2010年に厚生労働省から出された「今後の看護教員のあり方検討会」報告書1)では、「看護教員の資質・能力に関して、質の高い教育を実践するためには、看護実践力と教育実践力のどちらも必要で、そのバランスが重要である」と報告されています。看護教員としての基盤づくりには、その教員自身が看護師としてどのように患者や家族と向き合い、どのような体験をしたのかが重要であると考えます。
私は、看護師として患者や家族とかかわるときも、教員として学生とかかわるときも、心がけていることが2つあります。1つは「相手の考えていることは何か、よく考えること」と、もう1つは「今、自分にできる最大限の力を発揮する」ということです。これには、30年前に発生した阪神・淡路大震災を看護師として体験したことが影響しています。この体験が、私の看護観・教育観の基盤であり、大きな分岐点です。
被災地で抱いた無力感
1995年1月17日の早朝、立っていることが困難で建物が壊れそうなほどの激しい揺れを感じました。のちに阪神・淡路大震災と呼ばれることになったこの大地震が発生したとき、私は看護師2年目で、関西圏の独立型三次救命救急センターに勤務し、緊急手術の片づけをしているところでした。停電により真っ暗になった手術室の片隅に頭を抱えてしゃがみ込み、同僚の名前を叫びました。すぐに自家発電に切り替わり明るくなりましたが、手術室内に留まっていることが怖くて、扉ひとつ隣のICUへ同僚と駆け込み、ICU勤務の看護師と共に人工呼吸器を装着している患者の用手換気を行い、患者の安全確保に努めました。発災直後はライフラインが寸断され、当時は携帯電話を個人が所有するほど普及しておらず、また電話回線も混線していたため震源地付近の医療情報が全くありませんでした。
センター所有のドクターカーで被災地へ赴き、救護活動をする方針となり、私も参加しました。発災2日目から約1ヵ月間は、被災者の救出・救命が主な活動で、被災地には負傷した人や助けを求める人が溢れ、即断即決の対応が求められる現場でした。現場にいる一人ひとりが優先順位を考え、対応しなければなりませんでした。私は優先順位に迷いながら、外傷のある人を優先して「大丈夫ですか」「痛むところはどこですか。声に出してください」と手当たり次第に声をかけ続け、安心してもらうことを心がけました。路上でも場所を問わず応急処置を行わなければならず、予測できないことの連続で、「多くの人を助けたい」「何とかしなければならない」と焦り、冷静になれず全く応用も効かず、無力感を覚えました。振り返ってみると、被災地で一緒に活動した医師や救急救命士と相談や連携する方法はあったはずです。看護に必要な人・物・環境が最小限の中でも、自分のもっている力を発揮するためには、冷静な判断力と柔軟な応用力、周囲の人との協調性が必要であるということを当時の私は分かっていませんでした。
患者の生きる姿勢に勇気づけられ、癒された経験
発災1週間が過ぎライフラインが復旧しつつあった頃、震源地近くの病院から脊髄損傷の患者Aさんの受け入れ要請がありました。Aさんは、「自分たちにも何かできることがあるのではないか」と大学の仲間複数人でボランティアとして被災地に入り、救援活動中の2次災害で倒壊した家屋の下敷きになり、重傷を負っていました。出身地と年代が同じであったことから、Aさんの受け入れにかかわることになりました。
Aさんの転院後、私が出勤したときにはベッドサイドへ行き、10分程度、体調のこと、大学や家族のことなどを話しました。Aさんはいつも「命が助かってよかった。自分を助けてくれたたくさんの人に感謝している」と話していました。私は、これから先の生活が大きく変わるようなけがを負っているにもかかわらず、なぜAさんが周囲への感謝の気持ちを持ち続けられるのか疑問に感じ、Aさんに尋ねたことがありました。
Aさんは、「ボランティア活動を通して、悲惨な現場をたくさん見て、助けたくても助けられない命もあった。自分の身体は思うように動かなくなったけれど、命が続いているので夢や希望を持つこともできるし、それを叶えることもできる」と答えました。それまでの私は「今後の人生を大きく変えてしまうような重傷を負い、障害を残すことになってしまうだろうAさんは、それを受け入れ難く思っており、力づけなければならない弱い存在である」「自分は看護師として当然Aさんを癒す立場であるべきだ」と考えていました。しかし、Aさんの言葉を受けて、災害現場で被災者を救援する立場の自分自身も傷つき癒しを必要としていたこと、Aさんの生きる姿勢に私自身が勇気づけられ癒されていたことに気づきました。同時に、看護師として命を助ける手助けはできても、その人の生活や人生を助けることはとても難しいことも実感しました。そして、Aさんを弱い存在だと決めつけていた自分を知覚して、相手の考えを知ること、相手の考えていることは何か、よく考えることの重要性をAさんとのかかわりから学びました。
