突然だが、命の分配的正義において、年齢を考慮事項に入れるべきかが問題になることがある。その他の条件が全く同じ2人のうち、1人の命しか助けられない場合、私の倫理的直観では、その2人の年齢は考慮すべきであり、その考慮の仕方とは、若い者を単純に優先する(出生時を頂点にして、歳を取るほど単調に劣後していく)というものである1。しかし、他の直観を持つ読者も多いのではないか。たとえば、年齢は完全に無視して、助かるチャンスを平等に分配すべく、抽選で助ける者を選ぶべきだという主張、あるいは単純な(単調な)若い者優先への反感も強いだろう。
今回の問題は、その主張の中身の是非ではなく、私は、私の倫理的直観を、それを共有しない反対派の人々に、どこまでの厳格さをもって主張できるか、である。数学においては、三平方の定理の証明の正しさを主張する際、それを受け入れない立場は、非合理として排除しても問題はないと思われるだろう。しかし、同じことは倫理的直観についての主張にも言えるだろうか。数学や論理学上の命題の正しさと、同じ性質の正しさを、正義・倫理・規範・道徳についての命題は持ちうるだろうか。
正義の主張の中身と、メタ正義論
ある場面で何が正義に適っているのかについて、様々な内容の主張がなされうる。これは、正義の「中身についての主張」である。それに対して、そもそも正義に関する主張はどのような性質を持っているのかに関する主張は、「メタレベルの主張」と言われる。あるいは、メタレベルの議論は、中身に関する様々な主張から、一歩引いて、高みからそれらを俯瞰し、その主張の性質について語るものと言える。
たとえば、「累進課税を緩和し経済成長を目指すべきだ」や「政府は奴隷制度の被害者子孫に謝罪すべきだ」は、具体的な正義の中身についての主張なのに対し、「正義の問いには、数学の問いと同じ意味で厳密に正しい単一の答えがある」や「同じ倫理的問題に、自由主義者のAさんと社会主義者のBさんが、互いに相容れない異なる回答をしても、それぞれに正しい」は、メタ正義論についての立場である。
つまるところ、メタ正義論の問題は、「絶対に正しいことはあるか」ということになる。それについて、たとえば「絶対に正しいことがある」と答えるメタ正義論上の主張に対して、さらに「絶対に正しいことがあるという主張は、絶対に正しいのか」という、メタメタ正義論なる問いを立て、これを繰り返すことで無限にメタレベルの階段を上がっていくことが理屈上は可能になる。ただ、理屈上は可能であっても、実質的にそれがどれくらい重要な問いであるかは疑問である。夢野久作『ドグラ・マグラ』にある、物語の中の物語の中の物語…のような無限の入れ子構造を、倫理的な問いに持ち込んでも、あまり意味はない。メタレベルで問うことの意義は、あくまでも一歩引いて冷静に俯瞰して考えることにある。俯瞰するためには、引くのは一歩で十分であり、重要な問題が見えなくなるまで無限に引いては元も子もない。
メタ正義論をめぐるいくつかの立場
メタ正義論の問題に対する答えもまた、哲学の他の問題と同様に、主観と客観、相対と絶対という観点から、区別できる。そしてもう1つ重要な観点は、絶対に正しいことが「ある」のかという「存在」に関する問いと、絶対に正しいことの中身を我々は「知れるか」という「認識」の問題を区別することである。これらの観点から、正義に絶対はあるかという問題への答えを、整理してみよう。
1)存在するし、知ることができる
第一に、絶対に正しい正義があるし、我々はその具体的な中身を知ることができる(少なくとも接近することはできる)という立場がある。古くはプラトン、現代の法哲学者だとロナルド・ドゥオーキンが属する、普遍的価値の実在論、客観主義、絶対主義の考え方である。
2)存在するが、知ることはできない
第二は、絶対の正義はどこかには存在しているのだろうが、我々の限られた認識能力ではその中身を知ることはできないという考えである。全能の神の従僕を自認する宗教的な理論や、人間の能力の限界を謙虚に認めようとする保守主義などが、これに該当する。
3)存在しない、ゆえに知ることもできない
第三は、絶対の正義はないとする立場で、この場合、ないものは当然、認識することもできない。ただ、絶対普遍で客観的な単一の正義はないと主張しても、互いに相容れない複数の異なる正義が併存することは認めることはできる。
たとえば、正義を間主観的なもの、つまり人々の間の合意によるものと見る立場によれば、それぞれの時代・社会に共有された正義は、互いに矛盾するとしても、すべてその正しさを認めることができる。たとえば、現代の日本と、三百年前の彦根藩には、全然異なる正義が、それぞれ正当に成立することになる。ただし、いかなる文脈からも完全に独立して成立する正義は認められないのである。
次に、正義を主観的なもの、つまり個人の考えによるものと見る立場では、正しさの成否は専ら個人に委ねられる。たとえば、私が無差別テロは正義だと考えれば、それだけで十分真正にその正義は、少なくとも私個人の中では成立している。もちろん、私が無差別テロは正義だと発言しても、それが露悪趣味や挑発のためであれば、依然として虚偽となる可能性はあるが、発言に正直さ・誠実ささえ担保されれば、それで十分に真正の(主観的・個人的な)正義である。
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これらのメタ正義論上の立場のどれを妥当と考えるかは、読者にお任せしたいが、私自身は、間主観主義的な正義観に親しみを感じている。正義は社会的な徳であるから、主観主義を採ると、あまりに何でもありになってしまって不適切であるし、絶対の正しさを主張する客観主義も独善的になる危険があると思われる。正義は、共同体の中で大まかに共有された感覚の中から生まれるものだろう。
しかし、いずれにせよ、今回の議論で重要なのは、メタ正義論の問題への答えではなく、その問いの立て方である。一歩引いて冷静に俯瞰する姿勢は、哲学的であるだけではなく、日々の実践においても有用なものだろう。ただ、せっかく一歩上ったメタレベルの階段だが、次回はこれを降りて、正義の中身の議論に入りたい。
1ちなみに、年齢以外の他の条件が全く同じ2人の間での競合ということは、あまり起こりそうになく、年齢以外の条件(重症度・助かる見込みなど)が、年齢よりもはるかに重く考慮されるべきことが多いだろうから、この例は実際、そこまで深刻なものではない。