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第6回:看護が“見える”ように示し、伝えること

第6回:看護が“見える”ように示し、伝えること

2023.01.31藏谷 範子(湘南鎌倉医療大学看護学部 教授)

別世界にやって来る学生たち

 看護教員になって以来、ずっと基礎看護学を担当している。基礎看護学は入学直後から授業が始まるので、高校を卒業したばかりの“まっさらな”看護学生に対面する。そんな学生たちに、「看護の世界にようこそ。看護の世界は(皆さんがこれまで過ごしてきた世界とは)全くの別世界です。その入り口に立った皆さんヘ」と話を始める。

 他の職業においても言えるかもしれないが、看護はまさしく別世界だと思う。
 腕をしばって針を刺して、服を脱がせて、体のあちこちを触わって押して叩いて、お尻を出させて指を入れて…。これを文字どおりに読めば、「何をしているの?」「非日常」「ありえないこと」などの言葉が思い浮かぶであろう。しかし、これらに対して「ありがとう」と言われる仕事がある。それが、医療にかかわる仕事であり看護の仕事である。だからこそ、そのような非日常の出来事を日常の中で提供しているということを、看護師は意識しておかなければならないと思う。そのうえで、あなたたちは看護の専門家になるがその対象者は社会の中で普通に生活している人であるということを忘れないでほしいこと、そして今の日常の世界(感覚)とこれから奥深くへと学び進んでいく看護の世界、その両者をいつも自由に行ったり来たりできる人であってほしいと、学生に伝える。これらの2つの世界を自由に行き来できることは、患者に向き合う専門職であるために必須のことだと思うからである。

本物の看護(看護であること)に触れること

改めて、看護とは何か、看護専門職とは何か

 保助看法第5条にあるように、看護師の業務は、療養上の世話と診療の補助である。療養上の世話は、日常生活の援助である。すなわち、何らかの健康上の問題が発生したことによってそれまでの日常生活に支障をきたすようになった時に、その人の生活を整えることが療養上の世話である。患者にとって通常の生活ができなくなるという体験は、一人として同じものであるはずはなく、どれほど大変なことであろうか。当たり前に無意識的にできていたことが思うようにできないことの不自由さを援助するということは、いかに難しいことであろうか。そう想像し、そこにかかわるうえで何が必要かを見極めることができるかどうかが、看護師には問われていると思う。
 もう一つの看護師の業務である診療の補助とは、当然であるが、医師の補助ではない。対象者が安全に安心してかつ効果的に診療を受けられるよう、“対象者を”援助することである。その中に医師の診療を補助することが含まれているということである。

 看護の専門職になる・専門職を育てるということは、これらの看護が見えること・見えるようにすることだと思う。ナイチンゲール『看護覚え書』1)にあるように、「看護であること、看護でないこと」の見極めができるようになることではないかと思う。そして、看護が見えて初めてその実践ができるというものだろう。
 専門職になるにあたって大事なことの一つは、本物の看護(看護であること)に触れることではないかと思う。本物の看護に触れるというのは、現場を見る・現場で体験するということだけではないし、逆に現場にいたからと言って本物の看護に触れることにはならないとも思う。「看護であること」に触れることは、言葉を介してでも、モノや場面を介してでも、講義でも演習でも実習においても可能である。

