今回からしばらく主題となる「福利」は、これまで取り上げてきた「自律」を上回るほどの多義的な概念であるので、定義をはっきりさせておかないと、議論が曖昧になったり、ミスリーディングになったりする恐れがある。定義は、言葉を使う者の自由であり、そのうちのどれが正解の定義で、どれが誤った定義である、ということは言えないのだが、敢えて慣例的な用語法の最大公約数で言えば、福利とは人間が享受する満足感や幸福のことと考えて差し支えないだろう。
ただ、これだけでは依然として非常に漠然としているので、語用の文脈を限定することで意味を具体的にしていかなくてはならないのだが、医療・看護や生命倫理という文脈に限定してもなお、福利の概念は多岐亡羊としている。いわゆる、健康やQOLがこれに当たるのだろうが、後述のように、それらの具体的な定義方法も複雑で、それらをめぐる議論は混乱を極めている。どんな議論をするにせよ、定義をしっかりしてから始めるべきであるという教訓は、福利をめぐる議論でも一層強く銘記されたい。
問題設定-福利を表現する適切な方法とは?
生命倫理の文脈では、福利を尊重する方法として、患者やその他の人々の、福利を不当に害さないという「無危害」の要求と、それらの福利を増進するという「善行」の要求とが、しばしば挙げられる。そして、不作為((悪い)行為をしないこと)の要求である前者と、作為((善い)行為をすること)の要求である後者を比較すると、前者の道徳的義務の方が、後者より強いなどという議論がなされることがある。これはこれで、生命倫理の教科書としては、理解すべき必須の事柄ではあるのだが、以降の議論で、私が採用したいのは、少し異なる着眼点である。
私の議論は、よりメタレベルあるいは根源的なレベルにあり、そもそも、人間の福利を測定したり評価したりすることとは、どのような性質を有する営みなのか、という問題意識によるものである。たとえば、EQ-5D-5L(EuroQol 5 dimensions 5-level) 1とQALYs(Quality-adjusted life years)2とでは、あるケースにおいて、人間の福利を表現する指標として、どちらがより優れているのか。EQ-5D-5Lは、移動可能性などの指標を数値化したものであるが、いかなる意図やねらいで、そのような指標を採用したのか。そもそも、人間の福利を、そのような数値で表現することなどできるのか、などの問題である。ここから数回にわたり、また厄介な議論が続くが、福利は、看護を含む医療にとって、最も身近な価値であるから、深く、厳格に考えていきたい。
健康を、複雑に考えるべきか、単純に考えるべきか
人間の福利、たとえば健康は、本来、人間の心身の状態の無数の側面の束である。このことが、健康を定義することを、極めて困難にしている。EQ-5D-5LであろうとQALYsであろうと、有限個の指標でそれを表現しようとする試みは、すべからく、本来複雑であるはずの健康の概念を、安易に単純化するという誤りを犯しているのではないか。また、仮に有限個の指標に分解して、それを表現できるとしても、それぞれの指標が示す状態(たとえば認知機能と運動機能)の価値は、相互に、第1回で説明した意味で通約不可能なものであり、つまり一方を他方で置き換えたり、比較したりできないものではないのか。
このことが、2つの相反する主張を生み出す。第一は、「総合」に反対する考え方である。「福利」という発想自体が、人間の生活の多様な場面に関わる、本来は相互にかけがえのないはずの、異なる複数の価値を、現実にはこの世に存在していない健康やQOLなどという一般的な概念によって、暴力的にまとめ上げているだけではないのか。(要するに、抽象的で一般的な概念は、すべて幻想・妄想の類だというのである。)複雑なものは、その通りに分析し、複雑なままで理解するしかないと考えるのである。
第二に、逆に、「分析」に反対する考え方もある。どこまで細かく分析しても、有限個の指標でそれを表現する限り、本来無数の要素からなる健康にとって何らかの重要な側面を取りこぼしてしまわざるを得ない。(たとえば、EQ-5D-5Lは、別途「他者との親密な交流の程度」という指標も設けるべきであったのに、それを取りこぼしているという批判がありうる。)複雑なものを複雑なままで理解するべきと言うのであれば、安易な単純化を招かざるをえないような有限個の指標での表現という方法は、いっそのこと放棄して、健康は健康であり、それ以上に複雑には表現できない、という最もシンプルな表現をする方が、かえって健康の複雑さを真面目に考えているということになるかもしれない。
数量化アプローチと直観アプローチの対比
この問題は、健康を、数値によって細かく分析する方法と、直観的・総合的に評価する方法との対比という問題に帰着する。数量化アプローチと直観アプローチ、定量的表現と定性的表現3と言っても良い。
私が高校生の時、級友の間に、このような馬鹿げた意見があった。曰く、合理的で賢明な人間は、必ず理系に進むものである。なぜなら、理系の科目は、数字にせよ自然言語にせよ、明晰で厳密な論理を用いているため、命題の内容や、その真偽の検討が、精密で詳細である。それに対して、文系の科目は、その問題の内容や解法が、感性や常識という曖昧模糊としたものに依拠しており、頭の良い人間が好むものとは、とても思えない、と。
当然、このような意見は、精神的に未熟で視野の狭いものであり、真に合理的で賢明な理系の人材が主張する水準のものではないのだが、一面において、諸科学の方法の違いと、分野それぞれの強みの違いという、興味深い問題を照らし出しているので、次回以降、引き続き考えてみたい。
1欧州由来の基準で、QOLを、移動可能性・身の回りの事柄の管理可能性・日常的な活動の可能性・痛みや不快感・不安感や抑鬱という5つの次元について、5つの段階で評価するもの。
2質調整生存年。1QALYは、完全に健康な1年間に相当し、QOLと生存年という2つの次元で福利を評価するもの。
3数量化アプローチを直観アプローチより優越的に見る立場によれば、定量的(quantitative)と定性的(qualitative)と言う場合、前者の方がより厳密で詳細だから、より高等であるということになるのだろう。他方で、哲学においては、ある2つのことがらの違いとして、量的な(quantitative)違いは、単なる程度の違いにすぎないが、質的な(qualitative)違いは、本質的に異なる違いである、として後者の方がより重要な視点であるという語感が用いられることがある。これも、専門分野間の興味深い文化的差異である。