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第10回:これまでもこれからも、“日常”を思いのままに

第10回:これまでもこれからも、“日常”を思いのままに

2022.10.14小山 珠美(敦賀市立看護大学 助教)

患者への関心に導かれた臨床時代

 私は手術室ナースとして看護師のキャリアをスタートさせた。経験を重ねるにつれ、手術を受けた患者がその後どのような過程をたどるのか知りたい、患者が退院するところまで見届けたいという思いが募っていった。そこで志願し、集中治療室、それから外科病棟へ異動した。
 外科病棟には、種々の手術を終えて回復過程をたどる患者もいれば、術後のさらなる加療を行っている患者、終末期を迎えようとしている患者も入院していて、医師たちはどうしても術直後の患者にかかりきりになってしまう。そのような状況で、患者が体験する苦痛の中でも、とくにがんの痛みというのは、介入すべき大きな問題だと感じていた。しかしまだ日本で緩和ケアが浸透しているとは言えない時代だったから、がん患者が痛みを訴えても、医師も看護師も、十分に術を持ち合わせていなかった。私自身、患者の痛みをどうにかしたいと願っても、知識がないので医師らとチームカンファレンスを行うことすらできなかった。そこで、がん性疼痛看護認定看護師の教育課程で学んだ。
 半年後、がん性疼痛看護認定看護師として新たな病院に入職した。コンサルテーションを通じてがん性疼痛のある患者への看護を行う中で、痛みは適切なマネジメントにより緩和できることを実感した。すると今度は、患者の退院後を案じるようになった。自宅で痛みのマネジメントができるのだろうか、と。もし難しい状況があるなら、そういう人たちを支えたいという思いを抱いた。そして訪問看護・在宅診療の道へ進み、また新しい視点から患者を見つめる経験をもった。

かつての上司からの誘いで、教育の道へ

 こうして約20年、看護師として勤めたが、家族の病気がきっかけで私は臨床を離れ、関東から実家のある九州に戻ることになった。
 そんなある日、立ち寄った駅の公衆トイレで個室に入らんとしたまさにその時、携帯電話が鳴った。なんともタイミングが悪く、しかも見覚えのない番号からの着信だったにもかかわらず、なぜかその時の私は電話に出ていたのだ。すると、「久しぶり、今どうしている?」と、懐かしい声が聞こえてきた。新人時代に勤めた病院の上司からの電話だった。聞けば彼女は、ある九州の大学に看護教員として勤めていて、私が同じ九州に戻っていたことを知るや知らずや、その大学を手伝ってくれないかとの誘いだった。ちょうど家族の病気のことも落ち着き、そろそろ仕事に復帰したいと思っていたこともあり、迷いはなかった。

 そうして教員となった1年目の冬のある日、学生たちが集まるラウンジの一隅である学生を見かけた。明らかに顔色の悪い彼に、声をかけずにはいられなかった。すると、「実は今までだれにも言えなかったのだけれど…」と、以前から消化器系の難病を抱えており、4年生の国家試験を目前に控えたこの時期に病気が増悪してしまっているのだと打ち明けてくれた。まったく食事を摂れておらず、体調が良いわけもなく、国家試験を受けられるかどうかという状況であることが見て取れた。しかし彼は、4年間がんばってきたから国家試験受験を1年先延ばしにはしたくない、どうしても受けたいのだと強く希望した。教員1年目の自分が出しゃばっていい場面なのか、彼の真摯な思いと身体状態について受け止め切れるのかと悩んだが、希望を叶えられるように動かなければならないと思い直した。彼の主治医はすぐに入院し加療するよう勧めたが、国家試験の受験が終わるまで入院はしたくないという本人の強い意思を尊重し、試験当日に看護師(教員)が付き添い、万が一のことがあれば点滴投与するという条件がクリアできるのであれば、受験しに行っても良いと許可した。そこで私は、本人の同意を得て、周囲の先輩教員に相談し、別室受験ができるよう手続きを取ってもらった。「小山先生に一緒に来てほしい」という本人の意向に沿う形で、試験当日は私が教員として、また看護師として、彼に付き添うことになった。
 そうして必死の思いで受験した彼は、主治医との約束どおり試験翌日には入院し、卒業式も入院先からの外出という形での出席となった。

