前回は、健康上の課題がストレッサーになったとき、体は身を守るためにどういう反応をするのかについてお話ししました。今回は、同じく健康上の課題に直面した時、どんなふうに心が動くのかを見てみましょう。これらは看護職が共通に使える理論だと思います。今回は『看護学への招待』(ライフサポート社・2015年)の第1部4章を一部改変の上転載します。
「頭が真っ白」
医療機関にかかるまでの人々の行動はさまざまです。病気かもしれないと思っても、病院に行けず逡巡する人もいます。この痛みを取りたいとすぐ受診する人もいれば、痛みを我慢する人もいます。どうしようと悩んだ末に、医療機関にたどりついて、「なんでもっと早く来なかったのですか。なんでここまで放っておいたのですか」と問われたら、それだけですくんでしまうでしょう。逆に「こんなことで、病院まで来なくてもいいでしょう」と言われても、すくみますね。市民の選択の基準と、医療者の基準とが異なっている時、医療者が意見をストレートに言うと、受診者にはストレッサーになります。ただでさえ、調子が悪くて心細いところに、さらに否定されると嫌な気持ちになります。そんな時に自分の考えを説明できる市民は、少ないのが現状だと思います。医療者には相手の思いを思いやる、相手の判断を尊重する、そのうえで専門家としての意見を出す、という3ステップが求められます。が、これは医療に特別なことではなく、コミュニケーションの基本です。
病気の診断がつくまでは、落ち着かない、不安な日々を過ごします。「〇〇かもしれない」という疑いだけで、人は病人になります。健康診断で再検査を勧められただけでも、病人になってしまう人もいます。何か重大なことが起こっているかもしれないという、不明確さや未知なものへの不安・恐れは、具体的な対処方法がわからないだけに、大変なストレスを引き起こし、“まさに病気である症候群” (第2回後編参照)に陥らせるからです。家族を総動員して、結果を聞きに来る人もいれば、そっと1人で来る人もいます。そこでたとえばがんという診断名を聞くことは、「頭が真っ白になった」と語られるショックな出来事です。その日どうやって家に帰ったかわからないという話も、よく聞かれます。真っ白になった頭では、どんな話も聞こえない、聞こえても理解できないものです。にもかかわらず病者は、説明に「はい、はい」と答えてしまいます。あるいは聞いたことのない病名を告げられるかもしれませんし、診断がつかない・原因がわからないという結果かもしれません。今日で決まると思っていたら、また検査となるのも、ストレッサーです。看護職は、目の前の病者が、どういう文脈の中でどんな思いをしているのかを、推察することが必要です。
病者の気持ちの変化については、たくさんの研究がなされていますし、また、個々の体験は闘病記に綴られています。これらから、おおよそのプロセスがわかっています。「頭が真っ白」から「ウソでしょう?」「なんで私が?」「どうして私なの?」「やっぱり本当か」と変化し、その状況に対応していきます。生きていくには、体の恒常性と同時に心の恒常性も必要です。病者を理解するために、心の変化のプロセスを理解しておくことは、体の変化と共に大事なカギだと考えています。
死が近いという衝撃を受けてからの心の動き
キューブラー・ロス(Ross EK)の『死ぬ瞬間』1)2)という名著があります。原題は“On Death and Dying”ですが、日本語訳が『死ぬ瞬間』となっているために*1、死というものが瞬間に起こるかのような、また死ぬその時のことが書かれていると誤解されかねないのが残念ですが、間近に死を自覚した人々の考えを扱った本です。
キューブラー・ロスは 1960 年代、当時がんの末期にあるとみなされた患者には、誰もが近づかない状況にある中で、牧師とともに病室を訪れ、話を聞きました。自分たちは患者から学びたいと願っており、病が重く死に瀕している患者についてもっとよく知る必要があると話し、患者の承諾が得られた場合に、本人や家族にインタビューしたのです。キューブラー・ロスは、衝撃を受けてからの気持ちの変化の過程は5段階あると分析しています。これは順序を変えることもあれば、同時に来ることも、行きつ戻りつすることもあり、途中で止まってしまうこともあります。また、段階を通る時間(期間)も、一定ではないと述べています。
(1)否認と孤立
「最初の麻痺したような感覚は消えていき、再び落ち着きを取り戻すと、『いや私であるはずはない』と思うようになる。これが普通の反応である」3)。ウソでしょう? そんなはずはない、誰かのデータと間違えているのではないか、私のことではないだろう等々、その出来事を認められないというのが、頭が真っ白という衝撃を受けたショック状態の後に来る反応です。どうしたらよいかがわからない、何から手を付けたらよいかもわからないという不安でいっぱいな時です。
(2)怒り
自分のことではないという否認を経て、やっぱり自分のことらしいと理解したとき湧いてくる気持ちは、なんで私なのか、という怒りです。なぜ私か、ひどいではないか、私が何をしたというのか、何も悪いことをしていないのに、こんな間違ったことがあるのかといった反応です。これは、困った時の神頼みとは反対に、この世には神も仏もいないのか、という怒りであったり、他人への怒りになったりします。声を上げて泣いたり、医療者に当たり散らしたりもします。
(3)取引
衝撃の事実がどうやら本当らしいと感じると、その事実から逃れる方法を考えます。事実の受け入れを先延ばしにする、命を長らえようとする努力です。一度ダメだと言われても、善い行いをすればOKされることもあるじゃないか、というわけです。何々をするからこれはなかったことにして、あるいは何々を我慢するからこっちはないことにして、という神仏との取引や、子どもの結婚式までは生きていたい、といった反応です。
