今回は地球上から唯一、撲滅された感染症である「痘瘡(天然痘)」についてお話ししましょう。痘瘡ウイルスと人類は長い付き合いがあったことが知られています。
人類を苦しめ続けた痘瘡
図1は古代エジプトの皇帝・ラムセスⅤ世(B.C.1141没)のミイラですが、彼の頬には「あばた(小さなくぼみ)」がみられます。痘瘡は当時から死亡率が高い疾患だったと思われますが、幸いにも治癒した人の顔面などには瘢痕が残り、それをあばた(痘痕)といいました。「あばたもえくぼ」ということわざにも残っていますね。つまり、痘瘡は古代から、それも身分の上下を問わず、人類を苦しめていたことが分かります。
わが国では奈良時代に痘瘡の大流行が起こっています。奈良の大仏(盧舎那仏)は752年、聖武天皇が「疫病」の平癒を祈って建立したと、小学校の社会科(日本史)でも習いましたよね。その疫病とは痘瘡でした。当時の日本はおそらく痘瘡フリーの島国だったと考えられ、大陸からもたらされた感染症である痘瘡がいったん入り込むと、すさまじい勢いで広がったと思われます。私たちの小学校時代では「仏教伝来」と教わりましたが、いまの社会科でいう「仏教公伝」は538年あるいは552年とされ、小野妹子の遣隋使が600年、それ以降遣隋使が5回、遣唐使が19回遣わされていることから考えると、その当時でも大陸とはけっこう盛んな交流があったようです。たとえばですが、遣唐使の誰かが痘瘡ウイルスを日本に持ち込んだという可能性もありうるわけです。いわゆる集団免疫が見られないナイーブな集団に対して感染症は爆発的なアウトブレイクを発生させることがあります。歴史は繰り返す、ではないですが、南米に存在したインカ文明は16世紀に撲滅しており、その原因はスペイン人が持ち込んだ痘瘡や麻疹だといわれています。
わが国でもその後、痘瘡の流行は幾度となく発生しています。戦国時代に下り、“独眼竜”と恐れられた戦国の「伊達男」、伊達政宗(図2)が隻眼(片目)であったことは有名ですが、片目が失明した原因は痘瘡であったといわれます。戦国の世が過ぎて徳川時代となっても痘瘡の流行はしばしば発生していたようで、連載第2回で出てきた徳川第8代「暴れん坊将軍」、吉宗は「あばた顔」で知られていたそうですから、痘瘡に罹って生き残った人だったんですね。
痘瘡のワクチンにまつわる“美談”
時は過ぎて1796年、イギリス人のジェンナー(Jenner E)によって「種痘」といわれるワクチンが開発されました。それまで欧米ではトルコ式種痘法といって、ホンモノの痘瘡の水疱内容物を皮膚に植え付ける予防法があったんですが、ときに打たれた人が死亡することもある危険なものでした。ジェンナーは当時の噂であった、ウシの痘瘡=牛痘に罹った人はヒトの痘瘡に罹らない、という話を仮説として、実際に証明しようとしました。ジェンナーは最初の種痘を我が子に対して行ったとして、戦前の道徳科目である「修身」の教科書では美談とされていたそうです。しかし実際には、初めての種痘の対象者は自分の息子ではなく、近所に住んでいた少年、フィップス君だったとのこと。一見すると、 これでは美談になりませんね…。
私、ジェンナーに関するお話は本学の特別講師としてお世話になっていた元大阪大学微生物病研究所所長の故・加藤四郎先生から、講義の休憩時間の「お茶のみ話」として何度もうかがっておりました。加藤先生は日本医史学会会員でもいらっしゃいましたし、とくにジェンナーに強い興味を持たれ、ヨーロッパに調査にも行かれていまして、著書もいただきました(『ジェンナーの贈り物―天然痘から人類を守った人』菜根出版,1997)。
その本の記述によりますと、ジェンナーの長男エドワードが受けたのはフィップス少年が牛痘種痘法を受けるより前で、「豚痘」、つまり豚の痘瘡ではなかったか、ということです。そして加藤先生は、当時の医師が豚痘について記述している記録から、これは豚の痘瘡ではなく、「小痘瘡」と呼ばれる、ヒトの痘瘡の軽症型ではないかと考えておられます。そうなるとジェンナーが自分の長男に実験的なワクチン(トルコ式種痘法の改良型になりますね)を初めて接種したことは事実になります。さらにジェンナーは、最初の牛痘接種の被験者であったフィップス少年にそののち、家を建ててあげてずっと面倒を見たという記録が残っているそうで、やはり美談であったことに変わりはなさそうです。図3は加藤先生が精力的にヨーロッパを探し回ってついに発見された、ジェンナーの種痘を表した像の写真です。この写真は、私の教室の入口に先生のサイン入りパネルとして飾っております。
