こんにちは。前回は、博士課程で研究計画書が思うように書けなかった日々について綴りました。そして、傷んだ私の心と体が指導教員の一言によって再生し、創造の扉が開いた経験から、教員の存在の偉大さについて思いを馳せました。今回は、博士論文研究の計画書に基づいて実施したフィールドワークのお話です。
看護のアートにおける表現
私の博士論文研究の研究目的は、言葉や動作、表情、口調などの表現を通して、看護者と対象者が何を感じ、何を体験しているか、双方の間に何が起こっているかを明るみにし、看護のアートの現象に潜む本質的特徴を探究することでした。
私は、看護のアートを構成する様々な要素の中でも、看護者と対象者の「表現」に焦点を当てることにしました。表現に注目したのはなぜでしょう? それは、芸術学や美学、哲学の文献検討を通して、アート(芸術)の世界では作家の感情や個性の表現が重要視されており、看護学でも多くの学者がそのことを指摘していることを知ったためです。看護学の文献では、看護のアートの特徴は、個々の対象者に現れる固有のふるまいの意味を瞬時に理解し、その状況の要求に合わせて対応していく、個別的で具体的な適用過程にあるとする見方が示されていました。そうした観点から、看護のアートの成立基盤が、看護者の表現、すなわち個々の対象者とかかわるその場その時に看護者が抱く感情や考えを対象者の状況に適した形で表すことにあるとする見解が支持されていました1)。
例えば、Peplau2)は、芸術作品が芸術家の見た世界の表現であるように、看護は対象者に対する看護者自身の反応と自己開示の中に理想、価値、統合性、他者の安寧へ関与することをとけ込ませて表現したものであると述べています。芸術家が詩を書くことによって愛を伝えるように、看護者が看護を行うことによって伝えようとする感情は穏やかな愛、静けさ、信頼3)、勇気、喜び、畏れを含むもの4)であるとされています。このように、看護のアートの概念の特徴を、芸術を意味するアートの特徴との比較を通して明らかにしようとする看護学者の中では、看護のアートの本質的特徴がその表現性にあるとする者は少なくありませんでした。彼らは、看護のアートにおける表現が、看護者と対象者との主観的な交流、各々の自己認識と自己開示があって成立するものであり、看護のアートの本質的特徴を探究する上で不可欠な要素であることを示唆していました。
いざフィールドへ
看護者と対象者との間で交わされる表現に着目し、看護のアートの現象に潜む本質的特徴を探究しようとする本研究にとってふさわしい研究方法とはどのようなものでしょう?
本研究が着目する表現とは、看護者と対象者が交わし合う言葉や動作、表情、口調などです。そのため、看護者と対象者がかかわりあう場面に研究者が身を置き、そこで交わされる表現を直に捉える「フィールドワーク」が不可欠です。しかも、フィールドでの観察時は、単に看護者と対象者のかかわりを客観的に眺める態度ではなく、研究者自身の内的なものを活発に働かせ、看護者と対象者のものの見方や感じ方、考え方を直観・推測・想像しながら、その場の雰囲気に身を投じていくような参与観察者の態度が求められるでしょう5)。
加えて、表現のもつ動的で創造的な性質を捉えるために、私は、看護者と対象者が示す表現をそれぞれ別個に断片的に観察するのではなく、双方の関係性に着目し、その時その場の状況や、表現が生まれ展開されるプロセス性を重視して看護場面を観察することにしました。したがって、看護場面の観察は、看護者が対象者とかかわる一連の過程(多くは入院・来院から帰室・退院まで)に密着して行うようにしました。そして、研究協力施設や研究参加者の許可を得て、看護場面を小型のデジタルビデオカメラで撮影させていただきました。
フィールドワーク中に録画されたデータがあるおかげで、目の前に現れては消えてゆく表現を動画として切れ目なく記録することができました。また、1秒単位での再生や停止、巻き戻しや先送りといった細かな作業を正確かつ容易に行えることによって、そこで生じている現象の意味を精緻に捉えることができたのも、デジタルデータのおかげでした。
研究計画書審査を通過してからの半年間、私は無我夢中でフィールドワークを行いました。研究参加者は1名の助産師Aさん。Aさんの神業的な看護のアートの実践を、Aさんやケア対象者、関係者へのインフォーマルインタビューを挟みつつ、ドキュメンタリー番組の監督になったかのように、私はビデオに収め続けました。自宅に帰ると、そのデータを文字に起こして文書化し、再構成して整理していきました。こうして作成されたフィールドノーツ、Aさんと対象者の表現が織りなす看護のアートの現象の解釈的記述は、A4用紙で千枚以上にのぼりました。
突然目の前が真っ暗に、そして・・・
博士課程も2年目の終わりに近づき、主研究指導教員と副研究指導教員と私の3名で、研究進捗報告会が行われました。2名の教員に対し、私が看護のアートの現象の解釈的記述についてプレゼンテーションを始めたところ、教員たちの表情がみるみる曇り出し、「話の途中ですがここでちょっと止めましょう」とストップがかかりました。そして、Aさんの看護は確かに素晴らしいかもしれないが、研究者(私)の思いが全面に出て、解釈に歪みがあるように感じられる、ドキュメンタリー番組を見せられている感覚に陥り、確かに面白いかもしれないが研究的な視点に欠けるなど、次々と厳しいコメントが寄せられました。
決定的だったのは、データ収集方法と分析方法を見直し、データを一から取り直すように言い渡されたことです。それらのコメントを聞きながら、私は、これまでの半年間の努力がすべて無駄になってしまった、協力してくださった研究参加者や研究協力施設に対して申し訳が立たないなど、無念さや不甲斐なさ、これからやり直すことができるのか、終わりが見えないという巨大な不安と焦りで頭がいっぱいになりました。まるで頭上から岩が落ちてきたかのようなショックを受け、一気に目の前が真っ暗になりました。
私は家に帰ると三日三晩床に伏し、涙が枯れるほど泣き続けました。ところが、4日目に目覚めると、指導教員が私に伝えたかったこと、私の研究に欠けているのは研究の理論的基盤と研究方法論であることに突然気づきました。そして、理論的基盤になる哲学や理論を探すため、急き立てられるように家を出て、数日間、夜遅くまで都内の本屋をさまよい歩きました。そんなある日、ある本との奇跡的な出会いがあったのです。
引用文献
1)谷津裕子:看護のアートにおける表現:熟練助産師のケア実践に基づいて,風間書房,2002
2)Peplau H: The art and science of nursing: Similarities, differences, and Relations. Nursing Science Quarterly 1(1): 8-15, 1988
3)Campbell V: Moderated love: A theory of professional care, p.56, Society for the Promotion of Christian Knowledge, 1984
4)Watson J (1988) /稲岡文昭, 稲岡光子(訳):ワトソン看護論:人間科学とヒューマンケア,p.98,医学書院,1992
5)Paterson G, & Zderad L (1976)/長谷川浩,川野雅資(訳):ヒューマニスティック・ナーシング,p.147,医学書院,1983