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第14回:良いところも足りないところも、ありのままの学生を見つめる

第14回:良いところも足りないところも、ありのままの学生を見つめる

2023.05.18伊東 朋子(藤華医療技術専門学校看護学科 非常勤講師)

東京へのあこがれから拓かれた看護の道

 高校まで故郷の大分県で過ごした私は、東京という街に憧れを抱いていた。だから大学からは東京に出るぞと意気込んでいたのだが、私がたどり着いたのは、うっかり東京を通り越した千葉県だった。しかしそこから、今日まで続く私の看護教員としての道が始まった。

 昭和40年頃より、准看護婦(当時)養成を行う高等学校衛生看護科が設立されはじめ、その教員を養成する「特別課程」が、4つの国立大学の教育学部に設置された。私はそのうちの一つだった千葉大学教育学部特別教科(看護)教員養成課程に進学し、高校教諭の免許と、看護師免許、養護教諭の免許を取得した。
 そして、衛生看護科のある千葉県内の公立高校に着任したのだが、世はまさにヤンキー・ツッパリの全盛期…! 衛生看護科のクラス担任だった私も、来る日も来る日も生徒たちへの生活指導に明け暮れた。改造された制服や髪の毛の色を注意したり、校則違反で自宅謹慎中の生徒の家庭訪問をしたり、悪さをして警察のお世話になった生徒を迎えに行ったり…。およそ看護教育というところからは程遠い世界にいたが、今思うと、生徒たちのエネルギーを肌で感じられる、とてもエキサイティングで楽しい毎日であった。

故郷・大分で大学教員に

 そんなふうに奮闘をしながらも、本業である衛生看護科の学生たちと共に私なりに歩み続け、40歳を迎えた頃、大分の実家の父が亡くなったことをきっかけに、私は故郷に戻って母と暮らすことを考えはじめた。しかしキャリアを活かせる衛生看護科のある公立高校が当時は九州地方にはなく、教員採用試験受験の年齢制限にも引っかかる歳になっていたのだった。
 どうしたものかと考えていたところ偶然、「3年後に大分に看護大学(大分県立看護科学大学)をつくる予定なので、こっちに戻って教員をやってくれないか」というありがたいお声がかかった。私は、大学教員になるなら自分なりに納得したうえでという思いから、衛生看護科で勤めるかたわら夜間の大学院で学び、修士号を得た。そして、同学の開学とともに私は大学教員になった。

 それから定年退職までの22年間という長い年月の中で、実に多くの学生と出会った。中には、看護ではない道に進みたかったけれど周囲の薦めでしぶしぶ入学した、違う学校に行きたかったけれど公立大で学費が安かったから入った、本当は医学部を目指していたけれど叶わず看護大学に入った、などなど、どこか煮え切らない思いを抱えながら看護学生としての日々を送る学生たちが少なからずいた。
 ある時一人の学生が、「大学を辞めたい」と申し出てきたことがあった。理由を聞くと、看護はおもしろくなくやる気がしない、ということだった。私は、「自分自身ももとは都会に出たいというよこしまな気持ちから始まった看護の道で、決して強い志があったわけではなかったが、ここまで続けてきて、あなたともこうして出会えた。続けていれば、何か刺激をもらえるようなこととめぐり会えるかもしれない。だからよくよく考えて、それでも辞めたいというなら止めないけれど、まだ考え切れていないのであれば辞めてほしくない」と、淡々と本音を彼に伝えた。これは後日談だが、彼はその後、そんなふうに冷静に言う私に負けたくない、ぜったいに辞めてやるものかという気持ちになったそうで、無事に卒業し、今も看護師として活躍し続けている。
 本人が確固たる思いをもって違う世界を目指すというのであれば話は別だが、成績が振るわないから、看護におもしさを感じられないから、自分には向いていないからと、その時の感情の揺らぎによって看護の道をあきらめようとする学生がいたら、それを踏みとどまらせてこそ教員というものではないだろうか。せっかく看護を志し、入学してきてくれた学生が辞めていってしまうのは教員の敗北だ、そう自分に言い聞かせ、私は学生たちと向き合ってきた。

