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第20回:複数の登山ルートを念頭に置いて山頂を目指す~実質的正義と手続的正義~

第20回:複数の登山ルートを念頭に置いて山頂を目指す~実質的正義と手続的正義~

2024.08.29川瀬 貴之(千葉大学大学院社会科学研究院 教授)

 前回は、正義の最広義である形式的正義とその外側との境界を見てきたが、今回からは、正義の内側に潜って、その下位区分を見ていきたい(図1参照)。まずは、下位区分とはいえ大きなかたまりである、実質的正義と手続的正義の違いを取り上げたい。

実質・手続とは何か 

 「内容」や「中身」という意味での「実質」あるいは「実体」と、「形式」や「方法」に関わる「手続」という対比は、法律学ではおなじみの考え方であり、直感的にも分かりやすいかもしれない。「遠足の行き先は、京都である」は、内容にかかわる実体的なルールであるのに対し、「遠足の行き先は、学級の児童の多数決による」は、手続的なルールである。民事の法律にかかわる多くの事柄のうち、実体的なルールは民法が、手続的なルールは民事訴訟法が定めている。しかし、よく考えてみると、両者はそれほどはっきり区別できるとは限らないということが分かる。 

 次回以降、分配的正義の説明として挙げる例であるが、ホームパーティーで、皆で協力してアップルパイを焼いたとき、パイをどのように切り分けて分配するのが公平・公正か、という問いに対して、「ナイフを持って自由に切り分ける役割を与えられた者が、最後の一切れを取るべし」というルールは、実質的なルールと手続的なルールの、どちらだろうか。どのような参加者にどれくらいの大きさのパイが与えられるべきかの内容について、このルールは何も言っておらず、単にナイフを持つ者が最後に取るという方法のみを要求している。このような要求の表面だけを見れば、それは手続としての色彩が強いように思われるかもしれないが、それは全ての参加者に等しい大きさのパイが分配されることになるだろうという、分配結果の具体的内容を強く示唆する実質的な要求かもしれない。民法の中にも手続的な性格のルールはあるし、民事訴訟法の中にも実体的と言えるルールがある。

 実は、手続と実質の違いは、水と油のように本来的な「性質」の違いというわけではなく、グラデーション的に変化する「程度」の違いにすぎないという考え方がある。その考えによれば、実体的なルールと手続的なルールの違いとは、そのルールが要求する結果の状態の幅の広さの違いということになる。実体的なルールである「遠足の行き先は京都」は、その結果の状態を「京都」と、かなり具体的でピンポイントに絞っているのに対し、手続的なルールである「遠足の行き先は多数決」は、その結果を、誰も欲していない選択肢は排除するという意味で、少しは絞っているとはいえ、多数決の手続を実行する以前では、かなりオープンなままにしている。結果を予めどれくらい絞るか、というのは程度の問題に他ならないのであり、だとすると実質・手続というものは、截然(せつぜん)と区分されているわけではなく、より実質的なもの、より手続的なものという、相対的な傾向や性質としてのみ存在しているということになる。

 実質的な正しさと手続的な正しさ

 私の専門である法哲学では、実質的な内容の正しさを正当(right)、手続的に正しいことを正統(legitimate)と呼んで区別しているが、上の議論を前提にすると、両者の違いも、それほどはっきりしたものではないのかもしれない。にもかかわらず、多くの法哲学の教科書で解説されているということは、何か重要な意味が、その区別にはあるのかもしれない。

 以前にも述べたが、学者、特に哲学者が強く自戒すべきは、区別・分析することに、それこそ実質的な意義がないのに、言葉の世界だけ新しく区分を行い、議論に無用の混乱を生むようなことがあってはならないということである。実質・内容の正しさと、手続の正しさを区別することにも、何の意味があるのかが厳しく問われるべきである。

 そもそも、私たちが、何らかの正しさを主張することの大きな動機の1つは、関係する人々の間に合意や承認を得ることにある。正義は、対他的・社会的な徳であるのだから、これは、当たり前のことだろう。正しさの主張をする際には、短期的な激情に左右されずに冷静に判断できるという意味で理性的な関係者のうち、できるだけ多くの人々に納得してもらえる、強い説得力・理由を持つ主張をすることが望ましい。

 しかし、何らかの事情で、何としても合意に達したい事柄について、関係者の間で意見の激しい対立があって、合意への到達の見込みが厳しいとき、合意へ至る道筋としての正しさに異なる複数の種類が存在すると、合意達成の見込みが改善されることになる。合意という山頂に到達するための登山経路は、複数存在する方が、登頂の見込みは高くなる。1つの経路が失敗しても、どこか1つでも他の経路に可能性が残っている限り、登頂の可能性は消滅しない。内容の正しさ・正当性について反対派を説得できないときも、手続きの正しさ・正統性で、説得できるかもしれない。正しさに、異なる複数の種類が存在することによって、社会的な合意が得やすくなるのである。

 たとえば、民主的な多数決という手続にコンセンサスがある集団において、多数決に敗れた少数派は、結果の内容には不満であるのだが、それでも「多数決で決まったのだから仕方がない」と、手続的な正しさの経路で合意に達するかもしれない。逆に、「俺は聞いてない」とか「やり方が気に食わない」けれども、内容には全然異論はない場合、しこりは残っても、とりあえずの合意には到達するかもしれない。

 理屈上は、上記のように、実質的正しさの合意の失敗と、手続的正しさの合意の失敗、どちらの場合もありうるが、実践的には、特に規範的な正しさが強く主張される場合1 、手続的正義が軽視されることが多いように思われる。昭和初期の軍事クーデターを描いた五社英雄監督『226』で、敗れて処刑を待つ青年将校は「我々のしたことは永遠に正しいことだったのだ」と、正義の官能的陶酔に叫ぶ。確かに、救貧のように、その主張の実質的内容には、私自身共感するところもあるのだが、何の適正手続も経ずに、暴力でそれを実現することの是非の発想がない。正義を考えるとき、実質的な正しさが重要なことはもちろんだが、手続的な正しさも忘れないようにしたい。1つのルートでしか登れない山が、広く長く愛されるとは思えない。


1規範的な正しさよりも、ルーティーン的な効率性が主張される文脈では、逆に手続的正義の重視、実質的正義の軽視という傾向があるように思われる。

川瀬 貴之

千葉大学大学院社会科学研究院 教授

かわせ・たかゆき/1982年生まれ。専門は、法哲学。京都大学法学部卒業、同大学院法学研究科法政理論専攻博士後期課程修了。博士(法学)。千葉大学医学部附属病院講師などを経て、2022年10月より現職。好きなことは、旅行、娘と遊ぶこと、講義。耽美的な文学・マンガ・音楽・絵画が大好きです。好きな言葉は、自己鍛錬、挑戦。縁の下の力持ちになることが理想。

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