こんにちは。前回は「看護のアート」との出会いについてお話ししました。人生への絶望から私を救ってくれた「看護のアート」。修士課程を修了した私は、この研究テーマをひっさげて、意気揚々と博士課程に進学します。しかし、人生はそんなに甘くはありませんでした。
父との別れ
修士課程で「看護者の感性(センス)」の研究に取り組んだときに、かなりの関連論文を読んでいたことは前にお話しした通りです。そのおかげで、「看護のアート」に関する文献もあらかた入手しており、必要な情報が頭の中にほぼ飽和している状況でした。そのため、今思えば自分に対する過信も多少あったのでしょうね、それらの情報を整理すれば計画書は比較的楽に書けると、甘く見積もっていました。1年次前期はコースワークが多いから無理だけど、夏季休暇中に作業に集中すれば秋には計画書を提出できちゃうかも? な〜んて、本当に舐めたことを考えていました。
ところが、博士課程1年次の6月、父が脳幹梗塞で倒れたと実家の母から連絡が入りました。父は12年前に心筋梗塞を発症し、その後に脳幹梗塞を起こしたものの、ほぼ後遺症はなく自宅療養を続けていました。とうとうこの時が来たか……脳幹梗塞再発の知らせを受け、私はすぐに実家のある仙台に帰りました。脳神経の専門病院で母や姉夫婦と懸命に看護を続けましたが、8月下旬、父は息を引き取りました。
その間、大学院の授業を欠席しなければなりませんでしたが、先生方は「お父さんの側にしっかり居て差し上げて」と私を優しく送り出し、課題と引き換えに出席を免除してくださいました。葬儀の日、先生方と同級生たちから弔電が届いたときには、感謝と安心感で涙が止まりませんでした。
蕁麻疹と腎盂腎炎
初七日の法要が終わり、東京に戻ってきました。気持ちを切り替えて計画書を作成しよう。そう思って文献を並べ、パソコンに向き合います。すると、どういうわけでしょう、体中がムズムズと痒み出し、ポコリ、ポコリと体のあちこちに発疹が現れたかと思うと、あっという間に全身に地図状の蕁麻疹が広がりました。……これはいわゆるストレス反応よね。父を亡くしたばかりの今はきっとそういう時期だし、まあ仕方ない。そう受け止めて流そうとしますが、猛烈な痒みが波のように押し寄せて、容赦なく思考を中断させます。研究に向き合おうとするたびに同じ身体症状が現れる日々が続き、私は次第にイライラし始めました。いつまでこんな蕁麻疹に悩まされなくちゃいけないんだろう? 病院を受診し、処方薬を服用しましたが、状態は一向に改善しません。予定ではもう計画書が出来ているはずなのに、まだ一行も書けてないじゃないの! 私は自分に苛立ち、時間がただ過ぎることに焦り始めました。その頃の出来事は、クリスマスも正月も、何一つ覚えていません。
2年次の春になると、毎夜高熱が出、背部痛も出現しました。その頃から、自身の体の変調がただ事ではないことを感じ始めました。にもかかわらず、計画書への焦りが強すぎたのでしょう、病院受診の時間を惜しみ、症状を無視して、ひたすら机に向かっていました。それでも、烏龍茶のような血尿を見た時には、これはいくら何でも無理だと悟り、泌尿器科へ受診しました。予想通り腎盂腎炎の診断が下り、自宅安静が言い渡されました。
研究計画書ってどうやって書くんだっけ?
その頃、私の頭の中を占拠していたのはたった一つの疑問、“計画書ってどうやって書くんだっけ…?” でした。書くべき方向性も見え、必要な情報も揃っているのに、どうして1文字も計画書が書けないんだろう? 私はすっかり訳が分からなくなっていました。朦朧とした頭で、私の指導教員だった故・樋口康子先生の研究室の扉を叩き、自分の疾患のこと、どうしても計画書が書けないこと、期待に添えず申し訳なく思っていることを伝えました。
すると、樋口先生は「もう十分頑張った。今はとにかく体を休めなさい。大学院を辞めたって構わない。健康より大切なものはない」と仰り、私の手を強く握ってくださいました。私は泣きじゃくりながらお礼を言い、研究室を後にすると、すぐに荷物をまとめて実家に向かいました。
下り方面の東北新幹線の中で、私の疲労はピークに達していました。目を閉じて眠ろうとしますが、なぜだか妙に頭が冴え、次から次へと言葉が浮かんできます。……ん? 一体何が起きてるの? 私は自分の異変に戸惑いましたが、程なくそれが計画書に記すべき言葉とその目次であることに気づきました。実家に着くと、「ただいま」の挨拶もそこそこに、私はパソコンを開いてそれらの言葉を一心不乱に書き留めました。そして、その原稿を指導教員に送りました。
安堵と創造
指導教員からすると、普通に驚きますよね。つい先日まで心身ともに衰弱しきっていた学生が、急に計画書を書き上げて、原稿を送ってくるんですから。すぐに指導教員から実家に電話がかかってきました。「あなたどうしたの? 計画書、出来ちゃったじゃない。まあ、とにかく良かったわね!」興奮気味に話す指導教員の言葉を聞きながら、長い間垂れ込めていた暗雲が退き暖かい日の光が差し込んだように、自分の心が静かに温まるのを感じました。
振り返ると、ギリギリの状態にあった私を指導教員が「もう十分頑張った」と認め、健康を取り戻すためには大学院を辞めても良いと諭したことで、私は救われたのだと思います。教員が私を学生としてではなく一人の人間として大切に思ってくれたことによって、私は深く安堵し、自分に課した全ての足かせを外し、自由に創造することができた。新幹線の中で唐突に言葉が降りてきた不思議な出来事を、私はそんな風に解釈しています。目に見えにくい学生の「頑張り」を見てとり、時に背中を押したり、休息を促したり。教員の存在って本当に大きいですね。