看護教育のための情報サイト NurSHARE つながる・はじまる・ひろがる

第25回:自分たちのサッカー、自分たちの看護

第25回:自分たちのサッカー、自分たちの看護

2024.04.30酒井 郁子(千葉大学大学院看護学研究院附属専門職連携教育研究センター センター長・教授)

 サッカーシーズン前半も佳境となり、カピバラはジェフユナイテッド市原・千葉のホーム戦にはなんとか時間をつくってフクダ電子アリーナ(フクアリ)に馳せ参じております。というわけで今回は、2年ぶりにサッカー談義です(第3回「5月8日午後3時のアメイジング・グレイス」も読んでね⚽)。サッカー談義と言いましたけど、実は看護に通じる話でもあります。と言いつつ、読者の皆さんに今回の話をおもしろく思ってもらえるかどうか…ですが、ちょっとお時間をいただき、地元サッカーチームを心から愛する一サポーターのひとりごととして読んでいただければうれしいです。

長らく付き合ってきた「自分たちの」サッカー問題

 第3回でも言及しましたけど、1998年に初めてワールドカップに出場してからおよそ四半世紀にわたって、サッカー日本代表は「自分探し」の旅を続けてきました。思春期から大人になっていくその過程で「自分たちのサッカー」を探し求め、ブラジルワールドカップでは青春の挫折を味わい、ロシアワールドカップでは大人の階段を一段登り、そしてついに2022年のカタールワールドカップでドイツ、スペインを破り世界を瞠目させたのでした。カタールワールドカップの時に生まれて初めて、代表戦を安心して観戦するという体験をしたでござったよ。カピバラには、サッカー日本代表の、自分たちのサッカー探しの旅も終わったかに思えたのでした。カピバラが敬愛してやまない、元ジェフ&日本代表監督のイビチャ・オシム氏が亡くなって数ヵ月後の出来事でした。

 時系列が少し前後しますが、2021年にクラブ創設30周年を迎えたジェフは、それを機にクラブ理念を更新しました。
 「フットボールの力で心をつなぎ セカイに彩りを」
 これが新しくなったジェフのクラブ理念です。この理念をどう具現化するかという行動指針ともいえるジェフスピリッツを読むと、いくつか書いてあるその最後に「日々“ワクワク”を追い求め、期待を超える感動をつくります」とあります。ジェフの選手の皆さんは、試合の中でも楽しそうにパスを回してつないでいる。縦パスから左右にパスをつなぎ、ゴール前で崩してシュートを狙うというようなハイプレスで攻め入っているときのワクワクは、ほんとすごいの。これがジェフのサッカーだ、サッカーって楽しいなって思えるんです。でも、攻められてパスをつなげなくなっちゃったときのドキドキも期待を超えたすごさです。あーーイヤな予感がする、あーーやばい、あっ(点を)入れられちゃった、みたいな。
 そして、現監督はいつも「自分たちのサッカーをやる」とおっしゃいます。ほかのジェフサポの方から怒られてしまうかもしれませんが、カピバラから見ると、攻撃の際の「自分たちのサッカー」はできていることが多いけど、守備に回ったときの「自分たちのサッカー」はなんかあやふやで、守備の決まりが整理されていないのでふっと相手選手がフリーになり、ポコッと決められる。ここまでがテンプレで、これが今のところの現実の「ジェフのサッカー」のような気がします。

チームビルディングには、アウトカムもプロセスもどちらも大切

 ジェフは、2010年に J2に降格してからいまだ昇格できていません。「ジェフはジェフだ。本来は J1にいるべきチームだ」とオシム監督が亡くなる1年前に残したこの言葉が象徴するように、ジェフはオシム監督以降、本来は J1にいるべき「ジェフのサッカー」を探し求め、つくっては壊し、「ジェフのサッカー」の具現化による J1昇格というミッションと格闘し、今に至っているのではないかと思います。
 でもほんとうにジェフは J1にいるべきチームなのか? その前の J2で勝ち抜くことを実現するために何をするのかをマジ検討せねばならぬのではないか? というのが10年以上 J2のジェフを見守ってきたカピバラの正直な思いです。もちろんチームはすでに手を打っているでしょうし、カピバラの余計なお世話っていう話ですけどね。
 そもそも、なんのために「自分たちのサッカー」を「自分たちらしく」やるんでしたっけ? それは、試合で相手チームに勝つためです。その手段として、「自分たちのサッカー」がある。サッカーという競技は、“相手に勝つか負けるか”を90分 + アデイショナルタイムという時間の中で決着させるものなのですから。
 お隣県のクラブチーム・鹿島アントラーズが掲げる「すべては勝利のために」という理念をアウトカム志向とするならば、ジェフのクラブ理念はプロセス志向と言えるのかもしれません。チームをつくっていくうえではどちらも必要です。実際のサッカーチームの運営においてはアウトカム志向もあり、プロセス志向もあると思うんですよね。どちらか片方というわけにはいきません。プロセスを丁寧に合意させつつ進めないとチーム内がぎくしゃくして殺伐としてきますし、アウトカムを求めていかないと試合に勝てないのでチームの存在意義がみえなくなり、やっぱり殺伐としていきます。「自分たちのサッカー」という手段を「自分たちらしく」やり切ったとて、勝てるとは限らない。でも自分たちのサッカーをやらずして試合に勝ってもなんか不満が残る、ということかと思います。

