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第3回:5月8日午後3時のアメイジング・グレイス

第3回:5月8日午後3時のアメイジング・グレイス

2022.06.16酒井 郁子(千葉大学大学院看護学研究院附属専門職連携教育研究センター センター長・教授)

 イビチャ・オシム氏が2022年5月1日、オーストリア・グラーツのご自宅で永眠されました。
 オシム氏は J リーグチーム「ジェフユナイテッド市原・千葉(以下ジェフ)」の監督として2003年に来日し、2006年まで指揮を執り、チーム結成以来最高の成績に導きました。その業績により南アフリカワールドカップに向け再編成された日本代表チーム監督に就任、チームの改革に取り組み着実に成果を上げていました。しかし2007年11月、脳梗塞で倒れ監督を辞任。日本での監督実績はジェフと日本代表を合わせて4年間でした。「教授」と言われるほどの理論的かつ実践的な指導と解析度の高いビジョン形成が持ち味でした。ジェフの組織理念「育成のジェフ」を名実ともに具現化したのは、オシム氏でした。
 わたしはジェフが2010年にJ2に降格したあとからシーズンシートを購入するようになったので、オシム監督時代のジェフを知りません。だけどサッカー日本代表については1993年の「ドーハの悲劇」の時からずっと追いかけています。日本代表→オシム監督→ジェフという順番でサッカーの研究対象を絞っていったという感じです。今回は、私の中の日本代表ファンとジェフサポ(サポーター)をつなぐ特別な存在である「オシム監督」に焦点を当てて語ってみます。
 J リーグが始まった1993年当時、プロサッカーチームのすそ野はまだ広がらず、プロチームは10チームしかなくこれらのチームはオリジナル10と呼ばれています。ちなみに、1993年の看護系大学は全国で21校、看護学博士課程は3校でした。当時、大学院の学生だった私は、「看護の専門性とは何か、看護ってなんなのか」考え続ける日々を送ってました(そんなこと誰にも頼まれてなかったけど)。時々入ってくる海外の看護の状況にあこがれ、アメリカの看護に追いつく日が来るんかなーとアメリカで看護の博士号を取ってきたという先輩の話を聞きつつ、臨床でデータを取り続けていたあの日々以来、日本のサッカーの状況と日本の看護学の状況を重ね合わせコミットしつづけた30年でござった。

 てなわけで、今回は以降ずっとサッカーの話です。すみません。あらかじめお断りしておきます。でも、最後まで読んでいただけるとうれしいな。

Before オシム

 「このピッチの上、円陣を組んで、今散った日本代表は、私たちにとって“彼ら”ではありません。これは、“私たちそのもの”です。」

 この言葉は1997年11月16日、フランスワールドカップに向けたアジア第三代表決定戦でイランに勝利した「ジョホールバルの歓喜」と呼ばれる試合の開始直前にアナウンスされたもので、実況はNHKの山本浩さんでした。今考えると、ほんと代表選手も監督も大変なものを背負って戦っていたんだなと思います。“初めてワールドカップ出場資格を得る”ためにサッカーの先達たちがどれだけの苦労をしてきたのか、選手たちもよくわかっていたからこそ“絶対に負けられない戦い”と自分たちにプレッシャーをかけていたのかもしれません。マスコミもよく言ってましたよね。ワールドカップ予選の実況で「さあ、予選突破に向けて絶対に負けられない戦いが今始まります!」って。
 だけどチームの状況は、常に属人的で、中心的な選手が何とかしてくれるというサッカーでした。いつでも懸命にがむしゃらにみんなでボールを追いかけ、いろいろ難しいことは司令塔たのむよ、みたいなサッカーだったんですね。一方、だからこそ国民も自分たちのことのように感情を動かして応援してたのかもと思います。司令塔を任された中田英寿選手はそのあとちょっとサッカーに疲れちゃったのか、旅人として生きていくことになるんだけど。

