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第16回:技術による生命の異常な改善

第16回:技術による生命の異常な改善

2024.04.25川瀬 貴之(千葉大学大学院社会科学研究院 教授)

 健康やQOLのような福利は、いかなる者にとっても常に望ましいもの、多くあればあるほど好ましいものと、しばしば前提にされているように思われる。医療や看護の実践も、この前提を常識としているのではないだろうか。しかし、常識と聞けば、格好の獲物だと喜んでやってきて、それをかき乱す(それゆえに多くの善良な常識人から嫌われる)のが、哲学者である。福利は、本当に無条件の善なのか。福利が、その享受の多さゆえに、倫理的に問題視されることがあるのではないだろうか。

治療とエンハンスメント

 岡崎京子『ヘルタースケルター』のりりこは、痛々しいほど滑稽な上昇志向のファッションモデルであり、それゆえに全身が美容整形の所産という人物である。普通に生きていくことも十分にできるにもかかわらず、より偉大な達成を、医療技術によって実現しようとするのである。医療や看護は、本来、福利が異常に損なわれた状態から、正常な状態へと回復することを目指すものであり、これは「治療」と言われる。それに対して、「エンハンスメント」は、特に何もしなくても正常であるのに、敢えて医療的に介入することで、より高い水準の福利、いわば異常に高い福利を実現しようとするものである。

 典型例は、冒頭のような美容整形だが、極端なものになると、人間の遺伝子に直接介入することによるデザイナーベイビーのように、生命のあり方を劇的に変えるものまで含まれる。このようなエンハンスメントの倫理的問題については、高額なサービスにアクセスできる者が(少なくともその技術が登場する初期には)、富裕層に限定されることによる社会経済的に不正な格差の助長、皆が金髪碧眼になるという商業主義的な同調圧力による多様性の喪失なども指摘されるが、これらは他者との関係に関わる問題、つまり正義に関わる問題なので、また稿を改めて考えたい。福利について扱っている今回の議論では、他者との関係ではなく、1人の人間が、福利を異常に改善することの問題を考えたい。

エンハンスメントの気味の悪さの正体

 それを最も素朴に表現すれば、その不自然さについてまとう気味の悪さということになるだろう。これをもう少し分析すると、その不自然さは、美容整形にせよデザイナーベイビーにせよ、その福利の高さが気味が悪いというよりも、むしろそれを達成する方法の気味の悪さに由来するのではないだろうか。要するに、福利の達成が、あまりに急激であること、それゆえに、期待される福利の異常な改善のみならず、避けるべき副作用もまた尋常ではない程度であり、さらに重要なことに、その副作用の内容や蓋然性が、我々の予測可能性の範囲を超えていることに、我々が恐怖を覚えているからだろう。得体の知れぬものは、恐ろしいというのが道理である。

 そうすると、エンハンスメント自体が、非倫理的で破滅的なディストピアをもたらすというわけではない。福利の改善自体は、やはり単純に善いものなのであり、肝心なのは、副作用が我々の制御の範疇を超えないように、慎重に一歩ずつ進歩するための制度を整えることだと言える。

何が社会の責任で、何が個人の責任なのかは、文化の問題である

 この問題は、単なる理論上の問題にとどまらず、社会の実践に深く影響する。ある介入が、治療とエンハンスメントのどちらに該当するのかは、その介入にかかる費用に、公的な保険が適用されるのか否かに関わってくる。国家や法律が、医療的介入に対して取る態度は、禁止・容認・保障の3つに区分することができる。これに抑制・推奨・強制を加えた6つの分類で説明しても良いだろう(図1)。禁止は、国家が「社会の責任」として、その介入の有害な効果から国民を防御するためのものであり、推奨・保障と強制は、国家が「社会の責任」として、その介入の善い効果を、国民が享受できるようにする、あるいは必ず享受させる1。これらは、いずれも「社会全体の責任」としてなされるので、その運営にかかる費用は、税や社会保険料のような公的資金が充てられる。それに対し、一定の美容整形のような介入は、この区分で言えば「容認」であり、自由な市場において、個人は、私的に「自己の責任」として、自由に売買すればよい。

 ここで注目したいのは、何が社会全体として対処すべき問題であり、何が自己責任の問題であるのかは、極めて文化的な問題だということである。虫歯が自己責任であるから自費診療扱いになる社会はありうるし、審美的な歯列矯正が国民の権利として保障される社会もありうるだろう。どちらが正しくてどちらが間違っているというわけではない。社会の責任として公的保険でカバーされる治療と、自己責任で容認される(あるいは社会の責任として禁止される)エンハンスメントとの境界線が、どこに引かれるかは、何が人間として正常/異常なのかについての、特定の社会の人々の考え方によって決まる。ノーマルなものとアブノーマルなものは、ノーマティブ(規範的)な概念であり、人間とは本来どういうものであるべきかについての、特定の社会の人々の感覚に由来する。

 つまり、正常/異常の概念は、文化の所産である。そして、文化は非常に局所的である。時代や場所を超えた普遍的な文化というものはない。そして、私が主張したいのは、たとえ自分にとって奇異に見えるものであっても、他者が深くコミットしている文化を尊重したい、ということである。りりこは、令和の日本人、あるいはさらに将来の人や、異なる文化に属する人には滑稽かもしれないが、平成の芸能界ではどうだったろうか。狭い常識から、それを嘲笑することは、戒めたい。

***

次回、福利の議論は最終回である。自律の議論の時と同様に、看護の実践にできるだけ近づけた話をして、締めくくりたい。


「禁止」は、覚醒剤のように所持や製造や譲渡などが、法律で必ず処罰されるものである。「抑制」は、たばこ税のように、その利用が禁止されるわけではないが、金銭・その他の負の誘因を設けるものである。そして、「推奨」は、逆に、児童手当のように、子供を持つことに正の誘因を設けるが、子供を持ちたい人が子供を持つことを絶対に保障されるわけではない。「保障」は、生活保護のように、それを望むものが、条件さえ満たせば、権利として絶対に与えられるものである。「強制」は、措置入院による治療のように、希望の有無にかかわらず、必ず実施されるものである。これら5つは、政府の積極的な干渉によるものであるが、「容認」においては、政府は特に何らかの干渉を行うわけではなく、個人の私的な活動に委ねられている。

川瀬 貴之

千葉大学大学院社会科学研究院 教授

かわせ・たかゆき/1982年生まれ。専門は、法哲学。京都大学法学部卒業、同大学院法学研究科法政理論専攻博士後期課程修了。博士(法学)。千葉大学医学部附属病院講師などを経て、2022年10月より現職。好きなことは、旅行、娘と遊ぶこと、講義。耽美的な文学・マンガ・音楽・絵画が大好きです。好きな言葉は、自己鍛錬、挑戦。縁の下の力持ちになることが理想。

企画連載

人間の深淵を覗く~看護をめぐる法哲学~

正しさとは何か。生きるとはどういうことなのか。法哲学者である著者が、「生と死」や「生命倫理」といった看護にとって身近なテーマについて法哲学の視点から思索をめぐらし、人間の本質に迫ります。

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