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第3回:「たましい」ってなに?

第3回:「たましい」ってなに?

2023.09.14田中 大介(自治医科大学医学部・大学院医学研究科 教授)

 現在わたくしは連日の猛暑で絶賛夏バテ中。南江堂きっての才媛にして敏腕編集者のSさんが、電話の向こうから「原稿…お待ち…していますよ……」と地獄の呪文を伝えてくる声に怯えつつ、まるで魂が抜けたかのようにグッタリとなっているのでした。なので、今回のコラムはこれにて終わ……いや、大丈夫です! 昼食代をはたいて栄養ドリンクを買ってきましたから!

 それはともかく、思わず「魂が抜けたかのように」なんて言ってはみたものの、それでは魂とはいったい何なのか? 実はこれ、第2回の「人間は死を想像する力を獲得してきた」という話題に通じるだけでなく、大きな謎をわれわれに投げかけているのです。

また会おうね!

 魂という言葉の概念と用いかたはきわめて多様で、それこそ時代によっても異なるわけですが、現代ではどのように考えられているのでしょうか。たとえば国語辞典では以下のような定義が与えられています。

たましい【魂】

 動物の肉体に宿って心のはたらきをつかさどると考えられるもの。古来多く肉体を離れても存在するとした。霊魂。精霊。たま。
[新村 出(編):広辞苑,第7版,p.1828,岩波書店,2021より引用]

 生きているうちは肉体のなかに宿っていて、その肉体が朽ち果てても存在する。そして何やらいろいろとつかさどる、つまりコントロールする力を持っているらしい。けれども目には見えず、人智の及ばない超越的な存在でもある。このような、日本語で表現される魂のイメージが世界各地の文化にそのまま当てはまるわけではありませんが、多くの人びとにざっくりと共通するものではありそうです。第2回で登場したファースト・フラワー・ピープルのネアンデルタール人たちも、おそらくそのようなイメージを持っていたからこそ、花を手向けて弔いをしたのかもしれません。

 ここで第2回のコラムで示した「シャニダール洞窟4号遺跡で発掘された人骨」の図をご覧ください。体をヨイショと窮屈に折り曲げていますよね。この姿勢は一般に「屈葬(くっそう)」と呼ばれていて、日本でもとくに縄文時代の埋葬法としてよく見受けられるものです。

 皆さんには、どのようなポーズに見えますか? え、小さな子どもがよくやるダンゴムシのポーズ? まあ、それも間違いではないですが……ほかに何か思い当たりませんか。お母さんのおなかのなかにいて、この世界にやってくる肉体と魂。そう、「胎児」です。これもまた解釈のひとつにすぎませんが、ネアンデルタール人も縄文人も先ほどのような魂の概念を持っていて、朽ち果ててしまった肉体の魂が再び新たな肉体のなかに宿り、生まれかわってほしいという願いを込めていたことも十分に考えられます。

もう来ないで!

 ところがどっこい、そうは問屋がおろしません。なんと近年に発掘された縄文人の遺跡では、屈葬の姿勢でありながら明らかに上半身と下半身を切断して折り重ねているとしか考えられない人骨も出土しているのです。よく時代劇などで「ええい、お前など二枚に重ねて叩き斬ってくれるわ!」というセリフを聞きますが、まさにそれです。
 ……とすると、生まれかわりを願うどころの話ではありませんよね。

上半身と下半身が切断されて出土した縄文人の人骨

上半身と下半身が切断されて出土した縄文人の人骨
黒線 :上半身。
朱線 :下半身。
本来は隣接しているはずの第 3 腰椎と第 4・5 腰椎が離れた状態で出土していることから、
上半身と下半身が切断されていたことがうかがえる。
[谷口康浩(編):居家以人骨の研究Ⅰ;早期縄文人の社会と葬制, p.28(第25図), 六一書房, 2023より引用]


 先ほど述べたように魂は肉体が朽ち果ててもいろいろとつかさどる力を持っていて、時には生きている人間に災いをなすことだって朝飯前とすれば、死者の魂を断ち切りたい、もしくは封じ込めたいという願いを持つことだってあるでしょう。そしてこの封じ込めるということに関して言えば、縄文時代後期あたりから弥生時代にかけて多くの発掘例がある「甕棺(かめかん)」もそのひとつ。
 