まっさらな1年生が体感する看護の感覚

 以前、看護学原論の授業で、学生たちが初めてユニホームを着用する日に合わせて「看護の感覚―看護の体験」の演習を組み込んでいた。
 演習では、2人ペアになってそれぞれ援助を受ける側と援助を提供する側になり、まずは援助を提供する側の学生に、「相手の人に触れてください」「今度は、相手の人のここが気になるな、弱っていそうかな、つらそうかな、と思うところに、『大丈夫かな』と思いながら触れてください」と指示する。その後役割を交代し同じように実施する。
 次に相手の脈拍を探し触れてもらう。脈拍の触知方法や測定方法を学ぶことが目的ではないので、相手の親指の付け根の手前に触れてもらい脈拍がわかればよい。うまく触知できない学生には直接手を添えて場所を教える。そして静かに1分間触れたままでいてもらう。可能なら脈拍数を数えてもらう。これも役割を交代して同じように実施する。
 この2つを体験することで、学生の相手への触れ方は全く変わる。この演習をとおし学生たちは、〈触れられた手の温かさ、安心感〉〈患者-看護師間の距離の近さの実感〉〈看護師役(援助を提供する側)が近づく・触れることに対する患者の戸惑い〉などのほか、〈意識して触れられた時の感覚の違い〉〈触れ方や関心の違いで行為の伝わり方が変わる〉〈看護になる触れ方がある〉など、自分ではない他者との関係の持ち方やあり方について生じる自身の看護の感覚を、「援助を受ける人」「援助を提供する人」の両方から表現してくれる。
 ベナーら2)は、『ナースを育てる』の「看護師であるということ」の章の中で、「素人の学生が看護師の“振りをすること”から看護師で“あること”に変身を遂げる」と述べている。まさしく、看護の初学者としての学生たちが演習から得るこれらの看護の感覚は、うっすらとかもしれないが看護に触れ、看護が見えることにつながるもので、看護師で“あること”へ変身する過程の始まりなのだと思う。

本音を言えば、あっちにもこっちにも気を配れるようになってほしい

 基礎看護学の演習ではほかにも、実際に看護技術を行ってみて、講義で聞いた知識やその意味を実感していく。また、“わかる”ことと“できる”こととの違い、先に述べた援助を受ける人/提供する人の関係性・考え方・互いの違いをどのようにとらえ扱っていくかといったことを学ぶ。
 視聴覚教材やシミュレーションモデルなど、教材も様々に開発が進み、いろいろな活用方法が紹介されている。それらをどのように使い、学生に有用な学びを授けることができるかは、教員しだいである。演習によっては、科学的根拠を前提にしたテクニックの習得が中心となる。それはとても重要なことであると思うし、そこに絞っての学修は、ゴールが明快で学生にはとてもわかりやすく、できるようになった実感も伴い、動機づけにもつながるものでもある。できれば同時に、その場の環境調整や物品等の配置、準備、患者への声かけなど、様々な面へ配慮し対処することを意識して行ってほしいと思う。初学者には厳しいかもしれないが、「あっちもこっちも気にかけ、対処しながら行う」ということである。それが看護の特殊性の一つと考えるからである。

 そのため、個別の技術について、中心となる部分だけでなく、実施中の周辺環境や実施前後の患者や病室の状況がどのようなものであるかに気づいてもらうために、意図的にデモンストレーションで示したり、自作の視聴覚教材を用いて補足したりする。それらを示すことは、現実の場面の理解につながり、そこでの行動を具体的に示すことになると思う。とはいえどの程度それらを調整すべきかは、いまだにいつも迷う。
 熟練者の行為はさも簡単そうに行っているように見えるものである。しかし初学者が実際に行ってみると見たとおりにはいかない。デモンストレーションは、まだやったことがない人やできない人が、できるようになるためのものであると意識して行う。そうして、看護が見えていない人も気づけるように、見えないものを言葉にし、行為にし、見えるように伝えていくことで、看護の見える化に近づけるのではないだろうか。それこそが看護教員の役割だと思う。

実習での学生の言動を、“看護”として意味づけする

 まさに看護の現場に赴く実習では、そこに身を置くだけで、看護の世界、看護そのものに触れることができる。しかし、そのような同一の環境でも見える人には見えて、見えない人には見えないのが看護であろう。“見える目”を育てるためには、学生のレディネス、実習の目的や内容に合わせて、適切な場面を教材化していくことが必要である。その場面でどんなことが看護として提供されていたのか、何を看護としてとらえ学んだのかという意味づけである。これは、直接的な援助技術以外においても言えることである。

