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第11回:ケアリング・ジャーニー ~ 看護のクエスト達成をめざす旅

第11回:ケアリング・ジャーニー ~ 看護のクエスト達成をめざす旅

2023.02.24酒井 郁子(千葉大学大学院看護学研究院附属専門職連携教育研究センター センター長・教授)

 2月は教員にとっては最繁忙期。論文指導、成績評価、入試、卒業・修了判定と気の抜けない仕事が続きます。また臨床のみなさまにとっては、年度末で欠員の影響がじわじわきたり、次年度の異動の予想で落ち着かなかったりという時期ではないでしょうか。なかなか思い通りにいかず苦しい時期を過ごしている人もいらっしゃるかも、ですね。ということで、今回はケアリングをめぐるお話です。

目の前に苦しむ人がいたら

 目の前に「苦しむ人」がいたら、みなさん、どうしますか?
 ケアリングを倫理的基盤とする専門職として代表的な看護職、介護福祉士、教師、保育士などの職業の方々は、まずケアされる人の苦しむ状況に共感的に(つまり感情を動かして)応答するのではないでしょうか。自分が責任をもってケアをしているだれか(患者、利用者、生徒、子ども)がしくしく泣いていたら、ほうっておけなくて、やむにやまれぬ気持ちになり、泣いているその人のそばに行って、背中をなでたり、温かい飲み物を出したり、ふとんを整えたり、手を握ったりして専心没頭(engrossment)してケアします。その応答を仕事としてためらいなく(ってわけにはいかないこともありますけど)とれるっていうのが、ケアリングを倫理的基盤とする専門職っていうことなのかなと思います。

ケアとは主客同一、一座建立

 苦しむ人が、気づかいと関心の世界に再び入っていくことができるためには、その人を愛し気づかう者たちがその愛と気づかいを通して、苦しむ人を気づかいの世界に引き戻しているとルーベルは言いました1)。この気づかいがケアリングということかなと思います。他人の気づかいを受け入れるって、実は難しいこともありますよね。気づかわれたくない、気づかわれてる存在になっていることが嫌だ、みたいな気持ちが出てきちゃう。こうなるとケアしにくい。
 ケアする人は、この人のケアニーズに気づいてしまったら、ほうってはおけない、ケアしなくては…、と感情が動いてしまいます。それがケアする人ということだから。しかし、この人はケアを受け入れないかもしれない、自分の力量ではケアできないかもしれないという重圧の中で、相手に専心没頭するがために無防備な状態になりつつも、ケアする責任を受け入れ勇気をもってケアします。一方、ケアされる人は、ケアされる状態である自分に気づき、ケアを受け入れて、そうしてケアリングの関係が成立する。ケアされる人にはケアを受け入れる力が必要なのです。ケアされる人のいわゆる重症度とか、理解力や意識のあるなしなどは、ケアリングの関係の成立にはあまり関係がないように思います。難易度は左右されると思いますが。ここいらへんは話すと長くなるので、またいつかの機会に。
 そして、ケアされる人がケアを受け入れ“ケアされる人”として存在してくれることにより、ケアする人は存在できると言うこともできます。そのような意味で、ケアリングには、茶道で言うところの、主客同一、一座建立、一期一会という特質があるのです。ケアとは、ケアする人とケアされる人が一体となってつくり上げるものであり、それが「個別性のあるケア」なのかなと思います。

 個別性のあるケアは、看護職のクエスト。だから看護職は、そのクエストの達成に向けて、ケアが終わったら、ケアに専心没頭していたか、ケアの動機がきちんと患者に転移していたか(いわゆる自己満足のケアになっていなかったか)を振り返る(いつもじゃないけど)。そしてその経験を次に活かす。看護基礎教育で必ずやるプロセスレコードを用いた自分の振り返りとは、ケアの動機の点検と言えます。この振り返りにより、患者・利用者・家族と向き合う時の、いわゆる球際の強さって言いますか、ケアする時の1対1の強さとも言える「ケアの責任を果たす」ことを身につけ看護を楽しむことができるようになっていくんです。このような徹底した内省を教育の中に取り入れているのが看護基礎教育なんですね。