(4)抑鬱
重大な事実に向き合うと、これからの生活をどうすればいいのか、仕事はどうすればいいのか、私が死んだら家族はどうするのだろうか、病気と闘っていけるだろうか、お金は足りるだろうか、苦しいのは嫌だ、痛いのは嫌だ、寂しいのは嫌だ等々があふれ出てきます。事実に少し向き合い始めると、毎日が憂鬱で、思い詰めた暗い表情になり、抑鬱状態になってしまいます。病になって失ったこと、失ったものに対する悲嘆と、これから来る別れへの悲嘆がのしかかってきます。
(5)受容
これも運命、仕方がない、今を大事にしよう、家族が困らないようにこれだけはしておこう、身辺整理をしよう等々、憂鬱に日々を過ごすだけでなく、目標を持って生きることを考える、病と喧嘩するのでなく自分の一部と認識する、病を持った自分を自分として認める、そういった心持ちになることを「受容」と呼んでいます。すっかり抑鬱がなくなるわけではなくても、です。自分の人生に満足を感じているほど、死を受け入れやすいと言われています。自分の価値観が死に脅かされるわけではないと認識できるということでしょうか。
死に至る人々の中には、もうこれでよし、と現世界との別れができている人もいて、「こうしてゆっくりと穏やかに自分を切り離していける」4)と述べています。この状況を虚脱と呼んでいます。
キューブラー・ロスの分析でもう1つ大事なことは、インタビューに応じた人々は、どの段階でも希望を持っていた、ということです。新しい治療方法が見つかるかもしれない、奇跡が起こるかもしれないと。今日も朝が迎えられた、これも今日を生きられる希望です5)。看護職は病者に添う時、生きる活力になるこの希望を共有するのです。
川端は、進行がん患者へのインタビューにより、進行がんで再発を認めた時、治療が終わりに近づいた時、緩和ケアの3つの時点で、死の自覚と他者とのかかわりが変化していることを現象学的研究から導いています。死の自覚は状況の進行により、「もしもの死」⇒「生の際」⇒「私の死」と変化し、同時に他者との関係は「他者とともに生きる」⇒「他者との人生を生きる、未踏の地を生きる」⇒「他者の中に生きる」といった変化を遂げると述べています6)。これは病者が死をどう捉えているかについて、示唆に富む言葉です。看護職は死を語る病者がどの表現をしているかをしっかり聞き取ることが必要だと思います。
サバイバーズ・ギルト
大切な人との死別を予期するという衝撃と、実際の別れという衝撃の、2つの衝撃を受ける家族にも、この心の変化のプロセスはある程度当てはまります。違うのは死別の後も、生きていくということです。たとえば、あの人は死んでしまったのに、お腹がすいたと感じるなんて、というようなことにまで罪悪感を持ってしまうことがあります。
自然災害や人的災害で、周囲で人々が亡くなった中で、生きながらえた人々が抱く、自分だけ助かって申し訳ない、自分はもっと人を助けることができたのではないか、などの罪責感を、サバイバーズ・ギルトと言います。助かってよかった、自分でなくてよかったと思っても当たり前なのに、申し訳ないと思う、生物として命があることは無条件に善なのに喜べない、時には自分も死のうと思うことさえあります。これと似て、亡き人に対して、もっとこうすればよかったのではないか、自分が足りなかったせいではないかなど、自分を責める気持ちを抱く家族もいます。災害時におけるサバイバーズ・ギルトからの回復には、①誰が生き残るかは無作為なことだと気づく、②自分を罰するのではなく他者を励ます、③日常生活に復帰すること、と言われています7)。
大切な人を亡くした人に対し、サバイバーズ・ギルトと同様の心の動きがあることを理解し、そこから抜け出すには、できることはやったし、それは役に立ったと認識を変え、徐々に日常生活に戻ることを勧めるのは、看護職の役目です。『わすれられないおくりもの』8)という童話があります。森の長老で尊敬されていたアナグマが死にました。森の動物たちは皆悲しみます。でも1匹1匹が、それぞれアナグマに教えてもらったことを思い出し、その思い出がアナグマのいない世界で、生き続ける勇気を与えてくれました。別れの悲しみや寂しさから回復するきっかけは、当の亡くなったアナグマからもらっていたんだという物語です。これは大切な人を亡くした人々の、悲嘆からの回復のヒントになりますね。
<後編へ続く>
*1 “On Death and Dying”は 1969 年に米国で出版され、邦訳は 1971 年川口正吉氏により、『死ぬ瞬間』という書名で読売新聞社から発刊されました。後に鈴木晶氏により新たに邦訳(1998)が出版されましたが、『死ぬ瞬間』という書名が既に流布していたため、『死ぬ瞬間―死とその過程について』と原書のタイトルを副題にしたそうです(「訳者あとがき」による)。
引用文献
1)キューブラー・ロス著,川口正吉訳:死ぬ瞬間,読売新聞社,1971
2)キューブラー・ロス著,鈴木晶訳:死ぬ瞬間――死とその過程について,中公文庫,2001
3)前掲2),p.74.
4)前掲2),p.279-280.
5)細川宏著,小川鼎三・中井準之助編:詩集 病者・花―細川宏遺稿詩集,現代社,1977
6)川端愛:進行がんを患うひとが語る「死」, p.110-114, 日本看護協会出版会,2023
7)アンダーウッド著,ウイリアムソン彰子訳:サバイバー・ギルト――災害後の人々の心を理解するために.日本災害看護学会誌7(2):23-30,2005
8)バーレイ著,小川仁央訳:わすれられないおくりもの,評論社,1986