患者の痛みと懸命に向き合った1年生

 20年以上前のこと。病院見学は終えている1年生の1週間の基礎看護学実習でのこと。この実習では患者理解と、可能であれば日常生活行動の援助を看護師と一緒に行うことが目標であった。ある学生が受け持った60歳代の患者は、身内のいない独身の男性で、肺がんステージⅣという診断だった。放射線療法や化学療法での効果を期待して入院していた。疼痛もあり、そのコントロールの目的もあった。受け持ち時から、学生は患者のそばにいて、決して多くを話しているわけではないが患者の生活や痛みの様子などをていねいに聴いている。そんな学生によって、患者の孤独感といったものが少し和らげられているように私には感じられた。
 実習3日目、患者は化学療法、放射線療法ともに効果が見込まれないことを主治医から告げられた。厳しい状況に置かれた患者の受け持ちをそのまま続けるかどうかについて、学生の様子を観察し意向を確認し、継続することとなった。毎日、患者の痛みの状況を1年生なりに克明に記録していることについて、「患者さんの痛みの状況を一番よく知っているのはあなた。この記録を指導者と一緒に主治医に提示し、患者さんの痛みのコントロールができるようにしよう」と提案した。その結果、翌週には痛みがコントロールされ、患者は退院したのだ。観察が、痛みのコントロールという看護につながったことを、学生と一緒に実感した大切な体験になった。

純粋な思いを言葉にした1年生

 学生の素直なかかわりから、改めて看護に気づかされることもある。階段から転落して半身麻痺になった70歳代前半の女性を受け持った学生は、受け持ち3日目、起立性低血圧がありなかなかリハビリテーションが進まない患者に、「毎日ご家族の方がお見舞いに来てくださって、A さんは幸せですね。こんなに来てくださる方はほかにいませんよ」と声をかけた。私はびっくりした。学生の言葉に患者は立腹するのではないかと想像した。しかし患者はゆっくりとした口調で「そぉお?」と穏やかに返事をしたのである。私の中には、突然体を動かせなくなってしまって大変だな、気の毒だなといった気持ちがあったのだろう。そのため、そんな患者に「幸せですね」だなんて…と、先のような想像につながった。これは、患者と自分とをどこか線引きして見ていたせいではないか。患者への学生の言葉は、心からの素直な思いとして届いたのだと思う。
 それから少しずつではあるが患者は意欲を示し、リハビリテーションに取り組むようになった。学生の言葉が、看護になったのだ。これが看護だと、学生に私自身が気づかされた場面となった。

おわりに

 2年ほど前になるが、指導者、病棟スタッフ、教員が共に研究会を開き、互いの信頼関係のもと行った実習指導で、学生に看護が見えるようになりそれを行動化できた事例を、とある中堅看護師の研修会で提示したことがあった。その事例は研究会で検討を重ねたものであったのだが、研修会参加者からの反応は「とんでもない実習指導だ」と研究会でのものとは真逆で、とても衝撃を受けた。
 教育の現場も臨床の現場も変化し続けている。価値観も多様である。その中で、自身が何を大切にし、どこに価値を置き、何を信念として看護・教育に臨むかが常に問われていることを、改めて感じた出来事だった。

 教員の仕事の中心は授業である。その本質は、看護を教えることである。そこでの私の学生へのかかわりは、私の看護観や教育観を反映している。常に自分自身が何をどのように看護として伝えたいかということの問い直しである。そのことといつも向き合いながら、これからも看護教育を続けていこうと思う。

引用・参考文献
1)フロレンス・ナイチンゲール著,湯槙ます,薄井担子,小玉香津子他訳:看護覚え書;看護であること・看護でないこと,改訂第7版,現代社,2011
2)パトリシア・ベナー,モリー・サットフェン,ヴィクトリア・レオナード他著,早野ZITO真佐子訳:ベナー ナースを育てる,p.254,医学書院,2011.

藏谷 範子

湘南鎌倉医療大学看護学部 教授

くらたに・のりこ/山口大学医学部附属看護学校(当時)卒業後、山口大学医学部附属病院、昭和大学藤が丘病院等で約12年臨床看護師として勤務する。神奈川県立看護教育大学校看護教育科を経て、看護専門学校で6年間専任教員として勤める。日本女子大学人間社会研究科博士課程前期(修士〔教育学〕)を修了ののち、看護短期大学、看護大学で看護教員として勤め、2020年4月より現職(基礎看護学)。

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