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第11回:ジェンダー論から質的研究へ

第11回:ジェンダー論から質的研究へ

2025.06.18谷津 裕子(公立大学法人宮城大学人間・健康学系看護学群 教授)

 こんにちは。前回は、ひょんなことから私がセクソロジー(性科学)の世界に足を踏み入れることになったことや、その経験が、ジェンダー論への関心を高めるきっかけとなったことについてお話ししました。今回は、ジェンダー論への関心が質的研究方法論に対する興味につながったお話です。

ジェンダー論が導いた1冊の本との出会い

 時は2006年のこと。職場の教員から「面白そうな本がある」と教えていただきました。『策略と願望―テクノロジーと看護のアイデンティティ』1)と題するその本の表紙には、私たち看護師になじみ深い“聴診器”が、暗闇のなかで光を放っていました。その魅惑的なムードに惹かれて本を開くと、内表紙に、本書の概要が次のように記されていました。

看護職は、テクノロジー(体温計や聴診器や [中略] 心電図モニターなど)を医師の手から譲り受け、それを使いこなすことで身体化し、目に見える働きを他にアピールしてきた。しかし、それは一方で、ケアリングの本質である、病む人に寄り添い、語り合い、心身を癒すという側面を背後に追いやるようなリスクを招いてしまった。 [中略] つまり、看護師は、テクノロジーを取り込んで地位を高めようと策略するが、同時に、取り込んだつもりが取り込まれてしまい、自己のアイデンティティを見失いかねない罠にはまり込んでしまう。


 権力と支配に無関心ではいられなかった看護師集団の「策略と願望」が、看護師の業績を医学によって覆い隠されてしまうことにいかに貢献したか。あの聴診器が表していたのは、そうした皮肉で悲しい看護の歴史だったのか… これはすごい本だ! そう直観し、私はむさぼるようにこの本を読みました。

 医療職という専門職集団は、一見すると地位や名誉とは無関係で純真潔白にみえるものの、その内実は医師を頂点とするヒエラルキーを有する家父長制社会である。そのことが、看護や医療にもたらす負の影響について、私は看護大学でセクシュアリティ論の授業を担当し、ジェンダー論を学ぶなかで、深く理解できるようになっていました。そのような折にこの本に出会い、本書の威力に気づけたことは1つの大きな幸運でした。

質的研究方法論への没入

 加えて、この本はもう1つの幸運を私にもたらしました。それは、私が質的研究方法論に魅了されるきっかけを与えてくれたことです。

 私は、看護とテクノロジーの皮肉な関係を、ジェンダー的視点から鋭く描き出すこの本の偉業に、まさに度肝を抜かれてしまいました。内容の見事さに加えて、私が圧倒されたのは、その研究手法です。たくさんの歴史的資料や文献に記されたテキスト、看護師たちの証言などが、本書の著者であるマーガレット・サンデロウスキー先生の研究疑問、「文化を創出し保存していくために、ジェンダーとテクノロジーが一緒になってどのように機能するのか」という問いのもとに1つに集められ、精緻にかつ大胆に縒り合わせられて、鮮やかに解釈し直されていっているのです。

 この本に出会うまで、私は、研究の素材になるのは私が自らの手で収集し生成したデータだという発想にとらわれていました。そのため、本書で行われているような、他の人の研究や調査の結果を自分の研究のデータとして活用するという発想は、当時の私にとってまさしく「目からウロコ」でした。

 質的研究ってこんなこともできるんだ…質的な研究方法についてもっともっと理解を深めたい! そう思った私は、本書の裏表紙に書かれたサンデロウスキー先生の紹介文を読み、彼女が、ノースカロライナ州立大学チェペルヒル校看護学部が開催する「質的研究夏季研究所」のディレクターと代表教授を務めていることを知りました。すぐに申し込み、翌年の夏、私は質的研究プログラム2(現象学的/解釈学的方法)に参加しました。その翌年の夏には質的研究プログラム1(実証的/分析的方法)に、翌々年には第14回質的研究夏季研究所(ケーススタディリサーチ)にも参加しました。
 


 