In the Middle of オシム:サッカーの再定義

オシム監督@ジェフ

 オシム監督がジェフにやってきて、ジェフの選手たちに伝えたことは、まず「サッカーとは何か」という思想です。サッカーの再定義をしたんですね。
 サッカーとは「考えて走るものである」「走れ走れ、考えて走りんしゃい」とオシム監督に言われた選手たち。巻誠一郎選手はインタビューの中で、オシム以前は「考えて走っていなかった」と言ってました(やっぱり!!)。考えて走るサッカーは今では当たり前のことになっています。っていうか、サッカーは選手一人ひとりが自分たちチームと相手チームの状況を把握して自分が何をやるべきか自分で考えなくては成り立たないスポーツなんだよということをオシム監督はトレーニングをとおして具体的に示したのですね。
 「水をくむ人/水を運ぶ人/水を飲む人」という役割分担についても、その当時の日本では斬新な考えでした。ポジションで役割を決めるのではなく、また司令塔がなにかいろいろ指示するんではなく、動き続けるゲームの中で選手が自ら、ゲーム状況をみながら、今自分は水をくむのか(ゴールの起点になるパス)、運ぶのか(ゴールに近づけるパス)、飲むのか(ゴールに入れるパス、シュートですね)を考え実行するサッカーにオシム監督は変えたんですね。この考え方は当時、日本では珍しかったらしいですが、海外サッカーでは普通のことでした。そしてオシム監督は“水を運ぶことが得意な選手たち”のことが格別好きでした。水を飲むためには水を運んできてもらわなければならない、この考え方はチームに「献身性」へのリスペクトを植えつけたのでした。
 「勝者のメンタリテイがない。」優勝がかかった試合で緊張し、ぎこちなくなり自分たちが何をしなくてはならないかを見失った選手たちにかけた言葉です。勝者のメンタリテイとは、「ゲームに勝つ」というチームの達成目標を選手全員が共有しており、そこに向かってそれぞれが何をすればいいのかをわかっている状態です。また逆境にあってもくよくよせず、自分たちの力不足も受け入れ、負けたら根本的に再生に向かって努力する姿勢です。勝っても負けても一喜一憂せず迷いも不安もない。このような状態になるためには、日ごろから勝つために何をしなくてはいけないのかを考えて練習し、試合ではそのとおりにやるという地道なプロセスが必要です。その結果として勝敗が決まるだけのこと。だから“絶対に負けられない戦い”というものはない。
 オシム監督のサッカーの再定義のもと、ジェフの選手たちが自律的に動けるようになっていきます。その結果、ジェフのサッカーは美しく、楽しいものになっていきました。

オシム監督@日本代表

 日本代表の監督になったオシム監督が最初にやったことは、明確なビジョンの提示でした。それは「日本サッカーの日本化」。名言です。日本化って何なのか、選手たちの中にはわかった人もちょっと理解できなかった人もいたと思うんですが、そうか、今までとは違うんだなというのはみんな思ったと思います。そしてないものを探すのではなく、今ある強みを活かすんだと腹をくくったのかなーと推測しています。
 また、オシム監督は「頑張った人をスタメンにするのではなく、頑張る人をスタメンにするのだ」と言って、それまでの日本代表メンバーの選考方法を一新しました。若手がどんどん起用されました(ジェフの選手たちがオシム監督のビジョンを実現するために複数登録されたことで日本サッカーの千葉化と言われたけど)。監督のビジョンを実現するためには、ピッチの中で具体的に走って蹴ってそれを他の選手に見せられる選手が必要だったんだなと思います。それに練習方法があまりにもメタ認知を使う複雑なもので、やって見せて解説しないと選手たちが体を動かせないというか、練習が成り立たない状態だったんじゃないかな。つまり状況設定型シミュレーショントレーニングっすね。
 その当時の日本代表選手たちのインタビューでは、異口同音に「オシムさんの下でサッカーやりたくて」「オシムさんが監督だったら成長できると思って」と言っています。学びの雰囲気がすごくあったんだろうなあと思います。

After オシム:アイデンティティ・クライシス

 オシム監督のあと、岡田武史監督が南アフリカワールドカップまでを引き受け、勝つことに徹するサッカーをしました。そしてザッケローニ監督率いるブラジルワールドカップの代表選手たち。このときのアジア予選の頃の日本代表はほんとうにワクワクしました。選手たちの日常がとても楽しそうで仲が良くてサッカーの喜びにあふれていた。だけど、ワールドカップに向かって勝者のメンタリテイがなくなっていきます。「自分たちのサッカー」と主力選手の幾人かが言い出しました。ちょっといやな予感がしました。
 サッカーは相手がいて勝負を決めるスポーツですから、相手チームのことをよく考え、勝つサッカーをしなくてはいけないところ、自分たちのサッカー探しモードに入っていきました。「自分探すな職探せ」です。ブラジルワールドカップでは、相手チームではなく、自分たちのサッカーという幻想と闘ってしまった選手たち。なんか青春の挫折的なアイデンティティ・クライシスが起き、予選リーグで一勝もすることができませんでした。ワールドカップ優勝するために自分たちのサッカーをしたいという選手に、オシム監督がいたら、どんなコーチングをしたんだろうなあ、と今でも思います。

