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病や障害を納得するまでの心の動き
治療法がない慢性の病気や、治療を一生続けていく病気になった人々も、また、事故や病気で、それまでの心身の機能に障害を受けた人々も、生まれた赤ちゃんに病気があるとわかった親たちも、その衝撃的な事象を認識して、心の安定を得るまでには、時間がかかります。健康上の理由から、生活を変えなければならないのです。生活の根底としてきた価値観をも、変えなければならないかもしれません。これは簡単な作業ではありません。自分なりに試行錯誤して、自分の状況を納得できるようになることによって1)、新しい生活を再構築するのです。何が起こったのだ? というショック、なんで自分が? 人に知られたくない、という否認や孤立、怒りを経験します。そして仕方がないと、自分に言い聞かせ、その状況で生きる術を試し、新しい行動ができた/やれたとホッとすることを繰り返しつつ、これでよいと言える新しい自分になると言われています 2) 3 )4)。この時、泣く泣く生活を変える人もいるでしょうし、チャレンジだと思う人もいるでしょう5)。さまざまな経験を重ねて、その状況が普通になるまでには、長い心の軌跡があるのです。
フランク(Frank AW)は、「病いの物語は、難破によってその海図と目的地を見失うところから始まる。物語は中断されたものであると同時に、中断をめぐって語られる。重い病と共にある命もまた、社会的期待というメトロノームで測れば調子はずれに違いない。しかし、病の物語は、中断された時間の中からそれ自体の調子を、あるいは混乱の中からそれ自体の一貫性を作り上げていく」6)と述べています。これは本人にしかできないことであり、医療者は本人の歩みに添うことしかできません。医療者は、適切な医療情報を伝え、医療処置をし、具体的な生活行動の変更の工夫につき合います。そして、努力していることに対して敬意を伝え、泣き言を言ってもいい場所と空間を提供して、本人が何とかしていこうと勇気を出す手助けができたとしたら、最高です。フランクは「混沌の物語の中にいる者に対して医療スタッフがとりかねない最悪のふるまいは、その人が先に進むよう急きたててしまうことである」7)と警鐘を鳴らしています。
糖尿病で食事摂取量を変えなさいと言われて、節制してできる限り長く生きようとする考え方がある一方、短くてもいいから好きなだけ飲み食いしたいという考え方もあります。医療の場では、しばしば生命の選択につながるような難しい選択に迫られます。その時に、何に価値をおいて判断するのかは、その本人にゆだねられます。価値をおいていたことそのものを転換することもあります。医療者は、本人と家族、また医師、看護師他必要な専門職でチームを作り、本人が納得できる選択に至るよう、判断に必要な医療情報を十分に提供し、一緒に悩みながら決めていく過程を共にするのです。医療者が決めるのではないということです。本人と医療者が意思決定を共にすることを、シェアド・デシジョン・メイキング(shared decision making:SDM)といいます。
心の揺れにつき合う
看護職の中には、病の経験がある人も、ない人もいます。体験は何よりの学びですが、体験者にしかわからないと言ってしまっては、仕事になりません。ナイチンゲールが『看護覚え書』の中で、「自らは感じたことのない他人の感情の中に身を投じる能力が、これほどまでに要求される仕事は他になく、もし自分にその能力がないとしたら、その人は看護に携わるべきではないのです。極めて初歩的な看護婦の仕事は、患者の表情に現れるあらゆる変化の意味を、わざわざ患者に説明させるまでもなく読み取り、患者の気持ちを理解することです」8)と言っていることの重みを噛みしめてください。自らの体験を超えて、他者の感情を推し量ることは、簡単ではありません。学生は実習でこうした体験を繰り返して成長していくと同時に、闘病記や小説を読む、他者の話を聞くなどを通して、普段から世界を広げていくことが大事だと思います。
キューブラー・ロスの著作に、小児がんの9歳のダギー少年からの、どうして小さな子どもが死ななければならないの? という問いに答えた『ダギーへの手紙』という小さな本(絵本)があります。「人生は学校みたいなもの。いろいろなことをまなべるの。たとえば、まわりの人たちとうまくやっていくこと。自分の気持ちを理解すること。自分に、そして人に正直でいること。そして、人に愛をあたえたり、人から、愛をもらったりすること。そして、こうしたテストにぜんぶ合格したら、私たちは卒業できるのです」9)と、人生という学校で学び終わった人は、年齢に関係なく卒業すると語っています。死の見方、捉え方はいろいろあると思いますが、これはとても慰めのある、納得させられる捉え方だと思います。看護職は自分の家族だけでなく、他者の死に数多く立ち会います。これは看護の仕事の大きな特徴であり、その意味からは特殊な仕事です。それゆえに看護職には、人の死や遺族の悲しみや嘆き、痛みに関して、感性を持っていることと、そのショックな出来事に打ちのめされない、揺るがない強さも併せ持っていることが求められます。この2つは、矛盾することではありません。学生時代から、これを念頭に入れて、感性を高め、自分自身のストレスを解消する方法を見つける努力をして欲しいと思います。
また、看護職は病や障害によって、これまでできたことができなくなり、新しい生活スタイルを作り直して生きるたくましい人々とつき合います。医療では障害の受容、病気の受容と、受容という言葉が使われてきましたが、受け入れるというのではなく、自分が納得するという、主体的な営みと理解する方が妥当ではないかと言われています10)。こうならなかったらよかったのに、という気持ちがすっかり消えるとは限りません。折り合いをつけた、という方が適切でしょう。看護職は折り合いがつくまで、つまり本人が納得できるまで、試行錯誤の時間につき合います。一度納得したあとも、気持ちはまた揺らぐものです。ですから定期的なチェックで、工夫したことがうまくいっているかを確認し合う必要があるのです。
引用文献
1)バーレイ著,小川仁央訳:わすれられないおくりもの,評論社,1986
2)細田満智子:「障害の受容」再考,総合リハビリテーション37(10),899-902,2009
3)細田満智子:脳卒中を生きる意味――病と障害の社会学,青海社,2006
4)森田夏実:血液透析療法を受けながら生活している慢性腎不全患者の”気持ち”の構造,聖路加看護学会誌12(2),1-13,2008
5)田中美央:重症心身障害のある子どもを育てる母親の子どもへの認識の体験,聖路加看護学会誌14(2),29-36,2010
6)カロ/アーウィン著,奥野節子訳:そして生かされた僕にできた、たった1つのこと,ダイヤモンド社,2012
7)フランク著,鈴木智之訳:傷ついた物語の語り手――身体・病い・倫理, p.226,ゆみる出版,2010
8)前掲7),p. 156.
9)ナイチンゲール著,小林章夫・竹内喜訳:対訳看護覚え書,p.225,うぶすな書院,1998
10)キューブラー・ロス著,アグネス・チャン訳:ダギーへの手紙,p.24,佼成出版社,1998