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第2回:「聖なる牛」を探せ~EBP実装の旅の始まり

第2回:「聖なる牛」を探せ~EBP実装の旅の始まり

2022.05.19酒井 郁子(千葉大学大学院看護学研究院附属専門職連携教育研究センター センター長・教授)

 こんにちは、カピバラです。今回は「聖なる牛」がテーマです。“聖なる牛って、何のこと?”と思われたでしょうか。医療現場でも、教育現場でも、あなたのすぐそばに牛は隠れているかもしれません。

わたしと同じくらいのお年頃のみなさま、こんなことありませんでしたか?

 わたしは、1980年代の後半に看護師になりました。新卒で配属された病棟、そして病院には、「なんでそういうふうにやるのかな」と思うようなことがたくさんありました。
 たとえば、すでに伝説の遺物となった包交車があって、今は無き万能つぼに、これまた今は無きイソジンに浸された綿球が入っていて、先輩ナースたちは魔法使いの杖のように、鑷子をひゅんひゅんヒラヒラと使いこなしてました。回診の最中にイソジン綿球がなくなり、「イソジン切れてるわ。カピバラ1本持ってきて」と言われ、未開封のイソジンのボトルを先輩に手渡すと、先輩は滅菌操作で綿球を万能つぼに入れたあと、ボトルのキャップを回し開封、おもむろに膿盆に最初の一滴をたらりと垂らしたあと、万能つぼにイソジンを投入。「なんでそんなふうにやるんですか?」と先輩に問いかけると、「さあね。たぶんこうしたほうがきれい(清潔)なんじゃない? 口切りってことよ」とクールに答えるのでした。

「聖なる牛」とは

 「牛は立ったまま寝るので、寝ている牛をちょっと押すと転倒するというアメリカの都市伝説があります。しかし実は牛は寝るときには横になりますし、立っている牛を人間が押し倒すには少なくとも2人必要です。この神話を裏づける証拠(エビデンス)はありません。『聖なる牛』とは慣習や伝統に基づいた実践を表す言葉です」という話を初めて聞いたのは、2016年の秋、アイオワ大学病院のEBPチームが主催するEBP実装のための研修に参加した時でした。アメリカの人にとって「聖なる牛」はなじみのある用語のようでしたが、私には「今、牛って言ったよね? 牛!? ヒンドウー教の話??」みたいな、間違えてヒアリングしたのかと思うような突飛な話に聞こえました。
 でもその研修で、「医療現場では伝統的な慣習が定着しやすく、この慣習を変化させようとすると抵抗が生まれる、というようなことは多くあります。この慣習に基づいたケアを聖なる牛と呼ぶのです」と説明があり、思い当たる節が多々あり、とても腑に落ちたのでした。

新人看護師が最初に教わること=うまく仕事を進めること?

 最新の教育を受け、国家試験に合格してやってくる新人看護師は、部署に配属されるとまず先輩看護師から「この部署でのサバイバルのしかた」、すなわち、チームの輪を乱さず、しかも効率的に業務をこなすための仕事のやり方を学びます。これらのやり方がエビデンスに基づいているかどうかの吟味はされません。教えてくれる先輩はそのやり方でまったく困っていないので、自信満々で新人看護師に教えるからです(これは私個人の意見ではなくて、こういうことを明らかにした論文1)があるんですよね、念のため)。
 30年以上前の臨床を思い返すと、手術室に入る扉の前のバスマットくらいの大きさの粘着シールに、ブラッシング手洗い。毎日繰り返される共用ベースンを使った全身清拭。術後の腸蠕動音の聴取、排便が3日なければ下剤、それでもなければ座薬、そして最終手段は浣腸。仙骨部の褥瘡には日光浴。夜間眠れない患者さんを勤務室に連れてくる(時にはベッドごと)。
 先輩たちはこのような業務を完璧に行うことをとても大切にしていました。当時はへぇぇ、そういうふうにするんだ! と素直に思いながら、やっぱりいつも我慢できず、「なんでこれやるんですか?」って先輩に聞いてしまう因果な性格。そのうえわたしは当時珍しかった大卒新人ナース…。「大学ではさ、こういうこと習わないの?」と、先輩たちはものすごく気を遣ってくれました。わたし自身がまるで水辺の珍獣でござった。「あ、出会っちゃった、野生のカピバラだ」、みたいな。
 その当時は、新人研修というしゃれたものもなく、先輩と一緒にケアしながらまねていく、いわゆる正統的周辺参加による学習でしたから、病棟ではたくさんの聖なる牛を飼育している状態だったんだなあと思います。そこに野生のカピバラがやって来る…。先輩たちは、さぞめんどくさかったことでしょう。それなのに大切にしてくれたことに感謝しています。