 国家試験の日、試験会場からの帰り道に彼と一緒に食べたお団子の味は今も忘れない。何一つ口にできなかった彼が、顔色は悪く疲労困憊の中にも充実感に満ちた表情で、一口ずつ食べる姿を見て、彼が無事であることに何より感謝した。そして、病気の再燃でどれほどか辛かっただろう心身の状態にもかかわらず、自身をあきらめず、やり切った彼の持つ力がしっかり見えた。学生は、必ず次世代につなぐべき大切な存在であることを確信した。
 看護教員としての私に必要なことは、学生が目指したい方向へ進んでいくことを見守り、支えるということなのだと、彼に教えられたような気がする。彼は晴れて国家試験に合格し、現在も看護師として活躍している。

ひたむきな学生たちの姿に、刺激をもらう日々

 臨床時代、患者への関心が原動力になっていたように、教員になってからも、みずみずしくも力強く成長してゆく学生たちの姿に刺激を受けながら日々を歩んできた。学生は可能性のかたまりであると感じさせてもらうことばかりだ。

 実習指導を担当したある学生は、下肢を骨折した60歳代の男性患者を受け持った。患者は一日中、カーテンを閉め、ベッドで目を閉じて過ごしていた。病棟の看護師がリハビリテーションを促しても応じない。ところが学生がベッドサイドにいることは受け入れてくれたのだ。戸惑う学生に私は、「なぜ患者はカーテンを閉めて、ずっと目をつむっているのだろう。なぜリハビリテーションをしたがらないのだろう」と考えさせた。そして学生は、“ただそこにいる”ことを一生懸命に行った。無理にリハビリテーションに誘ったり、話を聴き出そうとはしなかった。そうしていると、さすがの患者も学生のことを気にかけ、ぽつりぽつりと話してくれるようになった。そして学生は、もともと大工として働いていたという患者の、「リハビリテーションをすれば歩けないということを思い知らされ、情けない自分を自覚しなければならない」と苦しみ、歩けるようになること、生きていくことの意味を見出せずにいた心の内を知った。
 そうしたかかわりを経て、閉じられていたカーテンが開くようになり、患者は少しずつリハビリテーションに臨むようになったのだ。学生も悩みながらではあったが、その存在そのものが、患者に前を向く気持ちを呼び起こさせたのは確かだろう。

おわりに

 こうして振り返ると、私はいつも目の前の対象の存在に力をもらい、その時その時の思いのままに突き進んできた。臨床時代は、周術期看護に始まり、がん看護、在宅看護を経験し、教員になってからも、いくつか大学を移りながらその時々で求められるままに、さまざまな領域を担当させて頂いた。何をしてもどこにいても、おもしろさを実感することばかりだった。良くも悪くもこだわりがないのだ。だから今、大学教員という立場上、「あなたの専門は何ですか」と問われることがあるが、いつも答えに窮してしまう。明確な目標をもち、自らの専門性を磨き続ける周囲の先生方の姿に、どこか引け目を感じることもある。私のアイデンティティはいったい何なのだろうかと。
 一方で、こうしたこれまでの歩みは、やはりかけがえのないものであった。そしてどの瞬間も、私にとってはあくまで“日常”のひとコマだったのだと、改めて感じる。そんな“日常”が、かかわるだれかにとって、ほんのわずかでも光を兆すきっかけになっていたら、それほど喜ばしいことはない。これからも私は、“日常”を思いのままに歩いていくのだろう。 

小山 珠美

敦賀市立看護大学 助教

こやま・たまみ/慶応義塾大学大学院健康マネジメント研究科看護学専攻修了。がん性疼痛看護認定看護師。虎の門病院、東京逓信病院、横浜市立市民病院、在宅療養支援診療所等で看護師として勤務。東京医療保健大学東が丘・立川看護学部助教を経て、2021年より現職。Suica生活から四季折々の楽しみが感じられる街に住むこととなり、学生時代に取得し身分証明書と化していた運転免許証が大活躍している。

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