最初から内輪の話で恐縮ですが、このコラムを担当してくれていた南江堂編集部のSさんが前回をもってめでたく卒業、というか異動となり、今回からSさんと同じく凄腕編集者としてその名を轟かせているYさんがビシバシと厳しく……いえ、あたたかぁく見守っていただけることとなりました。しかし! わたくしの原稿が遅れ気味なのは毎度変わらず。あの「原稿…お待ち…していますよ……」というSさんの地獄の呪文にかわり、Yさんがこれからどのように熾烈で過酷な攻撃(?)をしてくるのか戦々恐々としながら、今回も頑張ってお届けしたいと思います。
さて、このコラムを始めるにあたり、南江堂編集部の皆さんとわたくしとの間には一つの約束がありました。それは、できるだけ平易に、それでいて深い内容にするということ。深い内容になっているかどうかはともかく、今回はYさんが新たに担当してくれるにもかかわらず、早速「平易に」という鉄の掟を破ってしまったかもしれません。だってもう、タイトルの「龕」からして読めませんよね? もう少し下にスクロールしてもらったらすぐにご説明しますから。どうかYさんからボツの宣告が出ませんように……。
「がん」と読みます
……とYさんに向けて祈りつつ、まずはこの「龕」とは何かということをお話しておきましょう。これは「がん」と読んで、時と場合によって色々な意味を持つことがあるものの、一般には第6回や第8回などでも登場した輿、または棺のことを指します1)。まあ、現在ではあまり見かけることのない漢字であるのは間違いありません。とは言え仏教式の葬儀ではそれなりに用いられる言葉であり、たとえば葬列に向かうために出棺することを起龕(きがん)、棺に蓋をして閉じることを鎖龕(さがん)と呼んだりします。おとむらいに詳しい読者の方々はもしかすると鎖龕諷経(さがんふぎん)なんていう言葉を聞いたことがあるかもしれませんが、これもお坊さんが鎖龕に際してお経を唱えるという、葬儀を構成する大事な作法のひとつなんです。
ところで、この龕の製作を手掛ける職人のことをかつては龕師(がんし)と呼びました。この龕師たちの存在を歴史上の記録ではどこまで辿れるのかというと、なんと元禄時代の初めあたりまでは余裕で遡ることができます。生類憐みの令でおなじみの徳川第5代将軍・綱吉の治世、そして忠臣蔵の元ネタになった赤穂事件とほぼ同時代と言えば、どれだけ古いのかということが大体イメージしてもらえるでしょうか。それではここで、その龕師たちの記録を文書から少し紐解いてみましょう。
これは元禄3年(1690年)に刊行された、言わば当時の職業図鑑とも言える「人倫訓蒙図彙(じんりんきんもうずい)」という文書から抜粋したもの。職人が鉋(かんな)を持って「死人の死骸をいるゝ器物」である輿を削りながら仕上げている姿に加えて、仕事場には葬列に使う白張提灯・天蓋・龍頭(たつがしら)・灯籠なども描かれていますよね。時代を下ると龕師を龕大工と呼ぶ地域も出てきたことからも察せられるように、この龕師という職業は輿や棺だけでなく葬具全般の製作と販売を請け負っていた、木工職人であり「葬具業」でもあったのです。
この龕師も含めて、おとむらいを職業として請け負うさまざまな人びとの歴史を研究してきた奈良大学教授の木下光生氏は、遅くとも17世紀後半には上に述べたような葬具業が「ごく普通に存在して」おり、「絶対的な店舗数はともかく、業種そのものは広く知られるようになっていた」と指摘しています3)。ちなみに、先ほどの「人倫訓蒙図彙」の抜粋にある「誓願寺通富小路西ヘ入ル」という地名を見て、「こんな都のド真ん中に?」と思われた方もいらっしゃるのでは。そうですよ、この誓願寺というのは今も浄土宗西山深草派の総本山として長い歴史を伝えている名刹(めいさつ)。「京の台所」の異名を持つ錦市場にも近い富小路だって、修学旅行の定番コースですよね。こんな目抜き通りに店を構えられる職業なんてそうそうなかったであろうことを考えても、すでにこの時点で葬具業という職業が一般に普及していたという木下氏の指摘は至極妥当と言えるでしょう。
葬儀屋さんのご先祖様
第6回のコラムでは「それぞれの村や町などで独自に贅を凝らした輿を作っていた」と書きましたが、数多くの職業が集積して発展を遂げていた大都市ではこのように古くから葬具業が出現しており、その後さらに都市から村落にも広がって4)、求めに応じて人びとに葬具を提供していました。そして、この龕師をはじめ各種の葬具を木工職人として製作して販売する葬具業は、現在の「葬儀屋さん」という職業を生み出したルーツのひとつにも位置づけられているのです。
龕師以外の木工職人にも目を向けてみると、そんな「葬儀屋さんのご先祖様」には桶屋なども含まれます。江戸をはじめとする城下町などの人口密集地帯では、遺体をおさめるために急ごしらえで作った桶、つまり「早桶(はやおけ)」をおとむらいに用いることが珍しくありませんでした。そう言えば古典落語にも「早桶屋」という演目がありますね。この早桶を扱う職人が要するに早桶屋で、いずれにしても先ほどの龕(輿・棺)と同じく、おとむらいには必須の「死人の死骸をいるゝ器物」を手がける木工職人には違いありません。古い歴史を持つ葬儀屋さんのなかには「桶」の字を社名に含んでいたり、また「〇〇葬儀社」ではなく「〇〇“葬具”店」という社名を持っていたりする会社がありますが、このように龕師や桶屋などの「ものづくり」に携わる木工職人たちが徐々にその仕事を変化させて、現在のような総合的サービスを提供する葬儀屋さんへと進化を遂げていったケースは少なからず存在します。先ほど、龕師が後になって龕大工と呼ばれるようになったと述べましたが、なかには純然たる大工や、あるいは寺社仏閣の建造を手がける宮大工から現在の葬儀屋さんへと変遷をたどった会社もあります。
私自身もかつて、おとむらいに関連する業界の古老のような人びとに話を聞くと、しばしば「葬儀屋さんならば、昔は鉋と鋸(のこぎり)ぐらいはできなきゃ、っていう感じだったんだ」という話を聞くことがありました。つまり「棺などの葬具を自分で作ることができるぐらいの大工仕事はこなさないと」ということですが5)、さすがに分業化が進んだ現在では自社で葬具を製作する会社はほとんどありません。ただし、近代化してスマートになった今の葬儀屋さんにも、上に述べたような「ものづくり」の世界に連なる風潮は結構見受けられます。
亡き人を送るための、しっかりとした技能と知識。遺された人を支えるための、細やかな気配り。仕事の中身は変わっても、葬儀屋さんにはそんなところに「職人気質」や「わざ」を発揮してもらえたらうれしいですね。なお、今回登場した龕師・桶屋・大工などの職業以外にも、皆さんが「えっ?」と思うような多種多様な職業が「葬儀屋さんのご先祖様」として存在しているのですが、それはまた別の機会に……。
1)山田慎也:「龕」.民俗小辞典 死と葬送,新谷尚紀・関沢まゆみ(編),p.63-64,吉川弘文館,2005
2)著者未詳:人倫訓蒙図彙,1690
3)木下光生:近世三昧聖と葬送文化,p.228-229,塙書房,2010
4)前掲3), p.230
5)田中大介:葬儀業のエスノグラフィ,p.72,東京大学出版会,2017