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第12回:私の人生哲学

第12回:私の人生哲学

2023.12.26川瀬 貴之(千葉大学大学院社会科学研究院 教授)

 文系の教養分野では、その議論の価値や水準の高さを、エビデンスの確かさや内容の新規性というよりも、どういう人生を歩んできた人が言っているのか、という観点から判定することがあります。語り手の、知的背景が非常に重要なわけです。そこで今回は、看護の倫理に限らず、より一般的に、私個人の価値観について語ることで、なぜ川瀬はこんな変なことを言うのか、と訝っている方々に、私の真意をより正確に理解していただくきっかけになればと思います。

 また、当然、私の個人的な価値観に賛同できないという方も多いと思いますが、今回に限っては、学説の解説ではなく、私見の紹介ですから、大目に見ていただきたいですし、そのような方も、論敵の言っていることをよく理解することで、ご自身の考えを、より良く磨く手がかりにしていただけると思います。

私の反倫理主義

 最初から語弊のある題になっているので、より正確に言えば、これは、表面的で形骸化した「倫理」を標榜することに反対するものである。たとえば、誰も望んでいない新年の挨拶をしなくてはならないという義務があるとして、そんなものは、倫理ではなく、体面や体裁である。世間体というのは、本当の倫理から、最も遠いものである。同種の語用のねじれは、「真面目」という言葉にも言える。言われたことを唯々諾々とこなすことは、真面目でも何でもない。自分で考えることをさぼっている、最も不真面目な態度である。本当の意味で真面目に倫理を考えたいものである。

 このような私の考え方は、世間の多くの「べき論」に対する不信感から来ている。べき論で倫理や道徳を喧伝することほど信用できないものはない。「鬼畜米英」が、一夜で「非武装中立」に転向するのだから、むべなるかなである。どちらの「べき論」も絵空事であるし、そもそも多くの者が、本心からそうすべきと思っておらず、心の底からそれを信じ切れていないから、そういう無節操な転向をすることになるのである1

 そのような偽物の規範・倫理・道徳よりも、私が信用しているのは、心の内から自然に湧いてくる欲望である。このページのサムネイルのコウモリは、carpe diemと言っているが、これは、その日を摘め、つまり今日を楽しめという意味であり、死を想えというmemento moriと併記されることの多い文句である。私はこれを、いわば快楽主義のスローガンとしてサムネイルに挙げさせてもらった2。つまらない世間体など気にせず、本当に自分がやりたいことは何なのか、内なる声に正直になれば、私たち自身も、取り巻く人々も、より生き生きとするはずである。楽しいことだけを追求していては、皆が自分勝手な行動に走り、社会的な義務を果たせなくなる、と言われるかもしれないが、本当にそうなのか、よく想像してみてほしい。

 ただ、少しだけ訂正すると、ここで否定した「べき論」は、「社会」がこうあるべきという倫理的主張である。私は、「自分自身」について、立派な看護師になりたいとか、愛される先生になりたいとか、痩せてかっこよくなりたいとか、何らかの理想像や「べき論」を持って努力しない人は、尊敬できない。それに対して、社会とか他人とか「われわれ」についての、あるべき姿に強くこだわる人とは、あまり深くお付き合いしたくない、ということである。

私の反知性主義

 これも、同僚の学者先生からお𠮟りを受けそうだが、頭でっかちになってはいけない、理屈ですべて解決できると思ってはいけない、ということである。現実からかけ離れたマニュアルが重んじられる傾向は、いつの時代も、どの業界にもあるように思われるが、論語読みの論語知らずとか、策士策に溺れるとか言われないようにしたいものである。

 知には、言語化・数値化が可能で、それによってより効率的に伝達できるもの(理論知)もあるが、他方でマニュアル化できず現場での見様見真似でしか体得できないもの(実践知)もある。決して前者を軽視するわけではないが、後者にもっと注目すればよいのにと思う。

 この意味で、私は知性や理性を全否定しているわけではなく、普段から勉強していない人は、尊敬もできないし、話していても面白くないことは認めつつも、それが万能であることを否定しているのである。いざ行動するときには、勉強したことや、手元のカンニングペーパーを、一旦全部忘れて、目の前の現実に向き合わなくてはならない。あなたは、デートの最中に、目の前の恋人ではなく、恋愛指南本を見るだろうか。

私の保守主義

 私は、教授会など日々の仕事3のやり方として、平和主義、悪く言えば事なかれ主義を信条としており、要するに保守的なのだが、これは物事を変えたくないからではなく、むしろより実効的に変えていきたいからである。

 保守主義は、理想主義と対比されるところの現実主義に拠って立つ。世界平和とか人類の救済とか、大きな理想を語るのも良いが、まずは自分の足元の問題を整理するところから始めるべきだと考えるのである。

 真剣に改革したいことがあるのなら、まずは戦うべき本当の敵を、ぐっと絞り込み、それ以外の事柄については、要らぬ喧嘩はせずに、徹底的に保守的に振る舞うのが、最も改革を成功させる賢明な戦略ではなかろうか。まずは喧嘩はしない、するのなら勝てる喧嘩だけをする、どうしてもやるべき喧嘩は、勝てる力を備えてからやる、社会を変えたいならまずは社会の中で偉くなれ、というのが保守主義者の改革戦略である。

 私のような保守主義者に対しては、長いものに巻かれる、権力の犬、与党体質との批判もあるが、必ずしもそういうわけでもない。大きな権力に抵抗するよりは、より身近にある不当な権力を、まずは標的にしているだけである。大きな権力を批判すれば、自分も大きくなったように感じて、気分が良いかもしれないが、あまり自分と関係のない権力を口だけで批判したところで、それは反権力でも何でもない。何事も、着実に、である。

* * *

 さて、次回からは、看護の倫理の2つ目の柱、「福利」をめぐる議論に入りたい。

もちろん、例は少ないだろうが、心の底から何らかの「べき論」にコミットしている者が、世情に依らず、志を貫徹するのなら、これは尊敬すべきである。

2この観点と、次の反知性主義の観点から、興味深いのは、フェリシアン・ロップスのスキャンダラスな絵画、Pornokratés ou La dame au cochon(ポルノクラテスあるいは豚を連れた女)である。目隠しされた裸婦が、欲望の象徴である豚に引き連れられ、ハイヒールで、文学や音楽など高尚とされている芸術を踏んで行くのであるが、これが法学や哲学であったらどうだろうと、私はにやけながら眺めている。(参考:https://collection.nmwa.go.jp/G.2003-0065.html

3日々の仕事だけではなく、天下国家のことについても、私は保守主義的であり、このコラムでは毎回、それは敢えて表現はしていないつもりだが、意図せずに、どこかの言い回しに現れているかもしれないので、そのつもりで読んでいただけると、解ける疑問もあるかもしれない。

川瀬 貴之

千葉大学大学院社会科学研究院 教授

かわせ・たかゆき/1982年生まれ。専門は、法哲学。京都大学法学部卒業、同大学院法学研究科法政理論専攻博士後期課程修了。博士(法学)。千葉大学医学部附属病院講師などを経て、2022年10月より現職。好きなことは、旅行、娘と遊ぶこと、講義。耽美的な文学・マンガ・音楽・絵画が大好きです。好きな言葉は、自己鍛錬、挑戦。縁の下の力持ちになることが理想。

企画連載

人間の深淵を覗く~看護をめぐる法哲学~

正しさとは何か。生きるとはどういうことなのか。法哲学者である著者が、「生と死」や「生命倫理」といった看護にとって身近なテーマについて法哲学の視点から思索をめぐらし、人間の本質に迫ります。

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