吉野ヶ里遺跡で出土した甕棺(複製による再現)
吉野ヶ里遺跡で出土した甕棺(複製による再現)
[Abasaa:Burial Jar Rows Resting Place(Yoshinogari Site)(甕棺墓列).
ウィキメディア・コモンズ(Wikimedia Commons), 2015, 〔https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Burial_Jar_Rows_Resting_Place_(Yoshinogari_Site).JPG〕(最終確認:2023年8月29日)より引用] 

 屈葬は世界中に分布していますが、この甕棺も日本を含むアジアの各地に分布している典型的な古代の埋葬法です。2つの甕を互いに合わせたり、1つの甕にフタをしたりするなど形状は多彩ですが、まさしくギュッと封じ込めて外に逃がさないようにも見えるでしょうか。今度は逆に、「もう絶対に会いたくないし、戻ってこなくていいし、そもそも戻ってきちゃダメ! 」という悲痛なまでの願いが垣間見えそうです。

 ただし正直に言うと、この甕棺だってお母さんの子宮に見えなくもありません。それに加えて甕棺の中におさめる亡骸はだいたい屈葬の姿勢なので、どんな思いと願いを持っていたかはタイムマシンにでも乗って古代の人びとに聞かない限り正確にはわからない点も数多く残されています。さらにヤヤコシイことを言えば、実のところ屈葬や甕棺に属する埋葬法は近世あたりまでとくに珍しいものではありませんでした。現代ではほとんどの人が「墓を掘る」なんていう経験はしたことがないと思いますが、人間1人の遺体を埋められる大きさの穴を掘るのは結構な重労働。なので、亡骸にはちんまりと丸まっていてもらったほうが、都合がよいと言えばよいのです。

「たましい」と「いのち」

 いずれにしても、生きている間の人間関係だって「好き」か「嫌い」かで竹を割ったようにスパッと割り切れるものではありませんよね。それは死者に対する感情も同様で、「今までありがとう。でも、もう来ないでいいよ」と優しく語りかけるときもあれば、「アンタには迷惑かけられたけど、お互いあの世にいったら仲良くやろうぜ」と愛憎が入り混じった気持ちで接することだってあるに違いありません。ただひとつ言えるのは、このように死んだ後も魂という存在がどこかにいるという思考や感情は、単純に「身体機能が停止する=生命が終わる」とは受けとめられないという、人間が連綿と積み重ねてきた生命観や死生観を土台にしているということです。

*   *   *

 それでは生命とはいったい……と、ここで栄養ドリンクのエネルギーが切れてしまいました……。わたくしは来月の掲載を無事に迎えることができるのか? ボロ雑巾のように疲れ切った肉体であってもしがみつくように、魂をSさんにエンパワーされ、勇猛かつ果敢に次回の原稿に立ち向かうのか! というわけで、この続きは次回に。

田中 大介

自治医科大学医学部・大学院医学研究科 教授

たなか・だいすけ/1995年に金沢大学経済学部経済学科卒業後、三菱商事株式会社入社。6年間の商社勤務を経て2001年に東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻に入学し、修士課程および博士課程を修了して博士(学術)取得。早稲田大学人間科学学術院などで教職を経て、2020年に自治医科大学医学部・大学院医学研究科教授に就任。専門は文化人類学・死生学。大学院生時代は葬儀社に従業員として数年間勤務するというフィールドワークを展開し、その経験をもとに執筆した『葬儀業のエスノグラフィ』(東京大学出版会,2017)をはじめ、主に現代的な葬制への関心を通じて「死をめぐる文化」の調査研究を進めている。

企画連載

おとむらいフィールドノート ~人類学からみる死のかたち~

人間が死ぬってどういうことなんだろう……。このコラムでは、人類学者である筆者があれこれと書き留めていくフィールドノートのように、死・弔い・看取りをめぐる幅ひろく豊かな文化のありかたを描き出していきます。ご自身が思う「死」というものを見つめ直してみませんか。

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