姿勢の安定に対する噛み合わせの重要性
日々の生活の中で、歯をグッと食いしばるシーンはいくつか思い浮かぶと思います。
スポーツや肉体労働のように力を発揮することが求められる仕事に限らず、一般の事務職でも書類の束がたくさん詰め込まれた段ボールを「よいしょ」という掛け声とともに、グイと持ち上げるような力を使う場面が多々あるでしょう。
このようにしっかりと上下の歯で噛み合わせることは力を出すことにつながるだけでなく、姿勢を安定させる効果もあります。
特にスポーツでは、力とともに求められるのが身体の動きのバランスです。
しかし、歯周病でぐらついた歯や不安定な義歯ではしっかり噛むことができないために力を発揮できず、正しい姿勢を維持することにも支障が出てしまいます。姿勢が不安定なまま無理に強い力を出そうとすると、身体のどこかに歪みが出て腰痛や肩こりなど不快な症状が生じ、パフォーマンスに悪影響が出ることにもなりかねません。
足腰が安定した姿勢のために大切なことの一つが、噛み合わせなのです。
バランスのよい噛み合わせは身体を安定させる
バランスのよい噛み合わせは、身体の動揺を小さくして安定させることがわかっています。
エビデンス
2009年に明海大学歯学部の宮澤慶氏らは、埼玉県に在住する局部床義歯装着者87名(平均年齢66.0歳)を対象として、噛み合わせと身体の動揺との関連性について調査しました1)。
その結果、奥歯での噛み合わせがある場合には身体が動揺する距離は短くなり、逆に前歯だけで噛むような不安定な噛み合わせでは、動揺が大きくなる傾向を示すことが明らかになりました。
さらに、噛み合わせの力が強い人ほど、もしくは噛み合う接触面積が広い人ほど、身体の動揺が小さくなる傾向となりました(図1)。
しかも、身体の動揺が大きく不安定な人が義歯を装着すると、動揺が小さくなり身体が安定することがわかりました。つまり、良好なバランスの噛み合わせにより身体の重心が維持されることで、身体の動揺が少なくなって安定することが示唆されたのです。
転倒防止は寝たきりを予防する
厚生労働省の「2022(令和4)年 国民生活基礎調査」2)によると、65歳以上の高齢者の介護が必要になった原因として「骨折・転倒」は「認知症」、「脳血管疾患」に次いで3番目に多い原因となっており(図2)、事故によるものでは一番大きな原因となっています。
特に足の付け根である大腿骨頸部の骨折は、高齢で手術が不適応な場合などに寝たきり状態になるリスクが高いため、要注意です。
転倒を防ぐことは介護を受けたり寝たきりになったりすることを予防するため、安定した歩行に対する対策が重要となります。
安定した義歯は歩行を助ける
たとえ自分の歯が少なくても、義歯の噛み合わせが安定していれば運動能力の低下が抑えられ、歩行の際もふらつきにくくなるという以下の研究報告があります。
エビデンス
噛み合わせと歩行能力の関係は、広島市総合リハビリテーションセンターの吉田光由氏の研究グループが行った調査結果を見ても明らかです3)(図3)。
この調査は、自力歩行できる認知症高齢者146人を対象として行ったものであり、①奥歯がほとんど噛めない、②義歯を使って奥歯で噛める、③奥歯が十分残っている、という3つのグループに分けて転倒を起こす頻度について調べました。
その結果、奥歯の残っているグループほど転倒する頻度が減っただけでなく、義歯であってもしっかりと奥歯で噛み合わせることができれば、転倒する頻度は減少することが明らかになりました。
つまり、義歯であれ自分の歯であれ、奥歯でグッとしっかり噛むことによって姿勢を安定させると踏ん張りが効くようになり、歩行をサポートして転倒防止につながったと推測されるのです。
ところで、リハビリテーションを行う際には姿勢に対する評価も重要な項目の一つとして挙げられており、噛み合わせが安定することでリハビリテーションの効果が促進することも認められています。
ですから、身体のバランスを保って必要なときに力が発揮できるように、健康な歯を維持することは大切です。その意味でも、定期的な歯科健診で歯や嚙み合わせのチェックを受けることは重要なのです。
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Sさん(男性、80代)は自宅で転倒し、大腿骨頸部骨折のため当院にて入院・手術されました。しかも転倒時に上顎の総義歯が破損し、使用不能になりました。当然、食事にも支障が出てリハビリへの悪影響も懸念されました。
そこで、当院歯科で義歯の修理をすることになりましたが、破損の程度が大きいため、1週間義歯を預かって院外の歯科技工所に修理を依頼しました。1週間後、修理済みの義歯を装着し、「しっかり食べて、リハビリ頑張らなあかんな」と嬉しそうなSさん。
後日、リハビリを行うPT(作業療法士)のカルテに「しっかり踏ん張りができて、平行棒歩行もスムーズ」と経過良好な記載がありました。その後は食事もリハビリも順調に進み、無事退院されました。
1)宮澤 慶ほか:局部床義歯装着者の咬合状態と身体動揺の関連について.スポーツ歯学13:16-22,2009
2)厚生労働省:2022(令和4)年国民生活基礎調査,2023
3)Yoshida M, Morikawa H, Kanehisa Y et al: Functional dental occlusion may prevent falls in elderly individuals with dementia. J Am Geriatr Soc 53:1631, 2005