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第4回:思いを誰かに話すことが大切(男性ケアラーチームより)

第4回:思いを誰かに話すことが大切(男性ケアラーチームより)

2023.06.07黒田 史彦(いわき市医療センター看護専門学校 指導教諭)

 DC NETWORKの男性ケアラーチームにおいて男性ケアラーの支援を始めたことから、今回執筆の機会を頂きました。
 私は小さい頃から泣き虫です。そしてそれは今も変わりません。現在は看護教員をしていますが、学生の前でもよく涙を流しています。しかし、それを恥ずかしいとは思っていません。子供の頃から、男だから人前で涙なんて見せたらダメだと教えられてきましたが、これまでの経験からそれは間違いじゃないかと思えます。男性だから弱音を吐かない。それも間違いです。 
 私がそのように考えるにいたったこれまでの学生・社会人経験や、父母介護と育児のトリプルケアの経験と、そこから考える男性ケアラーへの支援について語りたいと思います。

男性看護学生・看護師として女性に弱音を吐けなかった

 私は男性の看護師です。困っている人を助けたい思いが強く本当は消防士になりたかったのですが、身体的基準を理由に諦めた際に、男性も看護の仕事ができると教えてくれたのは、今は亡き母親でした。その後、無事に地元の看護学校に入学しましたが、周囲からは、「男性で看護婦?」というように奇妙な存在として見られていました。看護婦国家試験も合格しましたが、当時は“看護士”としての免許番号で女性と分けられていました。全国で8000番台の希少な存在であったことに間違いはありません。

潜在意識ゆえ、女性に弱音が吐けない

 学生時代、そして新人看護士時代にマイノリティな存在として一番困ったことは、“誰に悩みを話したら良いのだろう?”ということでした。医療とは違う環境にいる友達には、理解が困難な内容が多く相談はできません。女性の同僚や先輩看護婦には、弱音を吐くことはできませんでした。潜在意識がそうさせていたのかもしれません。一番の理解者はやはり同業者である数少ない看護士の先輩方でした。
 私が看護士として働き始めて30年以上も経過しています。さほど珍しくない存在となった男性看護師ですが、未だその存在を特化した研究や、雑誌記事を目にする機会があります。いつの日かそんなことが話題にならなくなる日が来ることを願っています。

男性ケアラーとして他者に弱音を吐けなかった

 ここからは、男性ケアラーとしての経験についてお話しします。

迷いを言葉にできなかったことへの後悔

 私の父親はALS(筋萎縮性側索硬化症)でした。診断時主治医に言われたのは、「将来的に人工呼吸器を装着するか、胃瘻を造設するかについて、本人と家族で決定してください」という言葉でした。私にはそれを本人に説明する役割がありました。意を決して父親にその話をしましたが、案の定涙を堪えることはできませんでした。既に話すことが困難であった父親が書いた文字は「自然のままでいい」でした。私はそれを最期まで尊重しました。しかし、あの時私が泣かずに冷静に説明できていたら、父親はどのように決断したのだろうと今も考えてしまいます。

 ある日、父親が誤嚥をして、状態が悪くなり酸素療法が行われたことがありました。翌朝小康状態になったので、私はいつものように仕事に向かうことにしました。“目”でしか会話ができなくなっていた父親の目は、「仕事行くのか?」と語っていました。「仕事行ってくる。頑張って」と声をかけたのが父親との最後の会話となりました。あの時、自分はなぜその場に居なかったのか。父親との別れから逃げたかったのかもしれません。男だからと理由を付けて、仕事第一だから、という思いもあったのだと思います。当時、「この場を離れない方がいいのかな?」と相談できる相手はいませんでした。迷いを言葉にしていたら、その場に居続けることができたかもしれない。その言葉は弱音だったのか、今も悩み続けています。

悩みや辛さを誰にも打ち明けられなかった

 母親は慢性関節リウマチでした。抗リウマチ薬が体に合わず、アミロイドーシスとなり長期間ステロイド薬を服用していました。その母親が突然敗血症になった時、私は延命をお願いしました。人工呼吸器を装着し、人工透析も行い一命を取り留めた母親でしたが、のちに本人からは「なぜ助けたのだ」といわれました。その後数年闘病を続けていましたが、最期は腎炎で亡くなりました。

 あの時の判断は、医療者として間違いはないと思っていても、母親からすれば誤っている判断でした。母親の言葉が今でも耳から離れません。東日本大震災や自分の家庭の問題で母親に十分にかかわることができなかったことも心に残ったままです。この母親に対する辛い気持ちも、父親の最期の時の思いと一緒に飲み込んだままでいました。
 当時、母親への直接的なケアは姉妹に任せることが多く、申し訳ない思いもありましたが、感謝の気持ちを言葉に出すこともできずに過ごしていました。重要な決断は最終的に私が決めましたが、私は「強くなければならない」と思い、誰にも辛い経験を語ったり、決断について相談したりすることはできませんでした。男性として「自分が決断しなければならない」「他の人に相談することではない」と感じていたからだと思います。

看護教員になって生じた変化

 このような経験をした私は、現在、マイノリティな男性看護教員をしていますが、マイノリティな存在だということを意識して仕事はしていません。そのようにできるようになったのは、誰かに何でも話せる環境や関係性を作ることができたからと考えています。悩みを語れるのは、はじめは男性同士でしたが、同じ悩みを抱えている女性の同僚がいて、彼女たちと思いを共有できたこと、素直に自分の気持ちを伝えることができたことがきっかけで、変化した気がします。

思いを誰かに話すことができる環境・関係性づくりに寄与したい

 現代の日本における男性ケアラーは決して少数ではありません。かつての私と同様に弱音を吐いちゃいけないと頑張っている男性ケアラーはたくさんいると思います。
 活動を開始してから、男性ケアラーの支援を行っている津止正敏先生(立命館大学産業社会学部)の講演を聞く機会がありました。先生の著書である「男が介護する」1)からたくさん学ばせていただいていますが、その中で「もう母を看られん」と自死した兄に代わって母親の介護体験を記した女性の記述が紹介されています。彼女は「周りの助けをたくさん受けて、たくさん頼って、あきらめずに介護してください」1)との言葉を、男性で介護されている方々に宛てて綴っています。この言葉はまさに男性ケアラーに一番必要な行動を示している言葉だと感じました。

 私は今回の寄稿によって自分の気持ちを話す機会が得られました。男性看護師としての経験と重なる部分ですが、思いは誰かに話すことが大切です。男性ケアラーにとって、思いを話しやすい環境と関係性をこのDC NETWORKでは作っていきたいと考えています。始まりは話しやすい人で良いと思います。いつの日かケアをする人が、男性も女性も関係なく、思いを語れる日が来ることを願って、私はこの活動を続けたいと感じています。

引用文献
1)津止正敏:男が介護する,p.20,中公新書,2021

黒田 史彦

いわき市医療センター看護専門学校 指導教諭

くろだ・ふみひこ/いわき市医療センター看護専門学校(旧磐城共立高等看護学院)を卒業後、いわき市医療センター(旧いわき市立総合磐城共立病院)に就職。臨床の現場で18年間看護師経験を積んだのち、同校に看護教員として異動する。2017年に同院へ異動し、専任の新人看護職員研修責任者として勤務。2020年4月より現職。日本看護学教育学学会内で交流セッション「繋学研究会」を共同企画し成果発表を行っているほか、日本初の医療職によるダブルケアラー支援団体「DC NETWORK」でも積極的に活動する。

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