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第10回:自由で幸福な羊たち

第10回:自由で幸福な羊たち

2023.10.26川瀬 貴之(千葉大学大学院社会科学研究院 教授)

 長い間、自由と自律について論じてきたが、ひとまずこれについては今回を区切りとしたい。最後に取り上げたいのは、個人の自由・自律に介入する手法のあれこれについてである。

リバタリアン・パターナリズム

 自由と介入は、全か無かの選択ではない。ほとんどの自由主義者は、個人が何をやっても許される完全な自由を許容しないし、介入主義者も、個人の自由を完全に奪うことを考えているわけではない。自由主義者と介入主義者は、歩み寄ることができるし、実際に歩み寄っている。

 リバタリアン・パターナリズムという立場がある。個人の自由を頭ごなしに抑圧することはせず、自己決定をあくまでも尊重しながら、社会全体の政策を実現するべく、諸個人を一定の方向に誘導しようという考え方である。

 よく挙げられる例は、ビュッフェ形式の給食である。肥満が社会問題であるとき、厳格な介入主義者であれば、メニューから唐揚げを排除し、サラダだけを残すだろう。結果として、肥満問題は解消されるかもしれないが、唐揚げを食べる自由を制約された人々には、不満が残るかもしれない。しかし、従来のように、唐揚げとサラダを無差別に選択できるのであれば、人々の食指は唐揚げにばかり動き、サラダは見向きもされない。そこで、リバタリアン・パターナリストは、唐揚げを後ろに、サラダを前に配置する。唐揚げは、メニューから排除されたわけではないから、強固な唐揚げ主義者は、依然として、強い意志を以て、サラダを乗り越えて唐揚げに手を伸ばすことはできる。しかし、なんとなく唐揚げを食べていた、その他の者は、まんまと誘導に乗って、より多くサラダを食べるようになるのである。人々の、原理上・法律上(de jure)の自由は、いささかも制限されていない。しかし、それは事実上(de facto)、誘導の影響力に服しているのである。

 この手法を、より一般的に言えば、望ましい政策を実現するために、一定のデフォルト(初期値)を設定し、それをそのまま受け入れるように誘導するが、しかし同時に、個人の自由の尊重を維持するために、デフォルトからのオプトアウト(離脱)の可能性を残す、ということになる。

アーキテクチャ

 自由への介入を、強面の抑圧ではなく、よりソフトに、場合によっては、ある意味で、より狡猾に行おうとする方法もある。

 そもそも、人間の行動に影響力を行使し、特定の方向へと誘導するには、いくつかの異なる手法が考えられる。

 第一は、規範の力に訴える方法である。たとえば、ゴーティエの『死霊の恋』では、若き修道僧ロミュオーは、童貞を誓った叙聖式の日に、美しき女吸血鬼クラリモンドに見初められる。道ならぬ恋を止めさせるために、師であるセラピオンが訴える規範は、宗教的な規範であるが、これは、法的規範でもよいし、一般的な道徳規範かもしれない。これに反した時は、様々な社会的制裁として物理力が行使されるかもしれないが、一次的には、規範や価値による説得が行われる。恋に盲目のロミュオーは、この説得を聞くだろうか。

 第二は、経済的な実利に訴える方法である。誓いを侵せば、聖職者としての既得の権益が奪われる、あるいは新たに制裁的負担が科されるという、社会・経済的抑止力に期待するのである。ロミュオーは、この誘因と抑止を受け入れるだろうか。

 第三に、最初から環境の物理的構造を操作して、そもそも誓いを侵すことを不可能にしてしまう方法がある。結局、恋の終焉は、セラピオンによる吸血鬼祓いの聖水でクラリモンドの身体が粉々に砕け散ることによってもたらされた。実際の物語では、セラピオンはロミュオーの目前でこれを行ったので、派手な愁嘆場をもたらす、強引な介入であったのだが、仮にセラピオンが吸血鬼除けの結界を秘密裏に築いていた場合、クラリモンドは何の前触れもなくロミュオーの前から消え去り、ロミュオーは、まさか師の介入があったとも知らずに、静かに信仰生活に戻っていただろう。この場合、吸血鬼の封印により、ロミュオーが禁を侵す可能性は、最初から物理的に排除されてしまう。説得を聞いたり、誘因や抑止を受け入れたりなど、選択の余地はない。

 第三の、物理的な前提や構造は、アーキテクチャと呼ばれ、これを操作することで、人間の行動を、規範の力や経済の力よりも、はるかに強く方向づけることができる。ただ、この手法は、操作対象を、理性的な説得の相手とは見ず、ある意味で動物扱いしている。

 アーキテクチャは、このような幻想小説だけではなく、実際に私たちの周囲にあふれている。たとえば、法律的強制や金銭的誘引が効かないホームレスの排除のため、路面に突起を設けることがなされる。もちろん、ここまで露骨でないものもあり、フードコートの客足の回転を速めるために、BGMの音量を上げたり、知的財産の保護のために音楽や映像のファイルに複写制限をかけたりすることも、これにあたる。さらに、社会的に有用なものとしては、自殺や暴力の防止のため、街灯を青色にすることの効果も指摘されている。  上記のビュッフェの例も含めて、法的・経済的にも、禁止されたり許容されたり推奨されたりしているという多様性があるとはいえ、物理的な誘導が働いている点で、これらはすべてアーキテクチャの性質を備えている。

* * *

 いずれにせよ、ここで重要なのは、自由に介入されている本人が、よもや介入されているとは気づいていないという点である。私たちの自由は、どこかの誰かが、私たちの安全や快適さ、社会の健全さのために、少しずつ、巧妙に、私たちの知らないうちに、奪い取っているかもしれない。その文脈の外側から見れば、私たちは、愚かで従順な羊の群れだろう。

 自由を、どのような手法で、どれくらい制限するべきかについては、様々な答えがあるだろうが、どのような場合であっても、自由を制限する人・される人が、その正当性について、反省できる可能性を残しておくことが重要である。


1自由主義・リベラリズムと、介入主義・パターナリズムを融合するものなので、本来は「リベラル・パターナリズム」と呼ぶべきだろうが、アメリカ英語では「リベラル」に「左派」という意味が強いので、敢えて「リバタリアン」(これも自由主義者という意味だが、「リベラル」よりも、さらに厳格に自由を主張する傾向があるものを指す)という呼称を用いることにも、実用的な意義があるだろう。

川瀬 貴之

千葉大学大学院社会科学研究院 教授

かわせ・たかゆき/1982年生まれ。専門は、法哲学。京都大学法学部卒業、同大学院法学研究科法政理論専攻博士後期課程修了。博士(法学)。千葉大学医学部附属病院講師などを経て、2022年10月より現職。好きなことは、旅行、娘と遊ぶこと、講義。耽美的な文学・マンガ・音楽・絵画が大好きです。好きな言葉は、自己鍛錬、挑戦。縁の下の力持ちになることが理想。

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