを1つ紹介しよう。

バーリンの積極的自由と消極的自由

 アイザイア・バーリンは、その著名な論考「二つの自由概念 」の中で、積極的自由と消極的自由の概念を区別している。積極的自由とは、要するに、本当にやりたいことをする、本当になりたいものになる「自律能力」のことであり、消極的自由とは、何らかの行動をすることを誰かに邪魔されていないこと、つまり「妨害の不在」である。人間は、自力で空を飛ぶ能力、すなわち積極的自由は有していないが、誰かに羽交い絞めにされているのでもない限り、依然として妨害者はいないから、その消極的自由は有している。いや、空を飛ぶことを妨害している地球の重力という妨害者がいるではないか、と言われるかもしれないが、重力や台風や天変地異などの自然現象は、消極的自由の妨害者の候補には含まれない。重要な妨害者としては、十代の若者にとっては両親、法哲学者にとっては国家などが考えられるが、ともかくそれは、人間やその制度に限られるのである。

 バーリンは、2つの自由概念のうち、消極的自由こそが、真の自由の意味なのであり、積極的自由は、自由の概念としては、まがいものであると評価している。というのも、積極的自由は、全体主義という、自由主義・個人主義とは真逆の価値観の政治体制によって利用されうるからである。本当になりたい自分の理想像を見失ったり、それに手が届かないルサンチマン を抱えたりしている個人を動員しようと全体主義的な理想や大義を吹聴する際に、積極的自由は「真の自由」という意味歪曲的で詐術的な修辞として用いられる危険がある、と。

 20世紀初めのリガ(ラトビア)に生まれたユダヤ人という彼の境遇を思えば、このような評価も十分に理解可能なものではあるが、しかし、そのような文脈を離れれば、たとえば現代の多くの平均的な日本人にとっては、積極的自由もまた、強い実感を伴った真正な自由の概念であるだろう。

現代人には、積極的自由も重要である

 新海誠の香り高い名作『秒速5センチメートル』で、幼い恋人たちの間に立ちはだかるのは、外からの妨害、たとえば国家権力でも謎の組織でも両親でも学校でもない。専ら、自らの内側の事情、つまり子供であるがゆえの無力さ、要するに知識・経済力・資格や権限の不足が原因である。確かに、相手が待っているはずの駅を目前に、雪で列車が立往生するが、前述のように、自然現象は消極的自由の妨害者には含められない。実際に、恋人たちは、その障害は乗り越えて、『走れメロス』に比肩しうるほどの人間精神の美しさを示している。むしろ、彼らを別れさせたのは、理想の自分たち、本当にあるべき自分たちを実現するだけの力量のなさであった。

 これは、多くの現代日本人の、特にそのような力量の未だ十分ではない多くの若者にとって、胸に迫る実感を持つストーリーではないだろうか。幸いにも、バーリンとは異なり、ナチズムにも共産主義にも、その暴力的抑圧性に直接切迫して曝されていない多くの現代日本人にとって、自らの限界を定めている自由の本当の敵は、自らの内側にこそ存在しているのだろう。

 しかし、それは今後もそうであるという保証はない。心に空洞を抱えた迷える現代人に、いつなんどき、大小さまざまな権威主義が、その空洞を安易に埋めるべく、忍び寄ってくるかもしれない。そのような時に、自由な社会を守るためには、社会の一人一人が、独立した強い精神を保つことが必要である。理想は、他者が教えてくれるものではない。自分で考えるものである。

自由主義の起源にある精神

 近代の自由主義・個人主義の歴史的淵源の1つは、宗教改革であった。神の御心がどこにあるのか、本当に正しいことは何なのか、私は何をすべきかのかを、呪文のようなラテン語を操る教会の偉いお坊さんに教えてもらうのではなく、自分自身の頭で考えること、思考停止しないことを一人一人に要求することで、権威への盲従を排したのである。自由がどのような意味であれ、これを見失わなければ、自由の精神は生き続けるだろう。

 私のこの記事も含めて、他人の言うことを無条件に信じ込まない、とりわけ権威やブランドを盲目的に信じ込まないことが大切である。権威やブランドは、伝統や経験に裏打ちされた、確かなクオリティを持つものが多いが、問題は、それが実際に良質かどうかではなく、たとえ良質のものであろうと、それを無批判に飲み込んでしまう精神の危険さなのである。

 自由は多義的な概念であるがゆえに、それを分析するプリズムの角度や見方によって、さまざまな説明が可能であろう。しかし、そのプリズムの芯にあり、私たちの自由を可能にしているのは、自主独立の批判精神だと言えよう。私たち一人一人が自由を享受し、自由な社会を保つためには、法律やその他の制度を整えるだけではなく、この精神の修養が必要なのである。


ガラス等でできた多面体で、光を波長に応じて分散させるもの。ここでは、光と同様に異なる多数の側面の複合体である自由の概念を分解してその内実を分かりやすくすることの喩えである。

 Isaiah Berlin:Two Concepts of Liberty.Four Essays on Liberty,pp.121-134, Oxford University Press,1969/アイザイア・バーリン著, 小川晃一,小池銈,福田歓一,生松敬三訳:二つの思想概念,自由論,pp.297-324,みすず書房,1971年

弱者が強者に対して抱く恨み。

川瀬 貴之

千葉大学大学院社会科学研究院 教授

かわせ・たかゆき/1982年生まれ。専門は、法哲学。京都大学法学部卒業、同大学院法学研究科法政理論専攻博士後期課程修了。博士(法学)。千葉大学医学部附属病院講師などを経て、2022年10月より現職。好きなことは、旅行、娘と遊ぶこと、講義。耽美的な文学・マンガ・音楽・絵画が大好きです。好きな言葉は、自己鍛錬、挑戦。縁の下の力持ちになることが理想。

企画連載

人間の深淵を覗く~看護をめぐる法哲学~

正しさとは何か。生きるとはどういうことなのか。法哲学者である著者が、「生と死」や「生命倫理」といった看護にとって身近なテーマについて法哲学の視点から思索をめぐらし、人間の本質に迫ります。

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