ケアする人としての看護師

 外来でも病棟でも、在宅でも、看護師ががっつりケアしなくてはいけない人は、かなりヘビーな状態にあり苦しむ人。看護師の、目の前のこの人が苦しんでいるかどうかの判断は瞬間的。そしてケアリングの状態に入るっていうのは、看護師の最終覚醒段階というか、武士が刀を抜く時っていう状態であると思います。苦しむ人とケアリング関係を構築できなければ、治療と看護がその人に届かないので。通常業務の中で、看護師はそうそういつもケアリング状態になるわけではない。たとえば急性期病院の仕事の9割くらいはルーティンの対応です。このルーティン対応ってのが、また高度な判断が必要になるので、そこは後ほど説明します。

推論とアセスメントの両方を

 医師が診断を確定し、最善の治療をするという目的に向かう時、医師の臨床推論のプロセスは演繹的で直線的になります。多様な情報から原因を推理し、除外し、一つに確定していく。このプロセスを医学部生の時から徹底的に訓練される中で感情を切り離し、余計な情報を切り捨てることを身につけていきます。これに対して看護師のアセスメントは、感情を伴う患者との相互作用の中でらせん状に進み、「この人にとっての」「この状態の」意味の創造をしています。だからささいな情報でも何かの意味があるかもしれないと、ジグソーパズルのピースのようにアセスメントの間中ずっと握りしめていることもある。誤解を恐れず言うと、同じ患者さんをみていても、医師は推理しているけど、看護師はジグソーパズルを完成させようとしている、ということは全国津々浦々あるんじゃないかな。
 この頭の働かせ方の違いをまず共有しないと、相互の役割理解とかできない。現在の医師-看護師関係のもめごとの8割くらいは、頭の働かせ方と言いますか、訓練のされ方が違うんだということを認識していないことが原因であるように思います。
 看護職は、正常を基準にして、どのくらい逸脱しているのか、自分で戻ってこられるのか戻ってこられないのかをみている。自力で正常な状態に戻ってくることができると判断したら、看護師は様子観察モードに入り、看護記録は1行で終わり、っていう感じになりますよね。そのジャッジには人間の正常な状態の理解が不可欠。なので看護職は正常な状態とは、健康な状態とはということを深く学びますよね。ところが、医師は看護職ほど健康で正常な人間の反応を学ばないのです。同じように、看護職は異常な状態を医師ほど学ばないけどね。

 で、医療が高度化し、疾病構造が変化を続ける現代。慢性の経過をたどり、ケアニーズが拡大していく心理社会的な「複雑事例」に対応しなければならなくなっている医療者は、推論しながらアセスメントし、アセスメントしながら推論しなくてはならないということに直面しています。医療者は推論もアセスメントもできるようになったほうが、実践が楽になる。
 特定行為研修制度は、看護師が医学的知識と推論を学び、そのうえで比較的高度な判断と技術を身につける学習だ、だから特定行為研修修了者は医師と看護師の間をつなぐんだ、という論理展開は間違っていないけど、もう一つの相互作用に言及していない気がします。じっくり話を聞くと、医師は特定行為研修受講者の指導や修了者との協働を通して、看護師が大切にしている価値、思考の特徴、目標にしていることを理解し、看護師の全人的なアセスメントの過程とケアリングを学んでいるという意味の発言をすることがあります。つまり、看護師が医師の治療意図を理解しやすくなる研修制度であるとともに、医師が看護意図を理解するきっかけとなりうる制度であるということもできるのです。
 ま、うまくやれば、の話ね。医師が看護師を支配し、自分の手足として使おうと思ってしまうとこの相互作用は生まれないですし。