痘瘡の撲滅に尽力した日本人
ジェンナーが開発した画期的な方法である種痘はその後、世界に展開されます。そもそも「ワクチン(vaccine)」というコトバは、ラテン語で雌牛を意味するvaccaから来ていますので、本来なら牛痘種痘法を指しているのですが、のちに広く予防接種全体を指すコトバになりました。
わが国にも種痘がもたらされました。佐賀藩の藩医であった楢林宗建はオランダ商館の医師であったモーニッケ(Mohnike O)からジェンナー式の種痘を学び、自分の息子らに接種したとされます。この楢林宗建先生、本学名誉教授の楢林勇先生(放射線医学教室)のご先祖さんなんだそうで、私、初めてそれを聞いたときはたいそう驚きました。歴史の証人に教わっている感覚といいますか・・・。
また、適塾(適々斎塾)で有名な緒方洪庵も種痘の普及に尽力した一人です。大阪大学医学部の前身といわれる適塾はいまも大阪市内に史跡として残りますが、近くの緒方ビルに「除痘館跡」のレリーフがあるんだそうです(図4)。近くなのでいつでもいけると思うと逆になかなか行けなくて、私、まだ見たことがないんですよ。洪庵の除痘館は当初、道修町(どしょうまち)にあったそうで、そちらには「除痘館発祥の地」という記念碑が建っているとのこと(図5) 。道修町は製薬メーカーが集まっていることで有名ですね。
痘瘡の撲滅に貢献した日本人として、蟻田功先生を挙げないわけにはいきません。蟻田先生は1977年からWHOの天然痘撲滅プロジェクトを率い、ついに撲滅に導いた功労者です。それまではあまねくワクチン接種で対応していたわけですが、それではなかなか撲滅には至りませんでした。そこで蟻田先生は、1人の患者が発見されたらその地域に集中的に種痘を行う作戦に変更し、1977年10月に北アフリカ・ソマリアのアリ・マオ・マーラン氏(図6)への感染が確認されたことを最後に、痘瘡の 撲滅に成功しました。ついに1980年、WHOから痘瘡撲滅宣言が出されます(図7)。
痘瘡は“なくなった”?
人類が感染症の原因であるヒトの病原微生物を地球上から撲滅したのは、現時点では痘瘡ウイルスだけです。この記事に名前が出てきた人々だけでなく、多数の先人たちが尽力してきたわけですが、その中でもやはりワクチンを開発したジェンナーは偉大だったといえると思います。ジェンナーは生前、種痘を広めていけばやがて世界から痘瘡が根絶されるであろう、と予言していたのですが、その言葉は約180年で現実となりました。私の肩には種痘ワクチン接種のあとがまだ残っていますが、わが国で100年以上続いた種痘の定期接種も1976年で終了になりました(図8、図9)。
痘瘡ウイルスは人類が初めて地球上から駆逐した病原微生物となりました。しかし、それでハッピーとはいかなかったんです。痘瘡の撲滅当時は東西冷戦時代であり、米国と当時のソ連が対立していたため、双方が痘瘡ウイルスを自国のバイオセーフティレベル4(BSL-4)研究室に保管したまま牽制し合い、結局ウイルスは廃棄されませんでした。その後ソ連が崩壊し、研究室に保存されていたウイルス株の管理が不十分になった間に、いわゆるテロ支援国家に流出した可能性が指摘されています(旧ソ連の微生物学者であったケン・アリベックの著書「バイオハザード」など)。そのため将来、バイオテロとして痘瘡ウイルスが使用される可能性が否定できません。さらに永久凍土に埋もれている、痘瘡によって死亡した遺体が、地球温暖化によって氷が解けて表出してくる可能性もあるんです。
これらの可能性から、わが国では感染症法の一類感染症として、本来撲滅されたはずの感染症である痘瘡が再びリストアップされることになりました(2003年)。それとともに、ワクチンの備蓄と種痘の緊急接種、発生した患者の収容や疫学調査などの体制整備が行われています1)。ううん、ジェンナーが聞いたら、きっと残念に思うでしょうね…。
1)厚生労働省結核感染症課:天然痘対応指針(第5版),2004年5月14日,〔https://www.mhlw.go.jp/kinkyu/j-terr/2004/0514-1/index.html〕(最終確認:2023年11月14日)