ゴールデンウィークも終わり、本格稼働の5月でしたね。読者の皆さまにおかれましても少し疲れが出てくる頃だと思います。カピバラは先週、かぜで寝込むという20年ぶりくらいの経験をしました。還暦過ぎるとかぜもダメージが大きいと言いますか、咳由来の肋間筋の筋肉痛もあいまって、臥床状態での痰の喀出のスキル不足を痛感し、かぜを引くのも気力体力が必要だと思ったしだいです。今回は、寝込んでいる間につらつら考えた、「研究者を育成すること」について書いてみたいと思います。
大学・大学院での論文指導と研究指導と学習支援
研究活動には、〈研究疑問がわく→先行研究を精査して知識のギャップを見つける→研究課題と研究目的を明確にする→その目的を達成するための研究方法を明確にする→データ収集をする→データの分析をする→結果をまとめる→考察する→論文を書く→公表する→次の研究課題に取り組む〉という循環があります。
論文指導とは「読みやすくわかりやすい論文となるようにアドバイスすること」であり、研究指導は「研究計画立案フェイズ:研究疑問から知識のギャップをみつけ研究課題を明確にして研究目的を設定し、適切な研究方法についてアドバイスすること」と「分析考察論述フェイズ:データの分析を一緒に点検し、信頼性を高め、結果をまとめてその結果の考察が研究目的と整合しているかをアドバイスすること」の2つに分類されます。そして学習支援とは「学習者が学び成長することを支援すること」とざっくり定義できます。この3つの活動をちゃんと区別して、効果的に組み立てることが重要なことだと、カピバラ最近強く思っています。
学習支援は研究指導や論文指導が機能する前提であり、学習環境(ヒト、モノ、情報、財源)の整備を含みます。つまりいろんなことを調べやすく、リラックスできて、他の研究者と交流ができ、考えに集中できるような環境があり、途中で迷わないような学びの道筋、すなわちカリキュラムもしくはプログラムがあること、十分な学習準備の時間と復習の時間の保障、これらをもとにいろんな教員が学習者のレディネスに応じて支援するということになるので、教育機関全体で方向性を合わせていくことが必要かなと思います。大学院で学ぶことのメリットは、このような学習環境のもと、研究に精通した教員からの研究指導を受けることにより効果的・効率的に研究能力を獲得できるということかと思います。
研究指導は、前述したように研究計画立案フェイズと分析考察論述フェイズに分かれるのですが、学友(もしくは共同研究者など同僚)とともにこのプロセスを共有することでリフレクションが機能し、自分の研究活動を自己評価することができるようになるかと思います。そして論文指導は、研究指導の中でも論文作成の部分に焦点をあてた活動となります。論文指導や研究指導だけでは、研究者としての成長を支えるのには限界があるかもしれません。そして研究者としての成長がなければ、自律して継続的に研究活動を行うということはいつまで経っても難しいことになってしまいますよね。
学びの環境に身を置き、いろんなロールモデルを見聞きして、自分のキャリアの方向性を定めていく。このような人格的な成長を促進する環境に身を置くことを、昔の人は「薫陶」と表現していました。薫陶とは正確にいうと品性の高いだれかの影響をよく受けて人格を磨くというような意味で使われますが、カピバラはだれか特定の個人の影響もさることながら、その影響を与える人たちがつくり出す学びの雰囲気と広くとらえています。本来的に大学とはそういうところだと思います。
研究指導、カピバラ的ポイント
看護研究指導っていろんな先生方が素晴らしいことをたくさん書いていらっしゃるので、詳しくはそちらを参照していただくとして、研究初心者への支援の時にカピバラが個人的に気をつけていることを3つ挙げてみます。この3つに順序性はなく、学習者のニーズにより同時に行う場合もありますし、どれかに絞って支援する場合もあります。
論文は友だち、こわくない
