母が教えてくれた穏やかな死~看護観の揺らぎ
看護師として急性期病棟で勤務していた20歳代の頃、母が脳出血で倒れた。それからは、寝たきりで入院生活を送る母を遠く離れた地で案じながら、帰省のたびに見舞うという日々であった。発症から約5年ののち、母は亡くなった。穏やかな最期だったと思う。
亡くなるまでの4ヵ月間、母はホスピスへの転院を経て自宅療養をしていた。母が亡くなる日、普段はそれぞれの場でバラバラに生活を送っている私たちきょうだいは、数年に一度あるかないかというタイミングで実家に集まることができていた。兄と姉はワイワイ食事の準備をしていて、父はビールを飲んでいて、私は愛犬と一緒に母の傍らにいる。そんな日常の中で、母は静かに息を引き取ったのだ。家族のリズムの中に、亡くなってゆく母が当たり前に存在したというような感覚であった。急性期の現場での看取りに慣れ切ってしまっていた当時の私にとっては、こんなにも平静な最期があるのかと驚きだった。
多くの人を看取ってきたとはいえ、実の母を失うことは、それはそれは悲しく寂しい出来事だったが、人が生きる/死ぬということの本来の姿を母が見せてくれた気がした。
患者家族として自宅での看取りを経験し、それからまた急性期の現場に戻った私は、これまで一生懸命に務めてきた看護のあり方に、どこかモヤっとした気持ちを抱くようになっていた。
ある時、気心の知れた後輩ナースに母を看取った経験について話していた時のこと。彼女がなにげなく、「モニターも付けていないのに、どうしたらお母さんが亡くなったってわかったんですか?」と聞いてきたのだ。
急性期の現場では療養上の世話よりも診療の補助の役割が重視されているという自覚は私にもあったし、ほぼすべての患者さんにおいて亡くなるその時まで必ずモニターが装着されている。だから他意のない純粋な疑問ではあったと思う。けれど、看護師として数年の経験があり、技術もしっかり身についていて、患者さんとのコミュニケーションも円滑にできる、とても信頼していた彼女ですらこんなふうに思うものなのかと、ショックだった。同時に、自分が偏った世界に身を置いてきたような違和感を覚えたのだ。
それからというもの、最期を迎える患者には、母と自分が体験したような、できるだけ自然体でいられる穏やかな時を過ごしてもらいたいという気持ちが募り、急性期の現場を一度離れることにした。
思わぬ導きで、教員の道へ
その後は、まずは自分自身の知見を広げようと、大学院進学を考えていた。そんな折、母校でとあるフォーラムが開催されることを聞きつけ参加してみたのだ。その参加をきっかけに、母校の教員から、「うちの研究室に入って、助手をしながら大学院進学を目指してみるのはどう?」と誘いを頂いた。大学院で学んだらまた臨床に戻るつもりで、ありがたくお引き受けすることにした。
そこで私は、博士論文を執筆しながら勤務する同僚に出会った。彼女は、感情に流されず理路整然と物事を語る人で、論理や理屈をもって人を納得させる姿に、私もそんなふうになれたらと憧れを抱いていた。そんな彼女の「大学院を出たら臨床に戻る人も多いけど、研究者になるのもおもしろいと思うよ」という言葉に、そういう道もありえるのかもしれないという気持ちが芽生えた。
そうして、昼間は研究室の助手として勤め、夜間は大学院生として学び、本格的に看護教員としての歩みが始まった。するとここでもまた、教員って何だろう…と悩むことになるのだった。
ナースとして勤め始めた頃の私は、失敗を恐れて守りに入り、患者中心というよりも自分中心になっている落ちぶれナースだった。そのような状態からいろんな経験を経て自分なりにもがき、看護とは何かということをつかみとってきた。だからこそよけい、初学者に教えていると頭では理解していても、あるべきケアをしないと患者に不利益をもたらしてしまうではないかと、心のどこかでいつも思っていた。学生に対して、こういう場面ではこうするべきという強い思いが出てしまい、今思えば頑なな指導をしていたのだと思う。自分の中で、看護師としての私と、看護教員としての私とが反発し合っているようだった。看護教育で目指すものがよくわからず、その楽しさが見出せない時間はとてももどかしかった。
「学生の小さな変化を見逃がしていないか?」
そんな葛藤を抱えていた頃、たまたま学内で教育心理学の教員と話す機会があった。私の悩みや葛藤をさんざん聞いた後、一呼吸おいてその先生は、「ねえ先生、この絵を見てみて」と、研究室に飾ってあった一枚の絵を指して言うのだ。「僕ね、この絵が大好きなんだよね。よちよち歩きの子どもが、一生懸命にお母さんのところに向かっていこうとしているように見えるでしょう。一歩一歩は小さくても、いつかお母さんの元にたどり着く。学生も同じなんじゃないかな。患者さんを思ってのことだとしても、“こうしないきゃいけない”ばかりだと、学生たちの小さな一歩を見逃がしてしまうかもしれませんよ。」
この言葉は、その時の私にものすごく響いた。そうか、私は学生の結果に目を向けてばかりで、小さな一歩に目を向けられていなかったのか。飛躍的な成長は見えなくとも、学生たちは日々少しずつ前に進んでいるのだ。教員として私がすべきは、患者にではなく、学生に変化をもたらすことなのだ。看護師になろうとしている学生が行った一つひとつに、患者にとってどんな意味があったのかと、その価値を示してやること、これぞ看護なんだよと伝えてやることが、教員である私の役割だったんだと、すとんと心に落ちてきた。すると、徐々に周りの学生に自然な笑い顔が増えてきた気がした。「看護師であり看護教員でもある」という中途半端だったアイデンティティが、「看護教員である」という確固たるものに変わったのだ。
おわりに
幼稚園児だった頃から私は、「かんごし(ふ)さんになる」となぜか思っていて、その思いはずっと変わらず、自然な流れのままに看護学生になり、看護師になった。それからは今回振り返ったように、「これでいいのかな」「こうじゃない気がするな…」と、いつもそんな気持ちがどこかにあったように思う。けれど今は胸を張って、看護教員である自分に誇りをもっていると言える。
限りない可能性をもちながら懸命に学ぶ学生に、「これが看護だよ」と道を照らしてあげられる教員でありたいと思う。