さて、実は私、第3回「『五感』と微生物」のお話で、味覚のところ、ちょっとごまかしたことが気になっていました。ところが最近、突如夢に出てきて思い出したことがあるんです。それはピロリ菌の「味」のエピソードです。なんと、ピロリ菌を自ら飲んだ研究者がいて、その「味」についての記録が残っているのでした。なんとも危険なことをしたものだと思います。
そこで今回は、第3回の「味覚」のリベンジとともに、体を張って、命を懸けて微生物や感染症の研究に打ち込んだ研究者たちのお話をしようと思います。
ピロリ菌を飲んで自らの体で病原性を証明した研究者
まずはピロリ菌のお話から。ピロリ菌の存在が論文で発表されたのは1984年ですが、実は胃に細菌がいることはそれ以前、かなり前から知られていたのです。それは胃の組織標本を顕微鏡で観察したときに、細菌が観察されることがあるという事実からでした。ところが、強力な酸性である胃液が分泌される胃の中では細菌は生きられないだろうから、これは顕微鏡の試料作製時に混入したものであって胃には細菌はいないのだと、当時の大御所の病理学者が断言したものですから、欧米の研究者はそれ以上反論できなくなっていたようなのです。
当時の画期的な発見もピロリ菌証明の追い風に
それからしばらく経って、オーストラリアの病院の研究者であったウォーレン(Warren JR)と、研修医のマーシャル(Marshall BJ,図1)は、胃に定着している細菌が胃炎や胃潰瘍・十二指腸潰瘍(消化性潰瘍)の原因ではないかとの仮説を立てました。欧米ではない、オーストラリアという土地の自由な雰囲気が、当時では「突拍子もない」と感じられるような仮説を立てられたのだと個人的には思います。
さらに、食中毒の原因菌として顕微鏡ではその特徴的な形(カモメが羽を広げたような、という意味で、seagull-likeと呼ばれる)で存在は証明されていたのですが、ずっと培養することができなかったカンピロバクターの分離培養法の開発に当時成功していたということが、時代の追い風となりました。
カンピロバクター属の菌は栄養要求性も特殊なのですが、培養条件が特徴的で、好気的な条件(酸素21%)でも嫌気的な条件(酸素0%)でもうまく発育できず、酸素が5%程度の「微好気条件」で発育する特殊な細菌だということがわかったのです。そして、ピロリ菌はそのカンピロバクターの培養条件が応用できる細菌だったのです。
認められない自説に業を煮やし……?
ウォーレンとマーシャルは胃炎や消化性潰瘍の患者にらせん菌がいることを1984年、Lancet誌に論文として発表し、Campylobacter pyloridisと呼べるのではないかと提唱しました(図2)。のちに種名のpyloridisはラテン語の活用語尾の誤りからpyloriとされ、またカンピロバクター属とは異なる性質が発見されたため新しくヘリコバクター属を設定し、現在ではHelicobacter pyloriと呼ばれています(図3)。
ところが当時の学界では、この菌が胃炎や消化性潰瘍の原因菌であるとは認められなかったのです。いわく、別の原因で先に胃の病気が発生していて、ピロリ菌の定着は後から起こった現象ではないのか、と。そこでマーシャルは意を決して、培養したピロリ菌を自ら飲むことで病原性を証明しようとしました。
その結果は1985年、Medical Journal of Australia誌に発表されています。同誌によると、マーシャルは菌を飲んでから10日目に胃炎を発症し、それは組織学的にも証明されました。そして14日目にはほぼ自然に治癒しました(論文では念のためその直後からチニダゾールを1週間飲んだとあります)。今思えばピロリ菌が成人に初感染した場合、持続感染することはまれであり、よかったとは思いますが、一歩間違えれば胃・十二指腸潰瘍で吐血するか、将来胃がんになる可能性すらあったかと思います。
この「人体実験」によって、学界もピロリ菌が胃炎や消化性潰瘍の原因菌であることを認めるようになっていきます。そしてマーシャルは2005年、ウォーレンとともにノーベル生理学・医学賞を受賞しました。
ピロリ菌は「沼の水の味」
さて、「人体実験」の結果の論文には、残念ながら(?)ピロリ菌がどんな味だったのかは記述されていません。ですが、マーシャルはノーベル賞受賞の翌年2006年に来日しており、そのとき日本のマスコミがこぞって「ピロリ菌はどんな味だったのですか?」と質問していまして、私はその当時の騒動を今になって夢で思い出したのです。たしか「沼の水の味がした」という感想だったと思います。おいしくはなかったようですね。
人気バラエティー番組でも紹介された研究者の「トリビア」
同じように消化管の病原菌を自ら「飲んだ」事例、私、昔テレビでやってた「トリビアの泉」(フジテレビ系列;2002~2006年)で見た記憶があるんです。
コレラ菌を発見したのはコッホです。第1回で登場した北里柴三郎の留学先の恩師でしたね。しかし、コッホが分離した菌はコレラの病原菌ではなく、コレラは環境因子によって起こると反論した研究者がいたそうで、彼はその自説を証明するためコッホが分離したコレラ菌を自ら飲んだということでした。
