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第14回:2つの仮面―それぞれの長短、そしてそれを外すとき―

第14回:2つの仮面―それぞれの長短、そしてそれを外すとき―

2024.02.29川瀬 貴之(千葉大学大学院社会科学研究院 教授)

 人間の福利を表現する方法としての、数量化アプローチと直観アプローチ、敢えて言えば、理系的アプローチと文系的アプローチの違いについて、前回説明したところだが、今回は、それぞれの長所と短所について比較してみたい。学問を専門とする者の多くが、どちらか一方あるいは両方の仮面を着けているわけだが、それによって自身の主張の論じ方(あるいは偏見)を決めているとも言える。

数量化アプローチ(理系)と直観アプローチ(文系)の長所と短所

 数量化アプローチの長所は、何といってもその厳密さとシンプルさである。根拠を数字で示されれば、それは誰にとっても一目瞭然で、説得力は強い。これは、大量の機械的作業が求められる場合に適している。マークシート式の試験の採点がこれにあたるだろう。機械的な作業なので、判定の正確さに疑義が生じる可能性も低いし、処理も迅速である。しかし、他方で、その機械的作業を行う手順や方程式に採用されている、変数や様々な前提が、どのような意図で設定されているのかは、実は論理や数式で説明できるものではなく、むしろ直観や政策的判断によって決まっていることもある。この場合、表面的には厳密な数式で示されている制度であっても、実は背後で、直観や裁量が大切なことを決めてしまっており、そのことが一見しただけでは分かりにくくなっていることがある。さらに、数量化アプローチの思想に基づいて表現された方法は、その厳密さゆえに、一度決められた手順が硬直化しやすく、現場の自由な判断による柔軟な運用をしにくいということもある。

 それに対して、直観アプローチの長所と短所は、数量化アプローチの丁度真逆となる。より柔軟で丁寧な評価や判断ができるが、手間ヒマはかかる。企業の採用面接のように、じっくりと総合評価したい場合には、この方法が適しているだろう。ここでは、機械的作業を行う数量化アプローチと違って、評価者・判断者が備えている、総合的な直観力・裁量の能力、つまり人間力に対する信頼がなければならない。

 このように2つのアプローチは、真逆の関係にあるわけだが、実際の制度は、その両方を同時に備えていることが多い。前述のように、機械的作業の手順書も、その手順を制定する時には、大いに直観が用いられることがある。なので、いずれにせよ直観を用いることが避けられないのであれば、数量化アプローチと直観アプローチのどちらを好むかという問題は、手順書のような制度の設計者の直観を信用するか、現場の判断者の直観を信用するかという問題であるとも言える。

一元論の未熟な視野狭窄

 マークシート式試験であろうと採用面接であろうと、多くの制度は、重点の置きどころに多少の偏りはあろうが、ともかく両方のアプローチを含んでいる。にもかかわらず、一方のアプローチを万能と信じ、他方のアプローチの有用性に見向きもしないと、知見が狭いということになる。数量化アプローチの重要性を理解しない、いわゆる文系バカ 、直観アプローチの重要性を理解しない、いわゆる理系バカ は、いずれも、単一の方法ですべてが説明できると考えている、未熟な視野狭窄だと言える。異なる複数の基準が同時に作用する、多元性の事実に目を開くことが、知の深まりではないだろうか。

 福利の評価の具体的場面として頻繁に挙げられるのは、リスク評価であるが、ここでも評価の基準の多元性が指摘される。たとえば、アルコールの摂取や原子力発電所の職員の被爆が、健康に与える危険について、科学者と法律家では、全く異なる評価を下すことがある。その場合、普遍的に、どちらか一方の評価が正しくて、それ故に、他方が間違っているというわけではない。もちろん、どちらの評価も、正しい評価や誤った評価を下すことがありうるが、その正しさというのは、あくまでそれぞれの分野に内在的な基準に従って判定されるのであり、両者に共有された単一の基準によってなされるわけではない。たとえば、科学者は、アルコールの危険性について、飲酒の習慣と肝がんとの因果関係に関する統計に基づいて評価するのに対し、法律家はそれが私たちの社会に文化的にどれくらい深く根を下ろしているかを考慮に入れるかもしれない。

仮面をつけて、そして外そう

 このように、正しさの基準は、各業界の慣例という形で、ローカルで多元的・多層的に併存しており、すべての場面で使える単一の普遍的な基準というものは、ほとんどない、あるとしても相当に内容が希薄なものである、というのが私の考えである。だとすると、正しさを判定するための基準、その知識は、特定の文脈に埋め込まれ、特定の社会的役割の中でのみ役割を持つものと言える。つまり、知識を身につけるということは、視野を狭くし、自らの役割と地位を示す、仮面をつけるようなものである。なので、知的であろうとする者は、まずは何らかの仮面をつけることになる。何もつけない素顔というのは、何の専門知識もない、ということになる。しかし、専門バカにならないよう、そこから知のレベルアップを図り、視野を広げるためには、仮面を外すしかない。

 マルセル・シュオッブ『黄金仮面の王』は、癩(ハンセン病)を患い黄金の仮面をつけながら絢爛たる宮殿に君臨する美しい王の物語である。王がついに、后妃から侍臣まですべての者が仮面をつけた虚飾の宮廷を捨て、盲目になりながら一人さまよい、森で少女と出会い、仮面を取って、その命が尽きようとするときに、奇跡が訪れる。業界・社会・宮廷は、確かに、私たちの自己を形成しているすべてである。しかし、その自己・仮面を、1つでも捨て去るところに、知の新しい地平が広がるのではないだろうか。

* * *

 さて、今回は、福利そのものではなく、それを論じる方法に議論の的が逸れてしまったが、次回は、人間の福利を扱う公正な方法について考えたい。

川瀬 貴之

千葉大学大学院社会科学研究院 教授

かわせ・たかゆき/1982年生まれ。専門は、法哲学。京都大学法学部卒業、同大学院法学研究科法政理論専攻博士後期課程修了。博士(法学)。千葉大学医学部附属病院講師などを経て、2022年10月より現職。好きなことは、旅行、娘と遊ぶこと、講義。耽美的な文学・マンガ・音楽・絵画が大好きです。好きな言葉は、自己鍛錬、挑戦。縁の下の力持ちになることが理想。

企画連載

人間の深淵を覗く~看護をめぐる法哲学~

正しさとは何か。生きるとはどういうことなのか。法哲学者である著者が、「生と死」や「生命倫理」といった看護にとって身近なテーマについて法哲学の視点から思索をめぐらし、人間の本質に迫ります。

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