コースワークの様子

 一体どんな感じのコースワークだったのかをご紹介しましょう。息抜きがてら、気楽にお読みください。

 コースワークの5週間前になると、毎回サンデロウスキー先生から「参加者の皆さん、コースワークでディスカッションするので、熟読しておくように」という短いメールが届きます。添付されているのは、大量の書籍と研究論文のリスト、そしてインタビューの逐語録のファイルです。例えば、質的研究プログラム1の必読文献は、書籍6冊、論文3編、逐語録4ファイルでした。当然ながら全て英語…ふうぅ。これこそが、「必要な文献をシナリオ通りに配した膨大な読書量をこなすことで、その分野については短期間で国際水準の議論ができるようになる」2)という、いわゆる「欧米型教育」ってやつですね。紹介された文献を読み、それを要約し、ディスカッション・ポイントを抽出する作業は、コースワーク前日まで続きました。
 


 コースワークの参加者は25〜30名くらい。自己紹介の際、私は毎回同じ話をしました。「サンデロウスキー先生の『策略と願望』を読み、いたく感動しました。それが、日本人の私がここにいいる理由です」と。皆が一斉に笑い、大きくうなずくのを見て、安心したものです。コースワークは、サンデロウスキー先生によるパワーポイントでの講義から始まります。10時のコーヒーブレイクでは、テーブルにてんこ盛りに並べられたケーキや果物を頬張りながら、先生や参加者とワイワイおしゃべり。ある参加者が私に、「このコースワークは絶対遅刻しちゃダメよ。サンデロウスキー先生は時間に厳しいから」と耳打ちしてくれ、思わず笑ってしまいましたっけ。
 

1回目、2回目の参加時にサンデロウスキー先生からいただいたサイン
 


 コースワークの2日目は、先生の講義の続きと論文に関するディスカッション。講義の内容は、質的なパラダイムの基盤となる理論に関する知識を前提とした、大変高度な内容でした。先生がお話ししている途中でも、参加者たちが次々と手を挙げて質問や意見を口にします。でも、先生が話し出すと一気にシーンと静まり返るんです。先生のお言葉は一言だって聞き逃さないぞ!という参加者の緊張感と高揚感が、会場全体にみなぎっていました。

 3日目は少人数のグループでインタビューの逐語録に関するディスカッションや、質的データの分析ソフトの演習など、実践的なメニューが多かったです。その間、常にサンデロウスキー先生が参加者の輪の中に入り、コメントを言ったりジョークを言ったりして場を和ませていました。
 

グループワークのメンバーと共に
(前列左が筆者)


 4日目、最終日の午前中は、この3日間の学びを整理して質疑応答を行った後、参加者が行っている研究に関するディスカッションが行われました。先生は「それはエスノグラフィックな含みを持つナラティブ研究に適した研究疑問ね」といったようなコメントをし、具体的なアドバイスも加えて、参加者たちの困りごとに丁寧に対応してくれていました。

 レクチャーは、参加者から先生への感謝を込めた長い拍手で締めくくられます。先生や参加者たちと集合写真を撮ったり連絡先を交換したりして、感動と共にコースワークの幕が閉じるのでした。
 

参加者と共にサンデロウスキー先生を囲んで
(前列右がサンデロウスキー先生、中央が筆者)

引用文献
1)Sandelowski M/和泉成子 監訳, 中岡彩 訳:策略と願望―テクノロジーと看護のアイデンティティ,日本看護協会出版会,2004
2)上野千鶴子:フェミニスト教育学の困難.ジェンダーと教育(藤田英典ほか編),世織書房,1999

谷津 裕子

公立大学法人宮城大学人間・健康学系看護学群 教授

やつ・ひろこ/日本赤十字看護大学卒業後、大田原赤十字病院(現那須赤十字病院)看護師、日本赤十字看護大学助手を経て、日本赤十字看護大学大学院看護学研究科博士後期課程修了(看護学博士)。同大学および大学院の講師、准教授、教授を経て、2016年3月に退職。同年10月より英国のグラスゴー大学大学院で動物福祉学を学び修士課程修了(科学修士)。帰国後、東京慈恵会医科大学医学部看護学科教授を経て2022年度より現職。著書は『Start Up 質的看護研究 第2版』(学研メディカル秀潤社、2014)、『動物―ひと・環境との倫理的共生』(東京大学出版会、2022)など多数。好きなことはお笑いの動画を見ることとveganカフェ・レストランを巡ること。

企画連載

谷津裕子の ゆっくり研究散歩

多様な研究テーマをもつ筆者。これまで取り組んできた研究テーマには、テーマからテーマへと流れゆくストーリーがあり、その折々に気づきや驚き、ワクワク感を覚えるシーンがありました。本連載では研究テーマに出会う散歩道を、読者の皆さんと共にゆっく~り歩みます。

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