まず、「論文は友だち、こわくない」というメッセージを出すことが肝要かと思います。実践経験が長くその経過で“やらされ研究”体験をもっている看護職の方々や、「論文書いたことあります」という方も意外に研究への苦手意識をおもちの場合が多いように思います。その要因の一つに、論文を読むことへの苦手意識がある。論文こわい→論文読まない→論文どう書いていいかわからない→研究苦手→論文こわい、というサイクルに入っている。そして、論文がこわいと思っている人は、読んでいる論文が提示している知見を正確に読み取ることが難しくなり、(存在しない)行間を読んだり、自分の価値観に寄せたり、自分の思考の枠の中で読んだりしがちです。ですが、読む目的の明確化、科学論文の構造の理解に基づいた抄読・精読といった読み方の理解と、論文に書いてあることを正確に読み取るスキルの獲得で、「論文こわい」気持ちが減っていく。これは独学よりもコースワークのほうが効果的だと思います。Google Scholarのトップページに「巨人の肩の上に立つ(standing on the shoulders of giants)」とありますけど、これは、一つの論文はそれまでの先行研究の蓄積の上にあるのだよという、公表されている論文への敬意をもとに新しい知をつくろうというスローガンとして有名です。まず巨人(先行論文)と仲良くなって、その肩の上に立たせてもらう(たくさん読む)ということから始まるのかなと思います。
守備から入れ
論文を書くという段階では、「守備から入る」。研究とはコミュニケーション活動ですから、世界のいろんな人に論文を読んでいただくための作法(アカデミック・ライティング)とテンプレ(IMRaD)があります。これを習得し、「はじめに」「研究方法」「結果」「考察」と書いてみる。論理展開の破綻がないか自己点検のポイントをチェックリストなどで提示してもらうことにより自分の論文の文章の推敲ができるようになっていきます。これもコースワークである程度可能です。論文を書くための作法やスキルはたくさんあるけれど、どれも研究者コミュニティで情報を共有しやすいわかりやすい論文を書くための約束事です。その約束事を守って論文を執筆して公表し、いろんな研究者とコミュニケーションをとれるようになることが、守備から入れ、の意味です。守備に追われてはいけません。
逃げたらどこにもたどり着けんのです
どのように読むか、どのように書くかにはある程度の正解があります。しかしこれだけで研究活動の遂行は難しいかもしれません。なぜかというと、いよいよ自分のやりたいことを研究テーマに取り組む、という時、越えなければならない壁が見えてくることがあるからです。その壁は大きく2つに分かれます。①ある程度論文を読めるようになりたくさん読んでいくと、「やりたいことはすでにたくさん研究されている!!」「わたしの研究疑問は、実は私の学習したいことであった!!」という気づきが生じ、「私が行いたい研究に何の意義があるのだろうか?」と思ってしまったり、②あるいはキーワードの設定などが適切でないために文献検索がいまいちクリアにヒットせず、「自分が欲しい」先行研究がないと思ってしまい「わたしの研究疑問ってどうやったら正解を見つけられるのだろう」「どこに向かって研究を進めていけばいいのだろう」という迷宮に入ってしまう。これらの壁が見えた時、むしろすばらしい学習の機会となります。
「わたしの」研究疑問や研究の意義への正解は今はないのだ、これまでの研究の集積の際に立って、これから自分で道をつくっていくしかないのだと腹をくくる時に、初めて研究者として「巨人の肩の上に立つ」ということの意味を知るんですね。正解はない、ということを受け入れるまであいまいな時間を過ごすのは苦しいですが、ここで逃げてはどこにもたどり着けない。つらい時は逃げる、逃げてまた戻る、を繰り返してようやくわかることもあるでしょう。でも、その人がたどり着くだろう「どこか」は必ずあるんです。ですから、指導する側として、見守ることもありますし、逃げるなと激励することもあります。どっちの対応にするかはその研究者の状況にもよるし、どっちでもいいんですけど、大切なのは、指導者のほうからきっとどこかにたどり着くというメッセージを常に伝えることかなと思います。「たどり着きたいどこか」はどこにあるのか。それは研究する人でないとわからないですからね。