その後、発災6ヵ月を過ぎると、不安や不満を訴える被災者が目立つようになり、精神的な援助が中心でした。Aさんとのかかわりを経た私は少し自信を取り戻し、被災者の話に耳を傾け、想いを受け止められるように最後までしっかり話を聴くことを心がけました。被災者から「話を聴いてくれてありがとう」「また話を聴いてほしい」との言葉をもらったときは、とても嬉しく自信につながりました。
教員と学生の関係もまた、看護師と被災した患者の関係と同じ
災害看護は、被災者の心理をよく考えることが重要であり、被災者を「助ける」のではなく、被災者自身が回復することを「支える」という姿勢で臨むことが必要です。「看護師は患者を助ける、患者は助けられる」という関係ではなく、「看護師も患者から癒し励まされ、助け、助けられる」という相互関係にあります。そのためには、看護師には患者のもてる力を信じることが不可欠だと考えています。
教員と学生の関係も同様で、「教える、教えられる」という一方通行ではなく、学生自身の持つ力を信じ、双方向に学び合うことが大切です。そのことに気が付いたとき、かつての阪神・淡路大震災での経験が、わたしの教育観にも大きな影響を及ぼしていることを再認識しました。
私は震災後もしばらくの間は救急医療に携わっていましたが、事情があり臨床での看護を離れました。臨床での看護から離れて半年ほど経ち、改めて自分は何がしたいのかを考えたとき、「看護師として人とかかわること」が「自分らしく生きるための楽しみ」であるという思いが、じわじわと心の底から湧いてきました。そのようなとき、知人から看護学校の教員をやってみないか、と提案されました。今まで経験したことのない仕事であり自分にとっては未知の世界で、自信はなかったけれども、紹介された学校の教務担当の方から「学生と一緒に学んでいってください」という言葉をもらい、看護教育に携わることになりました。それから現在も「学生自身のもつ力を信じ、双方向に学びあうこと」を大切に、教員を続けています。この想いを支えているのは、ほかでもない学生の言葉や反応だと思います。
担当している地域・在宅看護論の、訪問看護ステーション実習での出来事です。ある学生が、ALSで気管切開や人工呼吸器の装着を選択していかなければいけないという療養者を受け持つことになりました。援助にあたって私は学生の反応を確かめながら助言をしていきましたが、学生は当初納得していない表情を示しました。私は自分の思いが十分に伝わらず、残念だなという気持ちになっていました。けれどもこの学生は、私の助言を取り入れた援助をするという判断をしました。そして、実習最終日のカンファレンスでは「先生から受けた助言は、どういうことなのかをじっくりと考えながら、残りの実習に取り組みました」と述べ、療養者の望みを明らかにした上で、それを叶える一助となるような援助を実施できたこと、学生自身が難渋しながらも援助をやり遂げたことで達成感を持てたことを発表していました。私は、教員が発言することの影響や責任の大きさを感じたのと同時に、学生が頑張れたこと、療養者と向き合えたこと、自分が学生の変化を感じとることができたたことを嬉しく感じました。このような経験が、教員として学生の成長や変化を信じ抜く気持ちにつながり、相互に関係しているという思いを強くしています。
教員として学生とかかわるのは、学生にとって長い人生のたった一瞬です。学生との出会いを大切にしつつ、自分にできる最大限の力を尽くして学生を支えながら、ともに専門職としての見聞を広め、成長しつづけたいと思います。
1)厚生労働省医政局看護課:「今後の看護教員のあり方に関する検討会報告書概要,2010年2月17日,〔https://www.mhlw.go.jp/shingi/2010/02/dl/s0217-7a.pdf〕(最終確認:2025年2月20日)