代表チームの青春の終わり

 そこから日本代表はチームを再生させ、数人の監督交代があり、最終的に西野朗監督がチームを率いてロシアワールドカップに向かいます。この時もわたしはアジア予選から見ていましたが、もうアジア予選で負けるチームではないこと、監督に依存したチームではないことは明らかでした。選手たちにとって、日本の皆さんにとってワールドカップに出場することは「絶対に負けられない戦いの結果」ではなくなっていました。日本のチームでやるか海外のチームでやるかはキャリアの選択肢となっています。選び抜かれたエリートが遣唐使みたいに国の期待を背負って海を渡るという感覚はもうありません。大人になるってこういうことなのね。ターンオーバー*1ができるほど日本の選手層は厚くなりました。代表チームの選手層が厚くなるということは、そのすそ野が広がったということです。ロシアワールドカップが行われた2018年、JリーグはJ1からJ3までつくられ、チーム数は57、笹川スポーツ財団のデータではサッカー人口は6.9万人となっていました。
 ロシアワールドカップ決勝トーナメント初戦、相手チームはベルギー、2点リードしながら、最後の最後9.35秒のカウンター*2で終わった試合。西野監督は選手たちに「ロストフの空を忘れるな」と声をかけました。
 サッカー日本代表の青春が終わったんだなと思いました。

*1 ターンオーバー:主力の選手を温存するために、重要局面ではない試合に主力外の選手中心で臨むこと。
*2 カウンター:相手チームからボールを奪ったらいっきに前線にパスしてゴールを狙う戦術。

「ともに歩もうこの時を 決して忘れぬ誇り 熱きプライド持ち戦え」

 『アメイジング・グレイス』はジェフの応援歌です。選手がピッチに入って来るのを迎える時、サポーターはそのメロディに乗せて「ともに歩もうこの時を 決して忘れぬ誇り 熱きプライド持ち戦え」と歌い、これから始まるゲームの勝利を祈るのです。
 2022年5月8日午後3時のフクダ電子アリーナ。ファジアーノ岡山戦の前にオシム監督の追悼式が行われました。ハイランドパイプで奏でられる『アメイジング・グレイス』のメロディとともに、オシムチルドレンの選手たちがオシム監督のフラッグをかかげ入場してきました。そして、「どんな個人プレイも、チームプレイには敵わない。勇人はそれを理解し、自分自身とチームを高いレベルに引き上げた」と、オシム監督が最も好きな選手と昔から公言していた佐藤勇人選手の、ジェフ引退セレモニー(2019年11月24日)の時に送られたビデオメッセージが会場のスクリーンに流れました。

 「ジェフはジェフだ。本来はJ1にいるべきチームだ。」「一歩一歩、進んでいくしかない。」

 5月8日午後3時のオシム監督のこの言葉を最後に読んでいただきたくて、ここまで書きました。読んでくださってありがとうございます。

酒井 郁子

千葉大学大学院看護学研究院附属専門職連携教育研究センター センター長・教授

さかい・いくこ/千葉大学看護学部卒業後、千葉県千葉リハビリテーションセンター看護師、千葉県立衛生短期大学助手を経て、東京大学大学院医学系研究科博士課程修了(保健学博士)。川崎市立看護短期大学助教授から、2000年に千葉大学大学院看護学研究科助教授、2007年同独立専攻看護システム管理学教授、2015年専門職連携教育研究センター センター長、2021年より高度実践看護学・特定看護学プログラムの担当となる。日本看護系学会協議会理事、看保連理事、日本保健医療福祉連携教育学会副理事長などを兼務。著書は『看護学テキストNiCEリハビリテーション看護』[編集]など多数。趣味は、読書、韓流、ジェフ千葉の応援、料理。

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