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サイエンスと気配り  

　古来、家族や部族内などの身近な人々の間で子どもや病人の世話は行われてきましたが、ヨーロッパにおいて巡礼や戦争で人々が家を離れたとき、他人による病人の世話が必要になりました。聖地を巡礼する人々が病気になったとき、受け入れたのが教会で、修道士・修道女が世話をしたのです。病院の始まりはキリスト教の教会だと言われます。その頃の看護は宗教に支えられた奉仕でした。修道院の制度を持つカトリックが宗教改革を経て衰退したことで、修道士・修道女による看護も衰退し、病人を世話する人がいなくなりました。17世紀半ばから19世紀半ばまでをヨーロッパでは看護の暗黒時代と名付けており、ここに登場したのがギャンプ夫人（第1回参照）なのです。病人の世話をするのに必要な教養も知識もなく、宗教的な背景もなく、病人の見張りをしているだけでお金がもらえる仕事、それが『看護覚え書』が出版された頃の看護師だったのです。

　ナイチンゲールはクリミヤ戦争からイギリスに戻り、1860年1月に『看護覚え書』の第1版（80ページ）を出しています。これは一般向けで、初版は2か月で15,000部が売れたと言われています。そして同じ年の7月に、第2版として改訂増補版（224ページ）を出版しました¹⁾。これは看護師向けと受け取れる内容ですが、ナイチンゲールは一般の女性すべてに知っていてほしいことと述べています。今日看護で使われているのは第2版です。さらに翌1861年4月に、労働者階級のための『看護覚え書』を第3版として発行しています。＜赤ん坊の世話＞はこの第3版に初めて出ています。

　我が国のナイチンゲール研究の第一人者の小玉香津子先生から「ナイチンゲールは看護の仮説を提示した。定義ではなく仮説ですよ」という話を聴けたことは、私にはとても大きな刺激になりました。仮説という見方は新鮮でした²⁾。確かにナイチンゲールは、他に良い言葉がないから＜看護＞を使う、と断っています³⁾。ギャンプ夫人が看護師の典型であった時代に、ギャンプ夫人からは想像できない＜看護＞とは、新鮮な空気、陽光、暖かさ、清潔、静かさを上手に活用し、食事を適切に選び提供することによって、患者の生命力の消耗が最小ですみ、自ら修復することができるようにすることではないかと、問いかけているのです。ナイチンゲールが実践したキリスト教を支えとした病人への奉仕は、もとに還ったとも言えますが、ナイチンゲールは観察によって法則性を発見し、サイエンスとしての看護の意味を付加したのです。

　一方でナイチンゲールは、看護師の気の持ちよう、人と人との関係性についても言及しています。セント ･ トーマス病院の看護師と学生に送った新年の挨拶の中で「看護婦の仕事は決して曖昧な仕事ではなく、明るくて、幸せで、希望と思いやりとに満ちた心によって行われるものなのです」⁴⁾と述べています。また「自らは感じたことのない他人の感情の中に身を投じる能力が、これほどまでに要求される仕事はほかになく」⁵⁾とも述べています。

　今日私達は、明るくて、幸せで、希望と思いやりとに満ちた心をいかに保てるかを悩むことはあっても、看護はこういう心を持って行うものだということに、疑問を持ってはいないと思います。自分の経験を超えて他人の感情に付き合うことの困難さを味わいつつ、それでもそばにいるという看護を行っています。私は高見順の『死の淵より』におさめられている詩の「祈りと知らない祈りの姿は美しい」というフレーズが看護の姿を表しているように思っています。理にかなったことを実施することと、実施するときの気配りや向き合う姿勢の両方が、看護を成り立たせていると第5回に述べましたが、これもナイチンゲールが指摘していたことでした。

公衆衛生への視線

　当時のイギリスは環境汚染に悩まされていました。産業革命（1760～1830 年頃）によって、大気汚染が始まり、まだ上下水道の整備がされていなかったために、テムズ川は緑に濁って、窓を閉め厚いカーテンをしてもその悪臭から逃れられなかったと言います。1800年代はたび重なるコレラの流行もありました。チャドウィックは、1842 年に『大英帝国の労働者階級の衛生状態に関する報告』を出して、これによって 1848 年世界初の “Public Health Act” （公衆衛生法）が、イギリスで制定されました。個人の努力では解決できない病気や死を、社会全体で予防し、健康を守るということが明言されたのです。

　『看護覚え書』でナイチンゲールは、子どもの寿命は衛生状態のバロメータ⁶⁾と書いています。今日でも、乳幼児死亡率は衛生状態を測る第1の指標ですから、これもナイチンゲールが喝破していたわけです。第2章で、住居の衛生には空気、水、排水、清潔、日光の5つが必須要素として挙げられています。これはまさに公衆衛生の基本ですね。

　ナイチンゲールは病人の看護のみならず、女性たちが子どもを健康に育てるにはどうあったらいいか、若い女性が健康に暮らすためにはどうあったらいいか、兵士が健康を保つにはどうあったらいいか、労働者が健康に働くにはどうあったらいいかと、広く人々の健康を考えて発言しています。「健康管理のための法則も看護のための法則も、本質的には同じものであり、それが健康人と病人の両者を共に支配しています」⁷⁾と指摘しています。

　今日、病院における先端医療に目が向き過ぎて、公衆衛生の視点が看護から抜け落ちていないかと、危惧しています。第4回では世界が抱える健康課題として、高齢社会、慢性疾患の増加、女性と子どもの健康、公衆衛生上の危機、先端医療の進展の5つを挙げました。これらほとんどは、健康の維持（悪化の防止を含む）・増進、疾病の予防により解決が期待できる課題です。施設設備と人材が豊富な病院における看護よりも、人々が自分の生活圏で健康に暮らしていけるように支援する看護に、もっと目を向けるべきではないでしょうか。

　聖路加国際病院をつくったトイスラー(Teusler RB)は、健康教育ができる人材として看護師を育成し、その学生たちに、あなたたちの働きで病人がいなくなったら、この病院はホテルにする、と話したそうです。看護の遠い目標は、みんなが健康に暮らせることです。地球上では地震、津波、火事、洪水、干ばつ、大雪等の自然災害、そして戦争によって、多くの人が困難な生活に陥っています。発災時の救急対応に続き、避難生活での空気、水、排水、清潔、日光、食料の確保が大きな問題になります。これを考えても、看護師は公衆衛生の視点をもって、対応できる必要があります。

ナイチンゲールの手のひらで踊る

　同世代人によって始まった医学が目覚ましく発展したのに対し、学問としての看護学は大変遅れをとったと思います。看護師養成の学校制度は著しく発展しましたが、学問としての発展は 1950年代まで見られませんでした。

　1952年に米国でペプロウ（Peplau HE）が『人間関係の看護論』を著しました。『看護覚え書』からちょうど 100年後の1960年に、ヘンダーソン（Henderson VA）の『看護の基本となるもの』が国際看護師協会 （ICN：International Council of Nurses）から発刊されました。その後も、看護を説明するいろいろな理論が発表されています。ある現象を言葉で説明でき、また予測ができるのが理論ですが、ナイチンゲールの『看護覚え書』を包含して超える理論があるようには思えません。看護界はナイチンゲールのおびただしい仮説の一部を検証し続けているのではないか、そんなふうに思っています。

　皆様の看護にかかわる人生が、これからも幸多き豊かなものになりますように。