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第5回:運命を乗り越えろ、理性で自由をつかめ

第5回:運命を乗り越えろ、理性で自由をつかめ

2023.05.25川瀬 貴之(千葉大学大学院社会科学研究院 教授)

味気のないマニュアル的なことはあまりしたくないのだが、図式的に言えば、看護における倫理は、「自律」の尊重、「福利」の尊重、「正義」の尊重という、3つの価値に分けて考えることができる。福利の尊重は、健康などの良い価値を増進するという「善行」と、悪しき害を加えないという「無危害」という2つの原則に区分され、全部で4つの価値と説明されることも多い。確かに、作為(~すること)の義務と不作為(~しないこと)の義務は、法律学や倫理学でも重要な区別とされることは多いが、私の議論ではともかくそれらを福利の尊重としてまとめて論じたい。また、これらの価値を示す名称も、論者によってまちまちであり、教育上の余計な混乱が生じているようにも見受けられる。しかし、第2回の繰り返しになるが、どういう名前を用いているかは重要ではない。ともかく、中身を見ることが大切である。

今回からしばらく、これら3つの価値を、順に取り上げていきたいが、まずは「自律」の価値について考えよう。

すべては、運命なのか

 「自律」とは、「個人あるいは個人の集団が、自らを取り巻く状況を勘案しながら、己の価値観を形成・修正し、それに従って行動すること」であると考えよう。その主体は、個人あるいは個人の集団としたが、看護の文脈では、おそらく個人が問題となることが多いと思われるので、さしあたり集団の自律は、脇に置きたい。ともかく、自律とは、自由とか自己決定と呼ばれるものである。

 この自律の価値を重んじる自由主義の哲学者を悩ませてきた問題がある。決定論が提起する問題である。これが正しければ、私たちの自律を可能にしている自由意思など、存在せず、自己決定など、私たちが勝手に思い込んでいる妄想にすぎないということにもなりかねない。決定論によれば、この世界には物質しか存在せず、物質のふるまいは、例外なく物理法則によって決定されている。ケンタウロスの放った矢は、必ず放物線を描くのであり、矢が勝手に自由意思を働かせて、放物線以外の軌跡を描くということはない。同様に、人間の自由意思を司っている(と信じ込まれている)脳における、神経回路の電気信号もまた物質的なものであるのだから、その振る舞いも自由気ままなものではなく、必然的に決定されたものである。そして、矢がどこに当たるのかが、それが放たれた瞬間に決まっている、いやそれどころか、この世界のすべての物質の振る舞いは、宇宙開闢(かいびゃく)の時にすでに決まっているのだから、私が今書いているこの原稿も、実はその内容から提出日時に至るまで、全てが既に前世から決まっている運命なのである。自由に書いているというのは、私がそう感じているにすぎない。自由は妄想である。

 あたかも、私たちが自由に振る舞っているかのように感じてしまうのは、私たちが未来を認識する能力が不十分なためである。矢がどこに当たるか、どんな原稿を書くかを、つまり未来の内容を、正確に予測することは、私たちには不可能なので、まるで未来はまだ白紙であるかのように思われる。しかし、未来は、私たちが知らないだけで、既に今ここに存在している。全知全能の神やラプラスの悪魔のような存在であれば、もう既に世界の終りまでに起きることのすべてが今ここに見えているのであり、そのような者は、時間というものを感じなくなっているだろう。

世界を2つに分ける

 これが、決定論が描く世界であるが、もしこれが正しいとすると、自由意思の存在を前提にしている、法律・道徳・倫理は、その前提を根本から覆されてしまうかもしれない。たとえば、自由意思の行使を責任を問うための要件とする議論が、成り立たなくなるかもしれない。そこで、現下の私たちの直観や制度を維持するために、何とかこの決定論の挑戦を退けようというのが、自由主義的で現実主義的な哲学者の試みであり続けたのだが、おそらく有力な対抗策の一つは、「この世界には物質しか存在せず」という前提を否定するものであるだろう。

 たしかに、物体の振る舞いが、物理法則によって決定されていることを否定するのは難しいが、たとえ物質的な世界ではそうであっても、それとは別に規範の世界というものを考えて、後者においては、理性・自由・道徳が支配している、という二元論を採用するのである。事実と規範、物質と価値、必然と自由を、別の世界に属するものとして区別するのである。そうすれば、物理法則がどのようなものであるか、果たして決定論が正しいのかどうか、という物理学上の問題は、自律の価値をどのように理解すべきか、私たちはどのようにして自律を尊重すべきかという倫理学上の問題には、何の影響も与えないし、両者は無関係ということになる。

一時の欲望に踊らされないことで自由になれる

 私たち人間は、運命と必然が支配する物質の世界と、理性と自由が支配する道徳の世界、両方に住んでいる。物質の世界では、確かに自由が利かない。食べないという自己決定をしたところで食べなければ空腹になるし、限りある肉体は私たちの意思に関わりなく滅びゆく運命である。私たちの生理的な欲求は、どうしようもないものである。

 しかし、私たちは同時に、私たちが持っている生理的な欲求を、思慮深く俯瞰して、自らがコミットする価値観に照らして、それらの欲求充足の長期的な有用性を評価することができる。減量中の身の前に、悪魔的な一皿が置かれたときに、その誘惑に思わず手を伸ばす前に、その破滅的な帰結を思って、冷静に耐え忍ぶことができる、これが自律である。要するに、短期的な欲望充足に振り回されずに理性的に自身を制御することが、私たちを自由にするのである。

* * *

 自由や自律は、私の専門の法哲学のみならず、倫理に関係するすべての分野で、最も重要な問題の一つであるから、論ずべき点はかなり多い。しばらく、おつきあい願いたい。

川瀬 貴之

千葉大学大学院社会科学研究院 教授

かわせ・たかゆき/1982年生まれ。専門は、法哲学。京都大学法学部卒業、同大学院法学研究科法政理論専攻博士後期課程修了。博士(法学)。千葉大学医学部附属病院講師などを経て、2022年10月より現職。好きなことは、旅行、娘と遊ぶこと、講義。耽美的な文学・マンガ・音楽・絵画が大好きです。好きな言葉は、自己鍛錬、挑戦。縁の下の力持ちになることが理想。

企画連載

人間の深淵を覗く~看護をめぐる法哲学~

正しさとは何か。生きるとはどういうことなのか。法哲学者である著者が、「生と死」や「生命倫理」といった看護にとって身近なテーマについて法哲学の視点から思索をめぐらし、人間の本質に迫ります。

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