EBPとケアリング

 今の医療では、患者に「何を〈What〉」診療・ケアとして実施(介入)するのかということと、その介入を「いかに〈How〉」行うのか、ということの両方の精度を上げていかなくてはいけません。What のところは根拠に基づいた「今の段階で最も効果のあることが確認されている」介入である必要がある。これを調べて介入方法を決定し、組織的に取り入れていくことをEBPと言いますね。しかしいくら根拠があるからと言っても、その介入を実施できる力量が医療者にあり、かつその介入が患者の好み、価値、選択に沿っていなければ、患者にエビデンスに基づいた実践は届きません。
 そこで、「いかに〈How〉」この実践を患者に届けるかという話になります。多くの場合、患者、利用者、家族は説明を受けて診療ケアへの同意/不同意を自分で選べるわけで、同意してくださったら、そこは通常業務となり、チェックリストのチェック、看護記録1行(しつこくてスミマセン)カテゴリーとなります。いわゆるクリニカルパスに乗ることができるんですね。パスに乗ったら、もうレールの上を走っていってもらう。目標地点は一つってことです。現代の医療の大部分は、ある程度、確からしい流れに乗ることで迷わず一緒に走っていけるように組み立てられています。看護記録1行ってのは、ほんと実は看護師の正確なジャッジのもとに行われているんだと思います。
 一方、「苦しむ人」はこのレールには乗せられませんよね。いろんな脆弱さがあり、複雑なケアニーズが絡まり合っていて、自分ではどうしようもなくつらい状態にあるわけなので。だから、自分の世界の意味を取り戻し、個人として回復していくために、ケアリングが必要になるのではないかなと思います。

ケアリング・ジャーニー

 EBPとケアリング、この2つの装備を携えて、看護のクエストを達成するための旅を続ける看護職のみなさま。カピバラもその旅の途中です。

 ケアされる人がケアする人の存在を必要としなくなった時、つまり回復、成長などによりケアは終わります。良いケアは必ず終わる。そしてどんな旅も必ず終わりがある。だからこそジャーニーなんです。私たちはケアリングというジャーニーを生きている。
 どこから来て、これからどこに向かうのか、ときどき村の宿屋のパブで、ビールでも飲みながら話しましょう。世界のいろんな町や村の出来事、荒野で現れやすいモンスター、ダンジョン(迷宮)の攻略方法、経験値の上げ方、お城の王様の動静などについて、有益な情報を得たり、悩みを共有したりしましょう。それが学術集会のもつ機能の一つってことかしらと思います。

 というわけで、カピバラは横浜で旅の仲間の集いを開きます(ちゃっかりお知らせです)。小児看護の旅の仲間との合同企画もありまっせ。ぜひ、みなさんとわいわい楽しく交流できればなと思います。

日本老年看護学会 第28回学術集会のお知らせ

 

引用文献
1)パトリシア・ベナー,ジュディス・ルーベル 著,難波卓志 訳:神経系の病気への対処,ベナー/ルーベル現象学的人間論と看護,p.373,医学書院,1999.

 

酒井 郁子

千葉大学大学院看護学研究院附属専門職連携教育研究センター センター長・教授

さかい・いくこ/千葉大学看護学部卒業後、千葉県千葉リハビリテーションセンター看護師、千葉県立衛生短期大学助手を経て、東京大学大学院医学系研究科博士課程修了(保健学博士)。川崎市立看護短期大学助教授から、2000年に千葉大学大学院看護学研究科助教授、2007年同独立専攻看護システム管理学教授、2015年専門職連携教育研究センター センター長、2021年より高度実践看護学・特定看護学プログラムの担当となる。日本看護系学会協議会理事、看保連理事、日本保健医療福祉連携教育学会副理事長などを兼務。著書は『看護学テキストNiCEリハビリテーション看護』[編集]など多数。趣味は、読書、韓流、ジェフ千葉の応援、料理。

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