「らしさ」問題を考える

 先日の負け試合のあと、フクアリから蘇我駅までとぼとぼ歩きながら、こんなことを考えたのでござった。
 そもそも、「自分たちの〇〇」「自分たちらしさ」と言いたくなる時とはどんな時なのか。一つには、今の自分たちが自分たちらしくないと思う時でしょう。こんなはずではないとか、もっとやれるはずとか、そんな自己の不一致を微妙に感じ取る時に、「自分たちの○〇」の追求、とか言いたくなる。この場合の「自分たちの〇〇」「自分たちらしさ」とは、自分たちが思う理想の状態を指しています。そしてもう一つは、ものすごくうまくいっている時です。「自分たちの○〇」ができている、だから迷わず進もうとか、今は「自分たちらしく」やれている、この調子だ、とか。この場合の「自分たちの○○」「自分たちらしさ」は、自己への満足の状態を指しています。
 どっちであっても共通している問題は、「らしさ」という言葉を使うことにより、やっていることの意図と結果と意味づけ、評価という細部がはっきりしないということでしょう。言っている本人には「〇〇らしさ」のイメージはあると思うんですけど、それはいったいどんなことなのか、わかる人とわからない人が出てきちゃう。逆に言うと、かかわる人たちが「自分たちの○○」「〇〇らしさ」について同じイメージを共有しているなら、その一言で伝わるわけですよね。それに「わたしの○○」「わたしらしさ」ならわたし自身の話ですけど、「あなたの○○」「あなたらしさ」ということになると、こっちが勝手にもっているイメージを「あなた」に押し付けているリスクがありますよね。あなたとわたしが「らしさ」を共有できているかどうか、あやしくなってきます。登場人物が増えてチームや組織になっていくとわかり合えていないリスクも増えていくわけです。だからこその理念の共有と具現化であり、わかり合えない時、うまくいかない時のよりどころとしての機能が理念にはあります。

 カピバラ業界でいえば、介護保険法第1条に謳われている「尊厳あるケア」ですが、尊厳ということについて厚労省が通達を出して定義しているわけではありません。なので、現場では「尊厳」がいわば「らしさ」として理解されている1)と指摘があります。「その人らしさを大切に」「人間らしい暮らし」など、カピバラも言ったり書いたりしてきました。人にくっつく「らしさ」とはいわゆる人格のことを指しているのではないかと思います。そして「○〇らしさ」とは、今日考えて明日できるというようなものではないのです。わたしの、あなたの、その人のこれまでのジャーニーの積み重ねにより、その人の人生の中でつくられていく、その人を他の人と区別する振る舞い方が人格といえるのでしょう2)。「らしさ」をつくっていく過程も難しい成長の過程ですけど、「らしさ」を失っていく過程も希望と絶望の間をいったりきたりする大変なジャーニーとなると思います。

自分たちの看護の、自分たちの専門職連携のその先に目指すものとは?

