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第2回:正しさはどこにかくれているか

第2回:正しさはどこにかくれているか

2023.02.22川瀬 貴之(千葉大学大学院社会科学研究院 教授)

 前稿で見たように、私たちは生きていくうえで、さまざまな悲劇的ジレンマから、決して逃れることはできない。そしてこの世界は、ジレンマの淵に立たされた私たちに、迫りくる時間的制約の中で、決断を下すように強いている。こんな時、私たちは、自分の決断に、せめて幾ばくかの正しさが含まれていることを、願わずにはいられない。

 しかし、正しさというものは、神秘的なまでにかくれんぼの達人であり、掴まえたと思えば霧のように消えてしまい、哲学者は二千年以上もその幻を追い続けている。ただ、そのかくれ家に接近する方法について、哲学者はいくつかの見当をつけているので、その一つについて考えてみたい。すなわち、正しさの在り処を、主観・間主観・客観という区分で見る方法である。

言葉づかいに踊らされるな

 今回の議論に限らず、また私の議論に限らず、いつまでも忘れないでいていただきたいことがある。これさえ忘れないでいれば、十分に哲学の精神を身につけたと胸を張ってよい。要するに、哲学を学ぶ意義は、ひとえにここにあると言ってよい。それは、言葉づかいに踊らされないということである。

 「主観」という言葉、「正しさ」という言葉が、何を指し示しているかは、その言葉を使う人や文脈によってさまざまである。言葉・記号と、事柄・概念との結びつきを、意味とか定義と呼ぶが、どのような定義を用いるかは、話者の自由なのであって、論理的にこうでなくてはならないということはない。頭上の光輪と羽を持つ、通常「天使」と呼ばれるものを指し示すのに、「悪魔」という言葉を用いても、理屈上、間違っていることはない。もちろん、日常言語の社会的な慣例に従った語用のほうが読者に親切だし、敢えてそれ以外の定義を用いるときは、誤解の防止のため、定義を明示すべきであるが、定義自体が論理的に正しいとか誤っているということはない。

 しかるに、世の議論には、これをわきまえず、同じ言葉なのだから同じ事柄を指しているはずだとか、違う言葉だから違う事柄を指しているはずだという思い込みが原因の、表層的な論争に終始し、本質的ではない問題で悩んでしまっているものも多くみられる。読者諸賢には、これから、どんな高尚なあるいは低俗なものを読んだり聞いたりするにせよ、その言葉が、正確に何を指示しているのかを、常に気に留めながら考えて欲しい。そうしないと、せっかく考えていることが、的を外していることになりかねない。

正しい答えの3つのかくれ家

 と、いうことを肝に銘じて、正しい答えの3つのかくれ家に迫りたい

(1)正しい答えは「心の中」にある

 第一は、正しい答えを「心の中」に見出すもので、これが「主観」主義である。主観とは、「個人の考え」という意味と捉えてもらいたい。きんつばと八つ橋のどちらが美味かという問いに、数学や論理学と同じくらいに確固とした正しさ、あるいは社会的に合意された正解があるわけではない。答えは、個人によってまちまちである。もちろん、当人が偽りなく本心を述べているかどうかという意味での正しさはあるだろうが、それ以上の確からしさは求めがたい。味覚は、すぐれて主観の問題とされるのである。では、倫理はどうだろうか。倫理的・規範的な問題への答えも、個人の主観的な好みや感情の表明にすぎないという主張もある。 

 ともかく、主観的な問題の答えは、個人の心の中にしかない。私がきんつばは美味だと言えばそうなのであり、私が殺人は正義だと言えばそうなのであり、私が宇宙は存在しないと言えばそうなのである。実際には私は、生命の尊重を重く価値づけているが、主観主義を採れば、その価値はあくまでも私個人の内部でのみ妥当性を有するのであり、その外にまで効力を及ぼすものではない。

(2)正しい答えは「社会」の中にある

 次は、「間主観」主義である。これは「人々の合意」の中に正しい答えを見る考えである。主観が個人の考えであるならば、間主観はその複数である人々の集団の考えである。その集団は、どのような規模のどのような属性の人々から成るものでもよいし、その考えの共有が形成される方法もどのようなものでもよい。

 冥王星が惑星なのか准惑星なのかという問題の答えは、一定の天文学者の間で間主観的な合意がなされているかもしれないし、それとは別の正しい答えが別の時代の別の文化に属する集団、あるいは上記学説に反対する現在の天文学者の間で、間主観的に成立しているかもしれない。このような社会的な合意は、伝統とか世論とか投票とか業界の慣習のように、さまざまな現れ方をするだろう。

(3)正しい答えは「理念や理論」の中にある

 最後が、「客観」主義で、これは正しさを理念や理論の中に求める。その正しさは、いかなる個人の考えや集団の考えからも独立して成立する。つまり、客観とは、「誰の考えでもないもの」と定義しよう。たとえば、私はきんつばが美味である、あるいは殺人は悪であるという主観を有しており、またこの読者全員の間に、これらと同じ考えが間主観的に共有されているにもかかわらず、きんつばは美味ではない、あるいは殺人は正義であるという客観的な正しさが成立するかもしれない。

 客観性は、誰かに支持されることを必要としない。教皇庁の異端審問所でガリレオがつぶやいたとされる、それでも地球は動くという言葉を支えているのは、客観性への信念である。このように、客観主義は自然科学の真理観となじみ深いものであるが、では倫理はどうであろうか。倫理的な問題に、客観的な正しさは成立しうるだろうか。誰が何と思おうと、そんなことには影響されない客観的で絶対的な倫理的価値を謳う思想も、有力である。

 * * *

 しかし、ここまで述べてきて思い至るのは、「で、結局どうなのか」である。主観や客観の、ここでの定義は理解できた。では、結局、正しい答えは、実際どこにかくれているのか。哲学は、学説の分類をするだけで、肝心の結論を示さず、いつも読者を煙に巻いているだけではないのか。知的遊戯にふけって、幻を追いかけているだけでは、大切なものを失ってしまうかもしれない。私が敬服するフョードル・ソログープの『かくれんぼ』の儚く美しいレレチカのように。正しい答えを逃さずしっかりと掴み取る方法について、次回考えてみたい。


類似した考え方として、カール・ポパーによる世界1・世界2・世界3の区別がある。カール・R.ポパー著、森博訳『果てしなき探求(下)』岩波現代文庫、2004年、152-176頁                                                 

川瀬 貴之

千葉大学大学院社会科学研究院 教授

かわせ・たかゆき/1982年生まれ。専門は、法哲学。京都大学法学部卒業、同大学院法学研究科法政理論専攻博士後期課程修了。博士(法学)。千葉大学医学部附属病院講師などを経て、2022年10月より現職。好きなことは、旅行、娘と遊ぶこと、講義。耽美的な文学・マンガ・音楽・絵画が大好きです。好きな言葉は、自己鍛錬、挑戦。縁の下の力持ちになることが理想。

企画連載

人間の深淵を覗く~看護をめぐる法哲学~

正しさとは何か。生きるとはどういうことなのか。法哲学者である著者が、「生と死」や「生命倫理」といった看護にとって身近なテーマについて法哲学の視点から思索をめぐらし、人間の本質に迫ります。

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