この逸話は後に読んだ『世にも奇妙な人体実験の歴史』(トレヴァー・ノートン著、赤根洋子訳;文藝春秋社、2012)の104-115ページに詳細に記述されていました。
1892年、ペッテンコーファー(Pettenkofer MJ)という研究者がコッホにコレラ菌のサンプルを送るよう要求しました。コッホは彼が自説を批判しているのを知っていましたので、研究のためと考えてコレラ菌を送付します。ところがペッテンコーファーはその菌を自ら飲みます。彼は1週間のあいだ、激しい胃けいれんと下痢を起こし続けたのですが、かろうじて治癒したのだそうです。ほんと、死ななくてよかったと思います。。。
自身の研究する病に侵された野口英世
自ら病原菌を飲むという実験は無謀ですが、自分が研究している感染症に罹患して命を落とす研究者は歴史的には少なからず存在します。前回のお話で登場した「人間発電機」、野口英世もそのひとりです(図4)。
彼は梅毒の研究のあと、ロックフェラー研究所の提案を受け、1918年、南米のエクアドルで黄熱の研究を開始しました。そしてまもなく、その原因が梅毒と同じように、ある種のらせん菌であることを証明したのです。さらにこの菌をもとにワクチンを開発し、患者発生率を減少させることに成功しました。
ただ、当時から黄熱はウイルス(当時は素焼きのフィルターを通過する性質から「ろ過性病原体」と呼ばれていました)が原因であり、野口が発見したらせん菌は、黄熱と同じような肝障害から黄疸を引き起こす「ワイル病」の病原体と同じ菌ではないかという反論もありました。1924年、アフリカで流行する黄熱には野口が開発したワクチンが効かないという結果を聞くと、1927年、野口はアフリカのアクラ(現在のガーナ共和国)に渡り、当地で黄熱の研究を始めますが、1928年5月、野口はその黄熱で死亡します。
これは私が中高生の頃にテレビで見たドキュメンタリードラマが提唱していた説で、うろ覚えで失礼しますが、そのドラマの中では自ら開発したワクチンの有効性を証明すべく自らの体を使ったような描写をしていました。実際のところ真実はどうなのか、今となっては分かりません。
発疹チフスリケッチア:リケッツとプロバゼク
感染症の研究者が自らその感染症に罹患して命を落とした事例をもうひとつご紹介します。
発疹チフスはコロモジラミが媒介するリケッチアという特殊な細菌が起こす疾患です。髪の毛につくのはアタマジラミ、陰毛に巣くうのはケジラミですが、コロモジラミは衣服につきます。そのため発疹チフスは厚着をする地域、つまり寒冷地で流行します。ナポレオン(1世)が1812年にロシアを侵攻したとき、「冬将軍」という寒さによって撤退を余儀なくされたとされますが、一説には兵士が発疹チフスに罹患して兵力を削がれたからともいわれます。それくらい当時の発疹チフスは致死率が高い疾患だったのです。
発疹チフスの病原体の学名はRickettia provazekiiですが、この名前には涙、なみだの物語が含まれています。
20世紀初頭、発疹チフスの研究をしていた研究者2名が相次いで発疹チフスに罹患し犠牲となりました。ひとりはアメリカ人研究者のリケッツ(Ricketts HT)で、メキシコで発疹チフスのフィールド研究をしていた際に自ら発疹チフスに罹患し、死亡しました。もうひとりはドイツ人研究者のプロワツェク(Provazek SV)で、彼もドイツで発疹チフスリケッチアに実験室で感染して亡くなっています。
実際の発疹チフスの病原体は1916年、ブラジル人研究者のダ・ロシャ・リーマ(H. da Rocha-Lima)によって発見されるのですが、彼はその前年、プロワツェクの死に立ち会っています。そして彼は自分が発見した菌に自分の名前をつけることをせず、先輩研究者だった2人の遺徳を称えるため、学名をRickettsia provazekiiとしたのでした1)。
私はいつも医学部の講義でこの話をしますが、本当の発見者であるダ・ロシャ・リーマの名前も忘れないでくださいね、と付け加えます。また私がこの話を初めて知ったのは自分が40を過ぎたばかりの頃で、リケッツとプロワツェクが病に倒れたのがともに満39歳という若さであったということに驚きました。同じ研究者として、胸にこみあげてくるものがありました。
菌の学名であったり、感染症が起こるメカニズムであったり、教科書に記述されていることはすべて、先達の研究者や臨床家たちが血と涙の努力をもって、時には身命を賭して明らかにしてきたことです。
その結果、私たち現在の微生物学者はバイオセーフティ実験室を用いて安全に病原微生物を扱うことができ、さらに研究を発展させることができています。臨床現場での感染対策が可能になったのも先人たちが培ってきた経験と知識の賜物です。感謝の気持ちを忘れないようにしなければなりませんね。
1)吉田眞一,柳雄介ほか(編):戸田新細菌学 改訂34版,p.475,南山堂),2013