 元来、私は教師らしからぬというか、「こうしなければならない」「こうすべきだ」と学生に言い聞かせるのが苦手な性分だ。その代わり、学生一人ひとりがもっている個性を見つめ、彼らが何を大事に思っているのかを引き出せるよう努めてきた。“みんなちがってみんないい”とはよく言ったもので、看護は患者の個別性を見ることを非常に大事にしていて、それを学生に理解してもらうためにも、まずは教員である自分が学生たち一人ひとりの個性を大切にしたいと思ったからだ。
 病院実習に出て将来に悩む学生がいたら、看護が活躍する場は決して病院だけではないことを伝え、幅広い選択肢を示してやった。選ぶのは学生自身だが、その背中を押してやれたらと思ってきた。定年を迎えて数年が経った今も、幸運にも教え子たちの活躍ぶりを耳にする機会があるが、そのたびにとても誇らしい気持ちになる。

ALSの患者会での活動を通して、“看護とは”を伝えた

 同学では、学生サークルの活動にも力を入れた。ALSの患者会のサポートを行うサークルを立ち上げたのだが、学位論文でALSの研究を行ったことから、お世話になった患者や家族への恩返しの気持ちで始めたことだった。
 活動のメインは、患者の自宅を訪問し、日常生活のお手伝いをさせてもらうというもので、学生たちは皆、とても熱心に取り組んだ。知識や技術、実践経験のない学生が、ALSの患者にかかわるのは難しいように思われるかもしれない。しかし私は、ALSという根本的な治療法が確立されていない難病ゆえに、初学者だからこそ患者の助けになれることがきっとあるだろうと信じてやってきた。患者の言葉やメッセージを一生懸命に聞く、痛みはないかと気にかける、背中や手をやさしくさする、患者の横で新聞を読んで聞かせる、患者の周りを飛ぶ蚊がいたら追い払う…。まさしく、そこにいる、というケアが成り立つのだ。これこそ、看護がもてる力であるということを、学生に感じ取ってほしいと願った。
 サークルに参加した学生の中には、訪問看護師という道を選択した人もいる。そして私自身、今も患者会の支援活動を続けており、これがライフワークになっている。
 

おわりに

 定年退職後、とうとう念願の東京で大学教員として勤めたのち、現在は再び故郷の大分に戻り、3年課程の看護専門学校で非常勤講師として勤めている。自らの歩みを振り返ると、 高校衛生看護科、公立看護大学、私立看護大学、看護専門学校等々、看護基礎教育の裾野の広さを実感させられる。
 今、約30年ぶりに、臨地実習で奮闘する学生たちの姿を間近で見ることができる立場になれたことに感謝している。とはいえ、臨床経験が皆無に等しい私には、臨床実践を教えるなど恐れ多い。そこは現場の皆さんにお任せして、私は私の役割 <不安や不満を抱える学生の気持ちや言い分を聞いてやること、実習からベソをかいて帰ってくる学生を迎え入れてやること、そこにいてやること> を果たせたらと思っている。

 40年以上のキャリアの中で出会ってきた学生たち一人ひとりの顔が、彼らと過ごした日々の記憶が、今もしっかり心に刻まれている。それが看護教員としての私の勲章だ。今は立派に育った彼らも、学生時代の姿を思うと、良いところも足りないところも、すべてひっくるめて“その学生”だったのだと改めて思う。多様な患者に向き合う看護職になってゆく学生たちこそ、多様であっていいと、彼らが教えてくれた気がする。

伊東 朋子

藤華医療技術専門学校看護学科 非常勤講師

いとう・ともこ/千葉大学教育学部特別教科(看護)教員養成課程卒業。東洋英和女学院大学大学院修了(修士〔人間科学〕)。広島大学大学院修了(博士〔看護学〕)。1980年より、銚子市立銚子西高等学校(衛生看護科)、千葉県立若葉看護高等学校(5年一貫)、大分県立看護科学大学、東京医療保健大学と、複数の教育課程・養成機関で看護教員として教鞭をとり、2021年4月より現職。日本ALS協会大分県支部運営委員、NPO法人エイエルエス大分 役員も務める。趣味はバイオリン、卓球。

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