病院の看護師を定年退職後、ありがたいことにたくさんの方から次のキャリアについてお声掛けをいただいた。その中で、ある校長が看護教員としてのオファーをくださった。これまでの職場から近く、臨地実習でもかかわりがあった学校だったが、一度は「私には無理です」とお断りした。自分が受けた教育とまったく異なる今の教育に携わることに不安があり、自分では看護教員は務まらないのではと考えたからだ。
しかし校長は、「あなたがこれまで培ってきた現場の看護の経験を学生にぜひ伝えてほしいのです」とおっしゃった。心配はあったが、過去には医療安全管理者として講義もしたし、人前で話すことは好きだった。なにより、ひとりの新人看護師が学生の時にどんな教育を受け、どのような勉強をしているのかということに強い興味を抱いた。学生指導歴がほとんどない自分が、何にも染まっていない学生とかかわれたら面白いだろうなと思い、私は常勤の看護教員として近隣の看護学校に勤務することを決めた。
看護教員として臨床での経験を学生に還元する
教員生活をはじめるにあたって、私が一番に苦手意識を感じていたのは関連図であった。かつて臨床指導者の部下から「師長、これ見てみて」と関連図を差し出されたが、その意味を掴めなかった、という経験をしたためだ。しかし、ふと現場の看護師が頭の中で整理していることと関連図を作成することは同じだと気が付いた。関連図として学んでこそいなくても、今まで自分が患者を前に実践していたことに必要な考え方や情報は関連図と一緒だったのだ。
そこから疾患や病態についても学びなおす中で関連図への苦手意識は消えていき、学生に対しても「みんなは関連図を描いて勉強していると思うけど、現場の看護師になると頭の中で関連図みたいに情報を整理できるようになるんだよ」と教えられるようになった。このように、私は次第に現場での経験と学ぶ意義を絡めて話すようになっていった。
自身の経験から「あなたたちは患者のために学ぶんだ」と伝える
たとえば、かつて新人看護師だった私は、先輩から甘いものが好きな患者に血糖コントロールの指導をするよう指示された。しかしある時、患者に「おしっこから糖が出ていくから、口から一生懸命糖分を取っているんだよ」と言われた。患者の認識は本来の糖尿病からかけ離れたものであり、正しい情報提供の必要性を強く感じた。糖尿病のメカニズムについて自分では理解しているつもりでも、私の説明ではうまく伝わっていなかったのだ。いったんは諦めたが、このままではいけないと強く思い、糖尿病について懸命に勉強し、パンフレットにまとめてもう一度患者に説明をした。その後、患者の病室からは次第にお菓子が消えていった。当時の私は大きな達成感を得るとともに、学ぶことの意義、相手の立場に立って伝えることの大切さを理解し、これこそが“看護”なのだと強く感じたのだった。
こういった実際の経験を交えて「あなたたちには患者のために勉強する覚悟を持って欲しい」という話をすると、学生たちは真剣な顔になる。実際に「田島先生の授業を通して、病態のことも学ばないといけない、個別性を持った看護のために個別性を持った学びをしないといけないんだと分かった」と言っていた学生がいたと、他の先生づたいに話を聞くこともあった。かつて校長から要請された「現場での看護の経験を伝える」という私の使命、その意義を実感した。
自分の経験が学生の気付きを促せるのだという実感
実習においても、自らの臨床知を伝える機会があった。たとえば当校の2年生の成人看護学実習で、ある学生が終末期の患者を受け持ったときのことだ。告知もされていたこの患者は、みるみるうちに衰弱していき、学生は足浴などのケアもできなかった。
「何かしてあげたいけど、私には何もできない」と学生は毎日泣いていた。そのつらさを共有し、私も患者のもとを訪れるなかで、あることに気が付いた。とても朗らかでフレンドリーな印象の方なのに、家族や友人がほとんど面会に来なかったのだ。私が臨床指導者にそのわけを尋ねると、患者はどうやら「自分の弱っていく姿を親しい人には見せたくない」と言っていたようだった。