これら3つのことは研究初心者への支援であり、すでにこういうことをクリアしている場合は、研究指導者と研究者の対等なディスカッションにより研究を進めていくことになるかと思います。
なぜ研究をするのか? と問われたら
連載第19回「研究者は成功したオタクなのか? ~リチャード3世を探して」で、カピバラは最後に「改めて、わたしたちはなぜ研究をするのだろう」と書きました。この疑問について、いまいちな研究者かついまいちな大学教員でありながら、研究に携わってきたカピバラなりの着地点を考えてみました。
職人や達人は口伝により情報伝達をしてきました。選び抜かれた少数の人にしか伝わらない情報共有の形です。連獅子など歌舞伎のお家芸を思い浮かべる人もいらっしゃると思います。カピバラとしては『るろうに剣心』の飛天御剣流(ひてんみつるぎりゅう)の奥義、天翔龍閃(あまかけるりゅうのひらめき)をその例として挙げさせていただきたい。職人や達人の奥義は、伝承する人を限定して情報を独占することにより、その独自性(極意や秘伝)を受け継いでいきます。そこには弟子たちのコミュニティによる批評とか比較とか吟味とかはありません。「飛天御剣流学会」で、天翔龍閃を伝授するための弟子の実践能力評価尺度の開発とか、適切な発動方法の比較検討とか、効果測定の問題点の提示とか、次世代の使い手育成の課題などを話し合うわけにはいきません。書き言葉では表現できない実践知を見て感じて師匠と対話して会得するのが奥義ですから。
対して専門職は、等質なサービスを多くの人に提供するために書き言葉による伝達で情報の共有を図る集団です。ヴァージニア・ヘンダーソンは専門職として書くことの意義を「プロフェッショナリズムとは書き言葉によって支えられた世界である。専門職として書くことは責務であり、その技術を学ぶことは避けられない」1)とおっしゃっています。ヘンダーソンさまは、人間の14のニードと看護独自の機能について論述したうえで、看護師は専門職であると言い切った人であるとともに、看護業界で初めてヘルスケアチームという概念を使用した人としても有名ですよね。そのヘンダーソンさまが、専門職として明らかにしたことを専門職コミュニティと共有するために書くのだ、と言っているわけです。そして看護の研究の場合、看護職集団の知の共有の目的はより良い実践(サービス)を最大多数のユーザーに届けるためと言えます。
なぜ研究をするのか、と問われたら、看護学研究コミュニティの端っこで生きてきたカピバラとしては、それは看護のエンドユーザーがより良い看護を受けられるようにするためだ、と考えます。でも実際にはたぶん「それが仕事だから」と答えるでしょう。だって大学教員の仕事は、研究して、その知見も活用して教育して社会貢献することなので。
設計図のない仕事
研究する人を育てる、というのは、設計図のない仕事です。いまいまの看護学の発展のためだけに行うことではなく、既存の枠を超える人を育てることです。これは今まで、口伝により師匠から弟子への奥義の伝授として伝えられてきました。しかし情報量が膨大になり、変化の激しい今の時代では、このような伝統的な師弟関係で研究者を育成することが限界にきていることも事実です。
研究者としてどうあるべきかを自ら見出し、そちらに向かって進み続けることを支援する、研究者になっていくプロセスでは指導者との対話は必要です。しかし指導者を越えてその先にいくためには、丸腰で対話するのではなく、どんな質問をしたら自分の疑問が解決するのか、自分の成長に何が必要なのかを自分で認識できるような機会としてのコースワークや演習を提供することが、とくに看護学研究者の育成では重要かなと思います。
1)山崎茂明:科学論文のスタイルと論文のまとめ方,薬学図書館40(2):161-166,1995