聖なる牛の生態

 慣習に基づいたケア、すなわち聖なる牛の生態として、以下のような特徴があります。
 病棟の多くのスタッフが疑わずに行うが、どうしてやるのかを問いかけるとあいまいな答えしか返ってこない。業務計画表やチェック表に組み込まれその業務を行うことに疑問をさしはさむ余地がない。新しく病棟に異動もしくは配属された新参者が「なんでこれやってるんですか??」と聞くと、古参のスタッフが感情的に反応する、などです。
〈野生のカピバラ〉どうしてこの患者さんをベッドごと、勤務室に連れて来るんですか?」「〈先輩〉夜寝ないから」「〈野生のカピバラ〉でも勤務室に連れて来ちゃったらよけい眠れないんじゃないですか?」「〈先輩〉じゃあ、病室にいさせるってこと? 危ないでしょう、けがさせたらどうするの!」と、なんかこんなふうにどんどん論点がずれていくのも特徴です。
 牛がいることがあまりにも当たり前すぎて、「居るけど見えない」もしくは「見えているけど気にしない」ということが起きるのです。

聖なる牛はなぜ生まれてくるのか

 これまでいろいろな医療専門職のみなさんと話して思ったのは、「医療者は安心したいんだ。だから聖なる牛を飼っているんだ」ということです。医療というのは先がどうなるのか実はわからない仕事です。不確定な要因が多い中で、安心して仕事がしたい。だから医療者はオーバースペックが好きなのです。「何かあったら大変だから念のために」という信念に基づいて聖なる牛を飼っているわけです。
 ヒヤリ、ハットした経験が多い専門職ほど信念に基づいたルーティン(慣習)をもっていると思います。そして、○○を用意して、△△は徹底的にやって、□□は毎日忘れないように実施、というように患者さんの健康アウトカムには直接影響しない業務を持続させているわけなので、聖なる牛を飼育し続けることは大変なことです。責任感が強くまじめでなければできないことです。だからこそ、まず医療者が安心・安全に勤務できる健全な環境がケア改善にはすごく必要なんですよね。

聖なる牛に出会ったら?

 知識や情報を得ると、自分の部署の「聖なる牛」がはっきり見えますよね。研修会に行き、「急性期病院での身体拘束は百害あって一利なし」ということを知って病棟に戻って来たスタッフが、「うちの病棟、身体拘束されている患者さんがたくさんいるじゃないか!!」と憤るというような体験です。でも聖なる牛の存在に気づいたからといって看護師の実践を明日からすぐに変えるということは難しい場合が多いのです。エビデンスがあります、だから変えましょうと誰かが言っても、これまでの慣習のもとになっている信念と拮抗するような価値が提示されているわけで、認知的不協和が起きてしまうからです。「有害事象を防止する」という価値のもと選択してきた身体拘束、それ自体が有害事象とは! どうすりゃいいのよ、っていうのが認知的不協和です。
 なぜこのケアが患者にとって良くないのか、を説明し、慣習に基づくケアをするときに必要になる物品、たとえば身体拘束グッズなどを病棟からなくして、その代わり、看護補助者を増やして見守りを手厚くするなどの代替策を提案する。それを続けられるようモニタリングするなどきめ細かく対応してEBPを実行する。ケア改善に効果のあったことをみんなで共有し、お互いに祝福する。これらを行っていくためには、まず、自分の安心のために行っていることが、患者さんの健康アウトカムの向上を阻害していないか? と考え、患者さんの安全と安心を確保することに本当につながっているか自分たちの行動を吟味することが必要です。でもこれは一人ではできません。「チーム」が必要です。仲間を見つけるのです。そして上司や他職種を巻き込んで組織の雰囲気を変えていくのです。ここらへんのノウハウはまた別の機会に。

* * *

 聖なる牛に出会ったら、それはあなたに「聖なる牛をみることができる能力が備わっている」ということです。沈黙せずに、スピークアウトしましょう。EBPという旅の仲間がきっと近くにいるかもしれません。いないかもしれないけど。だけどそんなときも「親切にしたほうがいいよ、あなたが会う人はみんな厳しい戦いをしているんだから」とプラトンは言いました。みんなよい医療をしたいなと思っているのですから、そこの共有から始めるのがいいのかなと思います。

 

引用文献
1)Bourgault A M., & Upvall M J:De-implementation of tradition-based practices in critical care: A qualitative study. International Journal of Nursing Practice, 25(2), 2019

酒井 郁子

千葉大学大学院看護学研究院附属専門職連携教育研究センター センター長・教授

さかい・いくこ/千葉大学看護学部卒業後、千葉県千葉リハビリテーションセンター看護師、千葉県立衛生短期大学助手を経て、東京大学大学院医学系研究科博士課程修了(保健学博士)。川崎市立看護短期大学助教授から、2000年に千葉大学大学院看護学研究科助教授、2007年同独立専攻看護システム管理学教授、2015年専門職連携教育研究センター センター長、2021年より高度実践看護学・特定看護学プログラムの担当となる。日本看護系学会協議会理事、看保連理事、日本保健医療福祉連携教育学会副理事長などを兼務。著書は『看護学テキストNiCEリハビリテーション看護』[編集]など多数。趣味は、読書、韓流、ジェフ千葉の応援、料理。

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