 さて、看護も専門職連携も日本のサッカーと一緒で、昭和、平成、令和と「自分たちの」「自分たちらしい」あり方を模索し続けてきました。渦中の一匹として言わせていただくなら、両方とも難儀なプロセスでござったよ。
 たとえば「うちの病院の、大学の、業界の専門職連携とは?」という時、専門職連携の概念がそれまで日本にはなかったために、既存概念で理解しようとされることが多く、正確な制度理解や概念理解が伴わないままで進んでいきそうになったりとか、読者の皆さんも一つや二つは心当たりがあるのではないかとお察しいたします。「専門職連携ってチーム医療のことでしょ? それなら、すでにやってます。現場はチーム医療です(この概念の違いは第15回「専門職連携と多職種連携~辺境警備隊の夏至祭」を読んでね)」とステークホルダーに言われて話が進まない、とかありましたよ、カピバラのところでも。でもかなり変化は見えてきています。その変化の要因は、「専門職連携/多職種連携」のその先には患者・利用者・家族・コミュニティの健康アウトカムの向上という目的があるという概念と用語が普及し実装されてきたから、つまりいろんな人たちが「自分たちの専門職連携」の細部を語ることができるようになってきたからだと思います。
 一方、「日本の高度実践看護とは?」を考えてみましょう。高度実践看護という概念が直輸入された日本では、なにが高度なのか、なにが看護なのか、なんか共有しきらないままに医療の高度化、少子高齢社会の到来、専門職のタスクシフト、という天の声のもと、「看護業界が考える自分たちの高度実践看護」をやりたいけどやり切れない、という状況がまあまあ長く続いてきました。現在は、ようやく最終着陸地点がうすぼんやりと見えてきたというところでしょうか。「自分たちの高度実践看護」が看護業界でとどまっている状態から、「みんなの高度実践看護」になっていくとはっきりと見えるのでしょうね。国民の皆さんが求めている看護とは何なのか、中でもどんなふうに高度だったらいいのか、日本におけるアウトカムとは何なのか、これは看護業界だけで考えていても答えはありません。看護業界だけで考えていけば、小さな違いを出すことだけに注力したり、伝統的な看護から脱却することを回避したりと、たこつぼ化が進むだけで、包括したり統合したり変革したりということは生じないのではないかなと思います。

一つでは多すぎる

 「自分たちのサッカー」が一つだけでは、いろんなチームと対戦すれば、相手の実力に依存して、勝ったり負けたりです。サッカーはその勝ったり負けたりが、観客にとっては楽しいのですけども。勝ち続けるにはいろんな「自分たちのサッカー」の引き出しをもっているのが大切かなと思います。それは自分たちが大切にしている価値を捨てることではありません。得意だと思っていること、これしかないと思っていることへのこだわりをいったん脇において、リスペクトとともに相手をよく理解すること、そして自分たちの限界を受け入れて、そのうえで一番うまくいきそうな方法を勇気をもって選ぶことで、引き出しは増えていくのではないかなと思います。一つにこだわり大事にしすぎると、その価値が増幅し続け、やがてその価値にとらわれ、目的化して排他的になり、そのほかの可能性に気づけなくなってしまいます。そしてその一つがダメになったとき、何も残らないことになりかねませんし。
 一つでは多すぎる、一つではすべてを奪ってしまう3)、のです。
 自分たちだけで、自分たちの〇〇ばっかり考えると、いろんな壁につきあたった時、ブレークスルーできませんよね。

 

引用文献
1)加藤泰史:編者序文,尊厳概念のダイナミズム;哲学・応用倫理学論集(加藤泰史 編)法政大学出版局, p.3, 2017
2)ミヒャエル・クヴァンテ,瀬川真吾(訳):介護の文脈における人格の自律,依存性,そして尊厳,尊厳概念のダイナミズム;哲学・応用倫理学論集(加藤泰史 編), 法政大学出版局, p.273-298, 2017
3)外山滋比古:人生複線の思想;ひとつでは多すぎる, みすず書房, 2014
 

酒井 郁子

千葉大学大学院看護学研究院附属専門職連携教育研究センター センター長・教授

さかい・いくこ/千葉大学看護学部卒業後、千葉県千葉リハビリテーションセンター看護師、千葉県立衛生短期大学助手を経て、東京大学大学院医学系研究科博士課程修了(保健学博士)。川崎市立看護短期大学助教授から、2000年に千葉大学大学院看護学研究科助教授、2007年同独立専攻看護システム管理学教授、2015年専門職連携教育研究センター センター長、2021年より高度実践看護学・特定看護学プログラムの担当となる。日本看護系学会協議会理事、看保連理事、日本保健医療福祉連携教育学会副理事長などを兼務。著書は『看護学テキストNiCEリハビリテーション看護』[編集]など多数。趣味は、読書、韓流、ジェフ千葉の応援、料理。

フリーイラスト

登録可能数の上限を超えたため、お気に入りを登録できません。
他のコンテンツのお気に入りを解除した後、再度お試しください。