この話を一緒に聞いていた学生に「そばにいるだけでも、患者さんは安心するんだよ。あなただったら、誰もいない個室にひとりだと、色々なことを考えてしまうし、不安しかないよね。でも、誰かがそばで手を握ってくれていたら、寝れるし安心するんじゃない」と言葉をかけてみた。これもまた、私自身のかつての経験からくる言葉だった。臨床時代、家族が面会に訪れない高齢の患者を受け持ったことがあった。ナースコールを頻繁に押していたが、私が寄り添っているといつもすんなり寝てくれる人だった。当時を思い出して、学生に声掛けをした。そばにいることもまた、看護なのだと伝えたかった。
その後、そばにいていいですか、とうかがいを立てる学生に、患者は「いいよ」と言ってくれた。学生は患者の手を握りながら、実習中ずっと寄り添った。患者はとても穏やかな表情で横になっていた。実習最終日まで患者は頑張ってくれ、当日涙を流す学生に「ありがとうね、いい看護師になってね」と最後の言葉を絞り出してくれた。その3日後、患者は息を引き取った。
学生にとって、そばにいるだけでも看護なのだと知ったことはとても大きな体験になったようだった。彼女との信頼関係を構築することもでき、卒業し看護師となった今でも彼女は私を慕ってくれている。この体験は私にとっても、自分の経験知が学生の気付きを促しうるのだという実感を強める機会となった。
学生に学びを楽しんでもらうため、私がすべきこと
私のモットーは「とにかく楽しむ」ことだ。実習に行く時も、学生たちにはとにかく楽しもうという姿勢を見せるようにしているし、直接伝えてもいる。
看護師になるのは大変だ。学生たちは実習の大変さやできないことが多い無力感に力不足を抱くことが数えきれないほどあるだろう。私自身「なんで看護師ってこんなに苦しいんだろう」と何度感じたことか。だが、学生が実習を「楽しい」と感じ、積極的に参加してくれた時とそうでない時とでは、やっぱり前者のほうが対象者の笑顔も引き出しやすいように思う。
看護について学ぶことを楽しいと思ってもらうためにも、私は自分の経験を伝える。学生たちの表情を見ていると、患者のために何かしたいけれど、今の自分にはその力がない、それでも患者の役に立ちたい、という思いがあふれているように思える。そして、彼らが看護師になったらどのように患者とかかわっていくんだろう、と想像して期待感がこみ上げる。彼らから「自分もそんな体験ができるかな、楽しみだな」という言葉を引き出せたとき、これまで培ってきた経験が自分を成長させてくれたこと、それを臨床知として学生に伝えられることを本当に誇らしく感じる。
失敗が不安で楽しむ気持ちになんてなれなかったとしても、いざとなれば私がカバーする。医療安全を学ぶ中で「人間は必ずミスをする、間違えるものだ」と知った。ましてや彼らは学生だ。今の彼らは必要以上に不安を抱くことなく、ただ対象者と向き合う楽しさを知ってくれればいいのだ。そのためのサポートもまた、私が現場の経験を生かして看護基礎教育の場ですべきことだと思っている。
看護師をしていると、本当にさまざまな対象者に出会う。元気で帰っていく人もいれば、どんなに頑張っても看取らざるを得ない人もいる。しかしそれは、看護師という職業が、真にその人の“最期”までかかわれる仕事だということでもある。それだけの覚悟も必要なぶん、こんなに素晴らしい職業はそうそうないのではないかとも強く感じる。
定年退職後に看護教員となった私にとって、看護基礎教育に携わる時間は多くはない。これからの限られた時間の中で、「看護師にしかできない対象者とのかかわりは、看護師にしか得られない宝物なのだ」と学生に伝えていきたい。

学校でもたくさんの学生や先生からお祝いのメッセージをいただいた。